平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
第5回は今野大気(体育4・札幌国際情報)と坂田光優(応理4・足立学園)です。
日頃より筑波大学硬式野球部へのご支援とご声援、誠にありがとうございます。
4年の今野大気です。
4年の今野大気です。
気づけばもう、自分がラストブログを書く番がやってきました。
「こ」の中ではかなり弱い方の今野という名前ですが、今回は何番目かとしてブログが回ってきてしまいました。
幼少期からしみじみと振り返りたいと思います。
小学校3年生から野球を始めました。ですが、チームの練習以外で野球をした記憶が一切ありません。
友達の家に集合して北風公園に行き、野球場でサッカー、道路でバスケ、児童会館周りの住宅地で鬼ごっこ。門限になり家に帰って父に卓球を教わる毎日を過ごしていた記憶があります。
鬼ごっこはよろしくないですね。
野球が好きというよりは友達といる手段の1つとして野球をしていたのかもしれません。
それだけ良いチームメイト、友達に恵まれました。
中学は投手で甲子園出場、プロ野球選手になるという夢を叶えるために肩肘の負担の少ない軟式野球を選びました。
しかし、中3の夏に右肘の靭帯を損傷。
完治した中3の冬、高校野球に向けファイターズアカデミーという野球教室に通いました。
その際にブルペンでの投球練習中、
ブッチン
というとんでもなくでかい音がブルペンに響きわたり、私の右肘の全ての靭帯が完全に断裂。
さぞブルペンもびっくりしたことでしょう。
高1でトミージョン手術。
それ以降思うように投げられなくなり、野手になりました。
何とか高3でレギュラーになることができ、春の北海道大会の準決勝では奇跡のホームランを打つことも出来ました。
夏も勝ち上がり、甲子園をかけた決勝戦2点ビハインドの9回裏にチームの皆が2点を追いつき、満塁で迎えたサヨナラのチャンスをセカンドゴロで甲子園を決められず。
同点の延長14回表の2アウト2塁でセカンドゴロをエラーし、1点を献上。チームを負けさせ、甲子園を逃す。
その際はグラウンドに入れる穴はないかと全力で探しまわりました。
ありませんでした。
このエラーは今も毎日思い出し、負い目を感じています。
ですが、チームメイトはその後私を責めることなく練習後の部室のように接してくれました。
高校でもよいチームメイト、友達に恵まれました。
高校の監督である有倉先生の
自分のためにやる野球は中学まで、高校からは人のために野球をやれ
という言葉のもと、高校では人のため、チームのために野球をしました。
その結果、野球において一番好きなプレーはカバーリングになりました。
大学では家族に高校では見せられなかったいい姿を見せるため野球を続けました。
しかし、思うような結果が出ず、今度は肩を痛めセカンド正面のゴロをセーフにしてしまい、今野前ヒットといじられる始末。
よく考えると中学以降、全力で球を投げれた記憶がありません。
2年生のトライアウト前少しAチームにいさせてもらいましたが、トライアウトでは帰省で体が鈍っており、ミットにボールが入ってからスイングをかまし、三振。Cチーム。
あいやー
マネージャーとしても昨夏のBキャンプで新型コロナウイルスのクラスター感染を発生させてしまう。
あいやー
これ以外にも大学ではたくさんの失敗をしてきました。
ですが、大学生活もチームメイトや友達のおかげで楽しいです。
この学年、チームでよかったなと思います。
大学でもチームメイト、友達に恵まれました。
このように私はこれまで自分に関わってくれた指導者、チームメイト、友達、全ての人に恵まれてきました。
本当にありがとうございました。
私がお金が無くても何時でも誘いを断らないのはこれほど恵まれている人達と明日以降必ず会えるとは限らないからです。
私は部活が終わって無くなる関係はなんの意味もないと思っています。
部活が終わってもかけがえのない存在であり続けますが、その前にこの学年でリーグ優勝、日本一になって、美味しいウーロンハイを飲みましょう。
最後に家族へ
何不自由なく野球をやらせてくれたのにも関わらず、活躍した姿を見せられず申し訳ありません。ですが、野球を通して沢山のことを学ばせてもらいました。本当にありがとう。
拙い文章でしたが最後まで読んでいただきありがとうございました。
体育専門学群4年今野大気
北海道立札幌国際情報高校普通科1組
平素よりご支援ご声援のほど承り、誠にありがとうございます。
筑波大学硬式野球部4年坂田光優です。
何の変哲もない普通の文章となりますが、お読みいただけると幸いです。よろしくお願いします。
ラストブログを書くにあたり、4年間を振り返りましたが、いい思い出よりはるかに悪い思い出の方が多いような気がしました。
