筑波大学硬式野球部のブログ

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ラストシーズンに懸ける想い②(体育4・飯塚将洸/高崎、工シス4・一井日向汰/武蔵野北)

2024年08月16日 20時00分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
 
 
第2回は飯塚将洸(体育4・高崎)と一井日向汰(工シス4・武蔵野北)です。
 
 
是非ご覧ください!

皆さんこんにちは。



筑波大学硬式野球部4年、桐の葉隊長(筑波大学宣揚歌「桐の葉」を輪の中心で、子供が泣き出すほどのどでかい声で歌い、チームに勢いをもたらす重役)の飯塚将洸です。







平素より、筑波大学硬式野球部への多大なるご支援、ご声援をいただき誠にありがとうございます。







遂にこの「ラストシーズンに懸ける思い」を書く時が来たということで、これまで16年間続けてきた野球人生に終止符が打たれようとしています。


すがすがしい気持ちが半分、今までずっと生活の中心だったものがなくなってしまうことに対するさみしさ半分です。


真冬のバッティングでの手がとれたと錯覚するほどの激痛、冬場のトレーニング前のとてつもない嫌悪感、大雨の音で起きたときの目覚めの良さなど、あげればきりがないほどのものが経験できなくなってしまうと思うとちょびっとさみしいです。




さてさて、今回は今までの野球人生を振り返り、ラストシーズンに懸ける思いを綴っていきます。

昨日、蟻川にとんでもないハードルの上げ方をされましたが、いつも、ふざけてばっかりなので、今回ばかりはまじめにいこうと思います。


ということであまり面白くないかもしれませんが、しばしお付き合いいただけたら幸いです。



兄の背中を追い小学一年生から野球をはじめ、それからどんどん野球にのめりこんでいき、毎日のように実家の壁で壁当てや素振りをしていました。


壁当てでは、暴投をして家の車に当ててしまい、その当たった音に母親が気づきよく怒られていました。

自分は「当たってないよ」とバレバレの嘘をついていました。小中はこのようにただ楽しく野球をやっていました。




その後の高校野球。


なんといっても顧問の先生のクセがすごい。

まずは、境原先生。

どでかい声でとにかく常に叫んでいました。ノックでエラーするとマシンガンノックを打ってきたり、素手でノックを受けさせられたり、幾多の伝説があります。

「高崎高校」の名前が場内アナウンスで流れるたびに、今は天国にいる境原先生に聞こえているかなと考えます。もっと聞かせられるように最後頑張ります。


次に大隅先生。

この方は将棋部で50m走5秒台(自称)という奇人です。通学バックに鉄板を入れ、足首には重りをつけ、電車の中ではつま先立ちしながら単語帳を読んでいたらしいです。

高高野球部はこれを見て笑っているでしょう。

他にもたくさんの武勇伝があります。

そんなクセがすごい先生のもと、愉快な仲間たちと本気で野球に取り組んだ3年間はとても大切な思い出です。




そしてこの4年間の大学野球。


この大学野球を一言で振り返ると、非常に苦しかったです。周りの同期はABチームに配属されたり何かしらでBに呼ばれる中、自分だけCに取り残されていたり、練習すればするほど結果が出なくなったり、415事件を経験したり。

常に劣等感と戦っていました。


スタッフミーティングでは、仲の良い同期がスタッフになる決断をしていく中、選手として活躍したいという思いが捨てきれず、自分は選手として残りました。

その後も結果が出ない日々は続き、自分に選手を続ける資格はない、そんな気持ちに支配され、あれだけ好きだったはずの野球が本気で嫌いになりました。

ここでは伝えきれない身の毛がよだつ記憶が今でも脳裏に浮かびます。




苦しい思い出だけじゃありません。楽しい思い出もあります。


入学当初、塩田、またの名を怪物に餌付けをしてしまいました。

この浅はかな行動で、家のものを食い滅ぼされてしまう恐怖に4年間おびえることになりました。その流れが伝播したせいか、急に大群で家に押しかけてきて家のものを食い荒らす獣たちが急増してしまいました。


また、4年春には待望のリーグ戦に出場することができました。多くの人からの声援が本当に嬉しかったです。ポジションから聞こえてきた大声量の飯塚コールは一生の宝物です。



他にもたくさんの楽しい思い出がありますが、星一郎の話くらい長くなりそうなので割愛します。同期のみならず、先輩後輩と、とても面白い仲間たちに巡り合え、元気とユーモアのある日々を過ごせました。

これからもよろしくお願いします。




そして後輩と両親に伝えたいことがあります。



後輩、特にBCチームにいるみんなへ
“ぶれない”って何においても大事ですよね。バッティングでは軸がぶれない方が良いし、守備では送球のラインや目線とかぶれない方が良いですよね。

心も同じだと思います。何か一つでもぶれないものを持ち続けてください。挫けてしまうことは誰にでもありますが、そんな時、ぶれない心があれば、何度でも立ち直ることができます。


何度でも何度でも立ち上がるんだ!



また、隣にいる仲間を見てみてください。

そこにはきっと、一生の仲間がいることでしょう。仲間とのつながりはこの先何十年とあります。もしかしたら、この“つながり”というのはみんなの人生にとって野球よりも大切なものかもしれません。


だから大切にしてください。



そしてなんと先日、とてつもなく落ち込んでしまった人を助けるために、入り口に花壇をつくりました。朝から昼の間は花が開き、夕方には花が閉じるという花を植えたので、花が閉じたら練習終了とします。

そのお花畑を見てほのぼのし、心の傷を癒してください!



