死刑が行われなくなっても、人を殺したり重傷を負わせたした直後に凶器をもって暴れている人物によってこれ以上犠牲者が出ないように、急所を狙って動きをとめるということは、廃止されません。
凶器を持って暴れるのをやめないという状態は、その動物がすでに死んでいる状態であると、現場の担当者それぞれがみなす
人間としての人格は喪失、すでに消失していると、現場の当事者が判断することを許す
地方への権限委譲というような話とごっちゃにはできませんが、この数秒、数十秒後にでも確実に犠牲者を出すというのがわかりきっている凶暴化している人物に対し、現場の担当者レベルで、自由な行動ができなくなる処理を行うことを許すかどうかを決めておかなければなりません
凶器を持って襲いかかってきていることに気づいているのに、なにも抵抗しないで犠牲になるというようなことは、これこそしてはいけないことです
安全を実現するために、逃げられなければ、相手の動きを止める行動に移していかなければなりません
暴れている人は、手加減なしに力任せで、傷つけようとしてくるわけだから、一撃を受けたら、被害者側は死んでしまうほどのダメージを受けます
殺そうとして襲いかかってくる相手の動きを止めるには、受ける側は襲ってくる相手以上に自信のある挙動で対していかなければ、動きを止められてしまいます
相手を見れば、鍛え方がおよそわかるもので、力負けするかどうか見当がつくものです
鍛えてきている人物が凶暴化しているのであれば、力負けする分をカバーするものとして、太刀や飛び道具など武器の使用で、凶暴化している人物の動きをとめます
死刑がなくなっても、暴走している狂人をやむなく緊急停止させるという現場での判断は、なくなることがないものであるといえます
殺傷が続くことが考えられるという事態に直面している現場で、急所を狙って狙撃などを行うかどうするかという判断はなくなりません
死刑賛成者の中から抽選で選ばれた人に、日本刀を手渡して、受刑者の首めがけて振り下ろすという方式にかえたらこの国がこのほうが治まりがつくということを示せるのかもしれません
実際は絞首などであっても大臣がサインする行為は太刀を一振りする行為となんらかわりがありません
日本刀をペンに換えて間接的に勢いよく振り下ろしているだけのことです
明治政府に由来を見ることもできる刑法の精神をなすもの、侍の美意識の中でも野蛮な部類のものとよその国で評価されたとすればどうするでしょう
この国はお偉いさんの行く手をさえぎることをするような外国人にいきなり斬りかかったという前科があります
その頃からしてみてもなにも変わっていない精神文化というのは残っているといえます
法治国家では、侍の精神は野蛮だ、という口実をまずつくります
法より上下関係、主従関係、外国人が上の者に対して無礼をはたらいた。従者としてはこの命を犠牲としようとも外国人に後悔を覚えさせてやろう
これは封建社会でみられる精神性として説明されるものです
この国で温存してきているものは、封建社会になじむ精神性であるといえます
ソフトな封建社会体制を維持してきているつもりの人もいるわけです
終身刑として薬漬けにされて生かされるのはこたえると考えられます
生きている間ずっと死にたいという気持ちが湧き上がるようにさせられたまま生かされるという罰を受けるのはとても苦しいことであるといえます
終身刑の最終形は自殺の手助けというような形になってしまうこともあるのかもしれません
死にたくなるように社会がよってたかって追い詰める
テレビ局なんかはやろうと思えばすぐにできるでしょう
終身刑にプラスαとして死にたくなる感情が強くでてくる効果を与えるかどうか
という判断を要求されてきます
更生という考え方にはどのような方向性が与えられるものとして運用されているか
こういうときにはこういう感情になっていないと都合が悪いというようなものです
関係のない人物を殺害したことについて殺害時もその後も何の感情も発生していない
本人は正直にそうこたえ続けているだけなのかもしれませんが
そのような答えを続ける人物に社会は集団社会であれば当然のこととしてなにかよい方向性を与えたという結果を要求されます
世間一般に集団社会は、殺人者はきちがいである、という烙印を与えたことをまず知らせなければなりません
狂っているから処理をしなければならないわけだけど、更生は見込めないということも悲しい知らせも伝えなければならなくなったとします
この殺人者には要求される感情が発生することが見込めない、集団社会としてはいろいろ手を尽くしてみてはいるが、よい方向へ移るきざしがみられない
どう処分したらよいものだろうか