常に痛みを伴いながらの投球、思うように出ない結果、野球以外のやるべきことと折り合いをつけながら、何かと我慢をしながら過ごしていた印象が強いです。
いい思い出としても、プレーをしていた時の思い出ではなく、時間のある限り夜通し遊んだり、サマーなどの遠征での記憶などです。
時折、いや常になぜ野球をやっているのか疑問を持っています。
3つ上の高校の先輩を追いかけて筑波を目指し、血眼で頑張った受験を終え、筑波の門をくぐったわけですが、どのようにその門から出ていくのでしょうか。
入ってすぐコロナがあり、野球をできる環境はほとんどありませんでしたが、たくさんの規制の中、秋の天王台は無事実施され、そこで先輩とバッテリーを組むことができ、とてもうれしかったことを覚えています。
入ってすぐコロナがあり、野球をできる環境はほとんどありませんでしたが、たくさんの規制の中、秋の天王台は無事実施され、そこで先輩とバッテリーを組むことができ、とてもうれしかったことを覚えています。
中学の指導者の方はその話を聞いてとても喜んでいたそうです。
1年の時はとくに目立った結果は残さず、そのまま時の流れに従って、あっという間に先輩との野球を終えたわけですが、その後のことは全く考えていませんでした。
リーグに出たいという気持ちは常に持っていたので、そこからは気持ちを切り替えて、リーグに出ることを目標に日々を過ごしました。
この時期は、総合学域の移行期間と被っていたため、メンタル的に大変だった気がします。
その時期を乗り切り、少しずつ大学野球に順応して、少しずつ結果を出せるようになりましたが、2年の間ではAに上がることはできませんでした。
3年になるまで結果を残し続け、春にようやくAオープン戦で投げれるようになりました。
しかしベンチ入りは果たせず、悔しさに加えて、少しもどかしい気持ちもありました。
時は過ぎ、3年の春リーグが行われ、入れ替え戦の可能性がなくなったため、最終節のメンバー入れ替えのための3週間の紅白戦が行われました。
当時の投手ヘッドにも結果を出してくれと念押しされましたが、結果は可もなく不可もないピッチングでした。
それではベンチに入れる訳ありませんね。
この時点で体はボロボロでしたが、頭はすぐにトライアウトに向いて、オフも返上で練習を繰り返しました。
この時期が一番充実していたかもしれません。
野球をして、授業を受けて、課題をこなして、ストレッチして寝るというサイクルを永遠に回していました。
トライアウトの日を迎え、必ず抑えると意気込んでいたわけですが、結果は皆さんの想像以上のピッチングをしました。
当時の記憶はあまり残っていません。
そこからの時の過ぎるスピードは音速を超えていました。
肘は限界を迎え、サイドスローになり、サポートに回り、そして今に至ります。
自分の大学野球をざっと振り返りましたが、皆様どうでしょうか。
今までに掲載されたリーグ戦士、これから掲載される経験豊富な文章に比べて、あまりパンチのない文章となってしまいました。
ここに記すべきではない感情・環境など、書いたらキリがないのですが、その類の刺激は適していないので、結果的に普通の文章となってしまいました。
話を戻します。
なぜ大学野球を続けたのでしょうか。
答えはありきたりですが、辞め時がなかったからです。
長く続けたものをやめる勇気はなかなかカロリーが大きいものです。高校生のときの生半可な感情ではカタボリックを起こしていたと思います。
今までは辞め時には迷路を彷徨いましたが、今は長いつり橋の残り1割にいる気がします。
後ろを見れば山に入り込むトンネルがあり、きれいな山岳風景を拝めるわけですが、よく見たいと歩む向きを変え、再び迷子になることだけは御免です。
問答無用、一方通行の橋をゆっくりと歩きながら、渡り切りたいと思います。
感謝を述べます。
崇成さん。先輩なしでは4年間走り切れませんでした。相談に乗っていただいて本当に感謝の言葉しか出ません。本当にありがとうございました。
誠洋さん。大変ご迷惑をおかけしました。結果を残せず、本当に申し訳ありません。このやり切った感は、誠洋さんとの練習の日々があってこそです。今もなお様々な相談に乗っていただき、崇成さん同様感謝しています。これからもよろしくお願いします。
和田宅に集合するちょっとおかしな人たち。楽しいひと時をありがとう。僕の幸せの一部分です。これからもよろしく。
本を読むのが好きで、すこし変な比喩を使っているかもしれませんが、ご自愛ください。
最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
これからも筑波大学硬式野球部のご支援ご声援のほどよろしくお願いいたします。
坂田光優 理工学群応用理工学類 足立学園高等学校