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朗読劇『この夏を忘れない』と、『トランクの中の日本』

2010-08-02 05:13:00 | 徒然なるままに
7月29日(木)

今日は、午前中は、英語と数学の補習4日目を終えた後で、佐倉市立美術館で開催中の教員美術展を見に行った。

みんな、仕事を持ちながら、ちゃんと自分の作品を制作していて。えらいなあと持った。
来年もこの部会に所属できたなら、私も作品を出品させてもらおうと思った。

ランチは、美術館の近くのSUN RIZEで食べようと思って行ったら、時間外だった。でもちょうどマスターが夜の仕込みをやっていて、私のためにお店を開けてくれ、焼きカレーを作ってくれた。
マスターが、
「今度、九州から高校生2人が上京しきて、うちの店でライブをやるんだけど」
と誘ってくれた。

その高校生たちに、マスターが
「何で、九州からはるばる佐倉まで来てライブやりたいの?」
と聞いたら、
「BUNP OF CHIKINに憧れて」
と答えたのだそうだ。
以前上京した時は、BUNPのメンバーたちが働いていた居酒屋のランチを食べにいき、思わず感極まって泣きながら食べたのだそうだ。
彼らにとって、佐倉は「聖地」なのだ。
ビートルズファンにとって、リバプールがそうなように。
そんなピュアなハートの持ち主たちのライブを、ぜひ聴いてみたいと思った。

BUNPの歌は、(私の授業の)中学生の美術の課題CDジャケット・デザインの定番で、その話をしたらすごく興味津々で聴いて下さった。


午後からは小・中学校合同の『道徳研修会』に参加。会場に来ていた元同僚たちにも久しぶりに再会できた。

     *(ひまわり)*     *(ひまわり)*     *(ひまわり)*     *(ひまわり)*     *(ひまわり)*


夜は佐倉市民音楽ホールで、女優たちによる朗読劇『この夏を忘れない』を観劇した。
市内の佐倉東高校の演劇部の生徒たちも参加しての舞台だった。
広島・長崎の被爆者の方々の手記や作文、詩を朗読し、その後のスクリーンには、当時の被爆直後の写真だけでなく、戦時中ながら明るく屈託のない笑顔で元気に遊ぶ子供たちの様子なども映し出されていた。

特に、最後の、「それぞれのさよなら」と題された、広島1中の生徒たちの「最後の言葉」と、その後に浮かび上がる中学生たちの笑顔の写真には涙が止まらなかった。

私自身、現在中学生の親であり、中学生を教えていて、当時の母親たちは、教師たちは、どんな思いでいたのだろう。と思わずにはいられなかった。
あんなに大変な目に遭いながら、自分の痛みなどよりも母親を気遣う言葉に、どれだけ癒され、どうしてあげることもできない自分に絶望し、この戦争を呪ったことだろう…。

今回、大変興味深かったのは、原爆投下後の惨状を撮影する任務を受けて来日した、軍用写真家ジョー・オダネル氏の写真と手記の紹介だった。
ここにも、終戦後も『終わらない戦争』を身の内に抱えて、苦しみ続けてきた人がいたということを知った。
「リメンバー・パール・ハーバー(真珠湾攻撃を思い出せ!)」
と正義感にあふれ、敵国日本を壊滅させることだけを念願に戦い、原爆投下後は、
「これで戦争は終わった」
と、戦争を終わらせた国の軍人として、意気揚揚上陸した若き米軍写真家のファインダーを通して見た、キノコ雲の下の惨劇や孤児たちはどんなふうに映ったのか・・・。
彼は、帰国後、放射能による後遺症に悩まされ続けるが、それ以上に、戦争を終わらせるためと言いながら起こしてしまった「原爆投下」と言う自国の罪に生涯責めさいなまれることになるのだ。
その彼に転機が訪れる。トランクに封印し続けてきた、自分の撮った『1945年8月6日』の写真を公開することに決めたのだ。

私は彼の勇気に頭が下がる。
被災者の立場でも思い出したくないあの日を、原爆投下をした国の軍人として、自分たちが何をしたのか、あのキノコ雲の下での惨状をつぶさに記録した写真を世に公開するのには、そこに至るまでどんな葛藤があったことだろう。
数十年の年月を経て封印を解かれた、当時の若きカメラマンがとらえた被写体を観る老いた写真家は、どんな思いでその写真を見、世に発表する決意を抱いたのだろう。

私は、会場で販売していた彼の写真集『トランクの中の日本』http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4095630132.htmlを買った。

終演後、ロビーで出演者の方々を囲んでの座談会があった。
会場には、実際に長崎で被爆された方がいらっしゃって、出演者の方々への感謝と慰労の言葉とともに、ご自分の被爆体験やその後の平和活動について話され、大変感銘を受けた。
また、出演した高校生の感想も、こちらも思わずもらい泣きしてしまうくらい、ピュアな感想だった。

私は、
「9月に、国語科の教員と司書の先生と演劇部顧問の私の4名で、皆さんの前回の作品『この子たちの夏』の朗読劇をやることになっているので、今日、ぜひ、参考にさせていただきたく、観劇させていただきました。
当時、自分たちと同い年の子どもたちや、それより小さい子どもたちの描いた詩や作文を聴いて、中学生たちがどんなふうに感じるのか、教科書に載っている詩がどんな状況の中で生まれたのか、それにはどんな思いが託されているのか、しっかり伝えなくては。と思いました。
 特に、今日一緒に連れてこようと思った中学生の娘に、
『私は原爆の話が嫌い。どうして私の誕生日は8月7日なの?広島と長崎の原爆の日に挟まれて、この時期は戦争の話ばっかりやってて、ちっとも楽しくない。小さいころから戦争の話が嫌いだった』
と言われてしまいました。
まずは、どうしたら娘にこの時代と向き合えるようにしてあげられるかを考えなくてはと思いました。」
と感想を述べた。

そうしたら、座談会が終わった後、出演者の皆さんから励ましの言葉をかけてもらい、とても感激した。

娘の気持はわからないでもない。私自身も、中学生の頃は歴史は好きだったが、この第2次世界大戦の時代が嫌いだったからだ。
永久戦犯と字こそ違うが同じ読み方の旧姓を持つ当時の私は、そのことで、心ない教員にからかわれていたのだ。
彼はわざと私を「○○閣下」と呼ぶのだ。
私は社会科で日本軍が当時何をしたかを学ぶたび、まるで自分が責められているように辛かった。

私がこの時代と向き合うことができるようになるには、その後5年かかった。

娘が自分の誕生日を好きになるかどうかは娘次第だが、そのフィルターが邪魔をして、大切なことを学んだり感じたりすることに対してのストッパーになっているのなら、その日に産んだ母親として、何とかしてあげたいと思う。

まずは、私自身が「戦争」をどう考えるか。次代を担う子ども達にどう伝えていこうとしているのか。
その生き様を娘に示したい思う。

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