ここで殺人者に与えられる自由、選択肢が自殺以外に残っていないと感じるようにはたらきかけるか、あるいは実際に自殺を実現できる状況をつくりあげるか
という究極の裁量が集団社会に問いかけられていくことになります
薬物乱用者をテレビ局が追いかけた。集団社会として追いかけているわけです。この人物、どちらも自殺はしない。ということを放送局は会社として断定した上で追跡しているわけです。犯罪者として追いかけるぐらいではこたえないというシナリオの元で、自殺などありえないという前提で追いかけるわけです
テレビ局が執拗に報道したことぐらいで死ぬことはないという見切りと、自殺があったところで放送局とは違った属性をもつ社会集団から咎められる事もないないという、二重の見切りが存在しているわけです。
他人の生きるという自由を奪った殺人者に集団社会は生きるという自由を失うことと同じだけの不自由を確実に与えなければなりません
他人の自由を奪ったらこれだけの罰を受けなければならないという量的に確定されている刑が必要となってきます
死刑を与えないということであっても、社会は責任を果たした、集団社会は機能しているという証明を続けていかなければなりません。
集団社会は、犯罪者に確実に罰を与えたということとが確実に実現されてなければならないことです。
犠牲者が奪われた自由に相当するだけ、殺人者の自由を集団社会が奪うということを実現していくわけです
法の精神のつきあわせが重要となってきているわけです、明治憲法、明治刑法には精神が宿っているわけです。
明治期の法の精神を具体的にしたうえで
昭和刑法の精神を具体的にして
現代刑法に好ましいと考えられる法の精神を具体的にしていくわけです
最高裁は死刑はあるものとして判決してきています
最高裁は死刑はあるべきものだとかあってはならないものだとかという議論はできないようにできています
あってはならないと考えていても、代議士にならないとなかなか議論はできないというものかもしれません
六法といわれているもっとも基本的な法が国会であまり議論されてきていないとすればそれは問題です
憲法や民法・刑法に手をつけようとしない傾向があるとすれば、原因をさぐる必要があります
憲法や民法だけでなく、恒久的に絶対化できるルールというのはできないからトラブルというものはなくならないわけです
宗教の経典のように原書の絶対化を決め込むというのはおかしなものです
昭和憲法は負けた国の都合、勝った国の都合、負けた国ではこういう文面にしかならないという消去法的な主権国家としての選択肢がないという上で作成されたきれいごとともいえるわけです
太平洋戦争に負けていなかったらいまごろありえなかった文面のオンパレードだということを認めなければなりません
負けた国の作成する文言として、当時としてはベターだったというものです
勝っていたら、今頃ありえなかった文言がびっしりです
勝っていたら、明治憲法が今でもベースでした
勝った国には都合があるわけだから、今の憲法の形に修正されているわけです
負けたから平和をうたいなさいと指導を受けているわけです
平和という方向性を与えないと、いつまでも、欲しがりません勝つまではの国なのです
終戦より昔に、国会で、平和憲法を制定できなかったから戦い続けることができたわけです
かつての帝国主義諸国が一堂に会した場で中国に対する侵略行為に対して過ちを認めるという形にしないと
この国は過ちを認めなくても許される国、この国は過ちを認め続けていないと制裁を受ける国としてみなされるというようになっていきます
弱い国、叩ける国からどんどん叩かれていきます
感情を全面にもってくるうちは、ディスカッションが成立しない、対等に会話のキャッチボールが行われることを望んでいないということになります
ディスカッション中に感情的に訴えるというのは、要求をどうしても通すという意思があるときに発生するもので、意見交換の阻害要因になります
テクニック的に感情を織り交ぜてきているものについては、感情を除去したものに残る要求、願望といったものの抽出作業を行わなければならなくなります。
明治憲法の精神のままでは、いずれ同じことの繰り返しになってしまう。
国民は国のために犠牲にすることができると考える人物が現れる
暴力が議論を制圧したから万歳突撃の命令を出すことができたわけです
負けた国が勝った国の防衛力に依存し続けているというのは正常でないはなしです
勝った国が軍事力をひきあげたという状態がまったく正常であるという状態です
軍事同盟があろうがなかろうが、自前では交戦能力に疑問のある状態が続いているということが事実です
自立しようとしないから、ひきあげようがないというのはわかりますよね
軍事の部分だけ依存している格好になっているわけです
