8月で終わる筈の仕事が、昨日まで伸びて、
今度こそは、ゆとりができると信じた昨日。
今度こそは、ゆとりができると信じた昨日。
事務所に戻ったら、だぁ~っと、あれもこれも、
お願いしますの箇条書き。
病みの身体、誰かにやらせろと、と思ったけど、
まっ、好きなペースで出来る、思いが喉元で盆踊り。
お願いしますの箇条書き。
病みの身体、誰かにやらせろと、と思ったけど、
まっ、好きなペースで出来る、思いが喉元で盆踊り。
何かやっていれば、気もまぎれるしね・・‼
江戸時代、群馬県で生まれた彫刻集団も、
末期になると、彫り物師の仕事も多方面になって、
彼らへの仕事依頼はどこから出たのかと、知りたくなります。
須影八幡神社の彫り物師は、
群馬県みどり市花輪に住む、3代目石原常八なのですが、
歩けば、12時間ばかり。
彫刻の注文も少なくなってきた江戸末期、
本人が単独営業するには、ちと疑問。
末期になると、彫り物師の仕事も多方面になって、
彼らへの仕事依頼はどこから出たのかと、知りたくなります。
須影八幡神社の彫り物師は、
群馬県みどり市花輪に住む、3代目石原常八なのですが、
歩けば、12時間ばかり。
彫刻の注文も少なくなってきた江戸末期、
本人が単独営業するには、ちと疑問。
彫り物師は、宮大工の棟梁が居なければ、
成り立たない職業で、
宮大工棟梁は、施主から満足のいく請負金を得るため、
出来栄えの為に、売れっ子の彫り物師を雇い、
成り立たない職業で、
宮大工棟梁は、施主から満足のいく請負金を得るため、
出来栄えの為に、売れっ子の彫り物師を雇い、
造営の出来栄えを誇る。
地元の宮大工棟梁、
宮大工、清水仙松、三村若狭正利は、若いころ、
群馬県邑楽郡板倉町の、
雷電神社の造営(1835年)に参加していた記録、
胴羽目板に彫刻は、3代目常八主利の親父。
2代目石原常八主計。
当時3代目は、腕の立つ25歳。
共に若かった宮大工と彫り物師。
群馬県邑楽郡板倉町の、
雷電神社の造営(1835年)に参加していた記録、
胴羽目板に彫刻は、3代目常八主利の親父。
2代目石原常八主計。
当時3代目は、腕の立つ25歳。
共に若かった宮大工と彫り物師。
5年前、榛東村の宿稲荷(1860)を彫り終えての仕事。
農耕の神を祀る須影八幡神社造営の、
地元宮大工棟梁の誘いに、
3代目が駆け付けたのが、理解できます。
農耕の神を祀る須影八幡神社造営の、
地元宮大工棟梁の誘いに、
3代目が駆け付けたのが、理解できます。
👇 木鼻の獅子。
図案は誰が描いたかは不明ですが、
前足の置き場所を変えた、躍動感を見入ってしまった
前足の置き場所を変えた、躍動感を見入ってしまった
地元、入江文治郎茂弘を相棒にして、
3代目常八55歳の彫り。
その後、3代目の彫りの資料は無く。
長男は高沢家の養子に、次男は高松家を名乗り、
三男は、岸家の養子になり明治3年、28歳、
職人の妬みで神田の宿屋で、闇討ちに遭い生涯を閉じ、
長男は高沢家の養子に、次男は高松家を名乗り、
三男は、岸家の養子になり明治3年、28歳、
職人の妬みで神田の宿屋で、闇討ちに遭い生涯を閉じ、
私生活、親子共々、豪放磊落な、石原家が断絶してしまう。
わたらせ渓谷みどり市花輪の、彼らが住んでた、
家の前を通るたび、なぜか胸が痛む。 終わり・・‼
家の前を通るたび、なぜか胸が痛む。 終わり・・‼
最初の桔梗の花から「感動」
そこからの彫刻の凄さにも「感動」
少しは体調は良くなられて、カメラ担いで、集中する時間を得たことはよかったです。
猛暑の中、気をつけて・・と祈らずにはいられませんが、少し涼しくなってきて、益々気力・体力が溢れてきたのでしょうか。
でもくれぐれも気をつけてくださいね。
群馬県の奥深い文化を知りました。
何かに夢中になれることは気持ちに張りが出て良いと思います。
彫刻のお話し、奥が深く、知らない世界ですが興味深く読みました。
ここの神社の彫刻もすごかったですね。
世の中がどんどん変わる様相は、彫師たちも感じ取り、受注も少なくなっている頃です。
彼らの悲哀がひしひしと見えるようです。
体調は別な病気?も発見され、ちょっと不便ですが、
こちらは、心配することないと思います。
ありがとうございます。
追いかけられるような、夢中さですが元気です。
目は変わらず、不便な状態で困ったものです。
周りは気が付かない、本人でなければ分からない、
暗澹たる心地です。