日本の政府が隣国に平和憲法、平和政策を採用しなさいといっても、相手にされません。笑われるだけです。
強制的に採用させるには併合するしかないという発想は明治憲法の精神が通用している体制下でみられてきました
アメリカが軍事拠点を後方移動させないということが前提で、今の今まで真剣な検討がなされてきていないことがあるといえます
完全に軍事力を日本から撤退させた状態を前提に、防衛体系が運用されているということが通常状態であるとなかなか気づきません
暴力組織を備えているが民主的な手法によって管理が実現できているということを示さなければならないのであって、法によって形式的に無能力化していることぐらいは、どこの国だって同じようなことです。法によって規制しているからこそ、よその国が攻めてきた時にはそれ(法)どころではないという道理が通されてしまうものだといえます。
侵略が起こった場合には防衛活動を始めたと一方的に宣言を受けてしまうものです。それこそあれよあれよのまです。
異常事態がおきたら、相手が攻撃をやめないということが続いたら、相手の動きを制限しないと、容赦なく沈められる、撃ち落されるわけです
相手が本気だと気づくのにとんでもなく時間がかかりそうだと見られてもいるわけです
秒単位で勝負が決まる戦いを続けているということを忘れてはいけないわけです。
何もおきていない平和なときの今一秒一秒こそが過酷な戦いでもあるわけです。
戦っているから今何もおきていないわけです。
武力に頼るというのは戦いを放棄したことの宣言みたいなものです
戦いをやめたから大挙して上陸を重ねたわけです
武力行使にふみきるというのはあきらめです
統計的にみていけば被害状況の数値など簡単に試算できるものです
兵器を操縦して軍人がこちらへ襲いかかってきたら動きをとれないように攻撃しないと、民間人に被害がでます
越境してきて民間人を殺害した工作員(軍人)はそれ以上被害がでないように身動きできなくなるようにする必要があります
武装しているわけだから、急所を攻撃して動けなくしないと死者の数が拡大する恐れがあります
凶器をもって暴れていれば命はないものだと考えることができます
凶器を操作して自身の体を傷つけているとみなされるようになります
その凶器を自身に向けて操作したらこうなりますと集団社会が諭すことになるわけです
生け捕りを義務化すると、終身刑以外の罰は認めないというような姿勢を示すことになります
凶器を持って暴れるのをやめないという状態は、その動物がすでに死んでいる状態であると、現場の担当者それぞれがみなす
人間としての人格は喪失、すでに消失していると、現場の当事者が判断することを許す
地方への権限委譲というような話とごっちゃにはできませんが、この数秒、数十秒後にでも確実に犠牲者を出すというのがわかりきっている凶暴化している人物に対し、現場の担当者レベルで、自由な行動ができなくなる処理を行うことを許すかどうかを決めておかなければなりません
凶器を持って襲いかかってきていることに気づいているのに、なにも抵抗しないで犠牲になるというようなことは、これこそしてはいけないことです
安全を実現するために、逃げられなければ、相手の動きを止める行動に移していかなければなりません
暴れている人は、手加減なしに力任せで、傷つけようとしてくるわけだから、一撃を受けたら、被害者側は死んでしまうほどのダメージを受けます
殺そうとして襲いかかってくる相手の動きを止めるには、受ける側は襲ってくる相手以上に自信のある挙動で対していかなければ、動きを止められてしまいます
相手を見れば、鍛え方がおよそわかるもので、力負けするかどうか見当がつくものです
鍛えてきている人物が凶暴化しているのであれば、力負けする分をカバーするものとして、太刀や飛び道具など武器の使用で、凶暴化している人物の動きをとめます
死刑がなくなっても、暴走している狂人をやむなく緊急停止させるという現場での判断は、なくなることがないものであるといえます
殺傷が続くことが考えられるという事態に直面している現場で、急所を狙って狙撃などを行うかどうするかという判断はなくなりません
死刑賛成者の中から抽選で選ばれた人に、日本刀を手渡して、受刑者の首めがけて振り下ろすという方式にかえたらこの国がこのほうが治まりがつくということを示せるのかもしれません
実際は絞首などであっても大臣がサインする行為は太刀を一振りする行為となんらかわりがありません
日本刀をペンに換えて間接的に勢いよく振り下ろしているだけのことです
明治政府に由来を見ることもできる刑法の精神をなすもの、侍の美意識の中でも野蛮な部類のものとよその国で評価されたとすればどうするでしょう
この国はお偉いさんの行く手をさえぎることをするような外国人にいきなり斬りかかったという前科があります
その頃からしてみてもなにも変わっていない精神文化というのは残っているといえます
法治国家では、侍の精神は野蛮だ、という口実をまずつくります
法より上下関係、主従関係、外国人が上の者に対して無礼をはたらいた。従者としてはこの命を犠牲としようとも外国人に後悔を覚えさせてやろう
これは封建社会でみられる精神性として説明されるものです
この国で温存してきているものは、封建社会になじむ精神性であるといえます
ソフトな封建社会体制を維持してきているつもりの人もいるわけです
終身刑として薬漬けにされて生かされるのはこたえると考えられます
生きている間ずっと死にたいという気持ちが湧き上がるようにさせられたまま生かされるという罰を受けるのはとても苦しいことであるといえます
終身刑の最終形は自殺の手助けというような形になってしまうこともあるのかもしれません
死にたくなるように社会がよってたかって追い詰める
テレビ局なんかはやろうと思えばすぐにできるでしょう
終身刑にプラスαとして死にたくなる感情が強くでてくる効果を与えるかどうか
という判断を要求されてきます
更生という考え方にはどのような方向性が与えられるものとして運用されているか
こういうときにはこういう感情になっていないと都合が悪いというようなものです
関係のない人物を殺害したことについて殺害時もその後も何の感情も発生していない
本人は正直にそうこたえ続けているだけなのかもしれませんが
そのような答えを続ける人物に社会は集団社会であれば当然のこととしてなにかよい方向性を与えたという結果を要求されます
世間一般に集団社会は、殺人者はきちがいである、という烙印を与えたことをまず知らせなければなりません
狂っているから処理をしなければならないわけだけど、更生は見込めないということも悲しい知らせも伝えなければならなくなったとします
この殺人者には要求される感情が発生することが見込めない、集団社会としてはいろいろ手を尽くしてみてはいるが、よい方向へ移るきざしがみられない
どう処分したらよいものだろうか
ここで殺人者に与えられる自由、選択肢が自殺以外に残っていないと感じるようにはたらきかけるか、あるいは実際に自殺を実現できる状況をつくりあげるか
という究極の裁量が集団社会に問いかけられていくことになります
薬物乱用者をテレビ局が追いかけた。集団社会として追いかけているわけです。この人物、どちらも自殺はしない。ということを放送局は会社として断定した上で追跡しているわけです。犯罪者として追いかけるぐらいではこたえないというシナリオの元で、自殺などありえないという前提で追いかけるわけです
テレビ局が執拗に報道したことぐらいで死ぬことはないという見切りと、自殺があったところで放送局とは違った属性をもつ社会集団から咎められる事もないないという、二重の見切りが存在しているわけです。
他人の生きるという自由を奪った殺人者に集団社会は生きるという自由を失うことと同じだけの不自由を確実に与えなければなりません
他人の自由を奪ったらこれだけの罰を受けなければならないという量的に確定されている刑が必要となってきます
死刑を与えないということであっても、社会は責任を果たした、集団社会は機能しているという証明を続けていかなければなりません。
集団社会は、犯罪者に確実に罰を与えたということとが確実に実現されてなければならないことです。
犠牲者が奪われた自由に相当するだけ、殺人者の自由を集団社会が奪うということを実現していくわけです
法の精神のつきあわせが重要となってきているわけです、明治憲法、明治刑法には精神が宿っているわけです。
明治期の法の精神を具体的にしたうえで
昭和刑法の精神を具体的にして
現代刑法に好ましいと考えられる法の精神を具体的にしていくわけです
最高裁は死刑はあるものとして判決してきています
最高裁は死刑はあるべきものだとかあってはならないものだとかという議論はできないようにできています
あってはならないと考えていても、代議士にならないとなかなか議論はできないというものかもしれません
六法といわれているもっとも基本的な法が国会であまり議論されてきていないとすればそれは問題です
憲法や民法・刑法に手をつけようとしない傾向があるとすれば、原因をさぐる必要があります
憲法や民法だけでなく、恒久的に絶対化できるルールというのはできないからトラブルというものはなくならないわけです
宗教の経典のように原書の絶対化を決め込むというのはおかしなものです
昭和憲法は負けた国の都合、勝った国の都合、負けた国ではこういう文面にしかならないという消去法的な主権国家としての選択肢がないという上で作成されたきれいごとともいえるわけです
太平洋戦争に負けていなかったらいまごろありえなかった文面のオンパレードだということを認めなければなりません
負けた国の作成する文言として、当時としてはベターだったというものです
勝っていたら、今頃ありえなかった文言がびっしりです
勝っていたら、明治憲法が今でもベースでした
勝った国には都合があるわけだから、今の憲法の形に修正されているわけです
負けたから平和をうたいなさいと指導を受けているわけです
平和という方向性を与えないと、いつまでも、欲しがりません勝つまではの国なのです
終戦より昔に、国会で、平和憲法を制定できなかったから戦い続けることができたわけです
かつての帝国主義諸国が一堂に会した場で中国に対する侵略行為に対して過ちを認めるという形にしないと
この国は過ちを認めなくても許される国、この国は過ちを認め続けていないと制裁を受ける国としてみなされるというようになっていきます
弱い国、叩ける国からどんどん叩かれていきます
感情を全面にもってくるうちは、ディスカッションが成立しない、対等に会話のキャッチボールが行われることを望んでいないということになります
ディスカッション中に感情的に訴えるというのは、要求をどうしても通すという意思があるときに発生するもので、意見交換の阻害要因になります
テクニック的に感情を織り交ぜてきているものについては、感情を除去したものに残る要求、願望といったものの抽出作業を行わなければならなくなります。
明治憲法の精神のままでは、いずれ同じことの繰り返しになってしまう。
国民は国のために犠牲にすることができると考える人物が現れる
暴力が議論を制圧したから万歳突撃の命令を出すことができたわけです
負けた国が勝った国の防衛力に依存し続けているというのは正常でないはなしです
勝った国が軍事力をひきあげたという状態がまったく正常であるという状態です
軍事同盟があろうがなかろうが、自前では交戦能力に疑問のある状態が続いているということが事実です
自立しようとしないから、ひきあげようがないというのはわかりますよね
軍事の部分だけ依存している格好になっているわけです
日本の政府が隣国に平和憲法、平和政策を採用しなさいといっても、相手にされません。笑われるだけです。
強制的に採用させるには併合するしかないという発想は明治憲法の精神が通用している体制下でみられてきました
アメリカが軍事拠点を後方移動させないということが前提で、今の今まで真剣な検討がなされてきていないことがあるといえます
完全に軍事力を日本から撤退させた状態を前提に、防衛体系が運用されているということが通常状態であるとなかなか気づきません
暴力組織を備えているが民主的な手法によって管理が実現できているということを示さなければならないのであって、法によって形式的に無能力化していることぐらいは、どこの国だって同じようなことです。法によって規制しているからこそ、よその国が攻めてきた時にはそれ(法)どころではないという道理が通されてしまうものだといえます。
侵略が起こった場合には防衛活動を始めたと一方的に宣言を受けてしまうものです。それこそあれよあれよのまです。
異常事態がおきたら、相手が攻撃をやめないということが続いたら、相手の動きを制限しないと、容赦なく沈められる、撃ち落されるわけです
相手が本気だと気づくのにとんでもなく時間がかかりそうだと見られてもいるわけです
秒単位で勝負が決まる戦いを続けているということを忘れてはいけないわけです。
何もおきていない平和なときの今一秒一秒こそが過酷な戦いでもあるわけです。
戦っているから今何もおきていないわけです。
武力に頼るというのは戦いを放棄したことの宣言みたいなものです
戦いをやめたから大挙して上陸を重ねたわけです
武力行使にふみきるというのはあきらめです
統計的にみていけば被害状況の数値など簡単に試算できるものです
兵器を操縦して軍人がこちらへ襲いかかってきたら動きをとれないように攻撃しないと、民間人に被害がでます
越境してきて民間人を殺害した工作員(軍人)はそれ以上被害がでないように身動きできなくなるようにする必要があります
武装しているわけだから、急所を攻撃して動けなくしないと死者の数が拡大する恐れがあります
凶器をもって暴れていれば命はないものだと考えることができます
凶器を操作して自身の体を傷つけているとみなされるようになります
その凶器を自身に向けて操作したらこうなりますと集団社会が諭すことになるわけです
生け捕りを義務化すると、終身刑以外の罰は認めないというような姿勢を示すことになります