両親へ

普段なかなか直接感謝の気持ちを伝えられていないのでこの場を借りて伝えます。


ここまで野球を続けさせてくれて本当にありがとうございました。2人の支えのおかげでこんなにも充実した幸せな野球人生を送ることができました。
「もう野球嫌いだわ」など、親にとっては悲しいことも言ってしまいました。
ごめんなさい。


今はやっぱり大好きです。



最後、良い姿を見せれるようにあと少し頑張ります。


最後にラストシーズンへ向けて




自分たちは、暑い時も寒い時も、朝早く起きて夜遅くまで練習して、人生の夏休みである大学生活を野球に捧げてきました。

その積み重ねてきた日々を信じ、どんな結果が待っていようと、最後まで戦い抜きましょう。野球はどのスポーツよりも最後まで何が起こるかわからないスポーツです。そこが野球の好きなところです。


このブログを書いていたらふつふつと魂が熱くなってきました。




最後、みんなの輪の中心で「桐の葉」を歌って優勝の祝杯をあげるのが楽しみです!


長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。



体育専門学群4年  飯塚将洸
群馬県立高崎高等学校






こんにちは
硬式野球部4年、投手の一井日向汰です。




去年は先輩たちのラストブログの担当をさせてもらっていました。あっという間に自分の番です。

いざ自分が書く立場になると、何から書けばよいのか、野球部での出来事はたくさん浮かんでくるのに、どれもこのブログに書くって程でもない些細で他愛のないものばかりで...



名前順が早いこともあり、あっという間に期限が来てしまいました。
自分は話すのが上手くなくて、自分のことや自分の思いを伝えることができる機会も少ないので、この機会にたくさん書いておこうと思います。




自分が野球を始めたのは幼稚園の年中のとき、それから今まで野球を続けてきているので、約18年間野球をしてきたことになります。




小学校では「ひばりが丘ヤンキース」に入りました。市内では負けなしの強いチームで、プロみたいに木製バット使ったり、憧れのプロ野球選手のフォームを真似しながら野球をしていた記憶があります。



中学では「西東京秀道ベースボールクラブ」に入りました。監督にたくさん説教され、怒られ方と投手としてどうあるべきかをたくさん教わりました。

あの時の自衛隊予備軍とも呼ばれた地獄のようなトレーニングのおかげで、大学でも小回りだけは長曽我部と張り合えています。



高校は「武蔵野北高校」というあまり野球の強くない高校でやってました。





そして今、筑波大学で野球をしています。


テレビや野球場で見ていた、あの選手みたいになりたいという憧れがずっとありました。



最後の試合15-0でコールド負けするような高校野球生活を送ってもなお大学で野球を続けようと思った理由も、神宮での開会式でグラウンドから観客席を見上げたとき、ここで野球をしてみたいと思ったからです。


武蔵野北/エシスという肩書や寮外生であることから、よく分からない変わった人だと思っている人もいるかもしれないですが、自分はただ野球が好きで野球をしに大学に入りました。

(もし体専の募集があれば体専受けてましたし、もし寮に呼ばれていたら入ってました!)



そして大学では、選手として誰よりも濃い経験をさせてもらいました。


1年のときは日体大の矢澤選手対策のバッピで好投することで1週間だけAチームに上げてもらえました。

(緊張とストレスで一の矢からの道は毎日憂鬱、1週間で激やせしたのも今ではいい思い出です)



2年では自分の大学でのターニングポイントとなる出来事が起こります。

春リーグの東海戦、寮生でコロナが蔓延したことによって、寮外生の自分が初登板、初先発でのリーグデビューをすることになりました。

そこで偶々良い投球をすることができ、何とか試合を作ることができました。自分でもやれるのではと思いましたし、これがAチームに定着できるようになったきっかけでもあります。




ただ3年では挫折を味わいます。
リーグに帯同するようになるものの、チャンスを勝ち取ることができず、点差がついた場面で少ない出場しても結果が残せない1年間でした。



そしてなにより、3年春リーグでは、明学戦でのタイブレークでの登板で制球を乱し、自分のせいで先輩たちのリーグ優勝の夢を終わらせてしまいました。


先輩たちが本気でリーグ優勝を目指してきた姿勢を見てきたからこそ、自分の力不足を悔やみ、また自信も失ってしまいました。



村上さんを中心に、4年生だけでも戦っていけるのではないかをいうくらいの実力あるピッチャーが揃っている中で、試合でマウンドに上がっても、「自分なんかがマウンドに上がっていいのだろうか」、「こんな凄い応援のなかで実力のない自分がマウンドに上がるのは申し訳ない」とまで考えるようになっていました。




そして4年になり、それまでリーグ戦を主戦力で戦ってきた先輩たちが引退しました。



新チームの状況は、基本的な連携プレーや牽制など、それまで先輩たちのチームでは当たり前にできていたプレーができない、監督には「このままの投手力では入れ替え戦だ」と言われるような状況でした。



そのようなチーム事情もあり、冬のトレーニング期間では、ピッチングの基礎となる徹底的な身体づくり、体力づくりのためのウエイト、走り込みを行いました。

3年のリーグ戦で全く通用しなかった経験から「この練習が本当に実を結ぶのか」という不安を抱えながらも、ひたすらトレーニングしました。




春リーグでは開幕投手を務めることになりました。


それでもまだ自分の中では、「自分1人では試合を作ることはできない」だったり「自分は国本が復帰するまでのつなぎ役でしかない」といったように、これまでのリーグ戦での経験から自分に自信を持つことはできないままでいました。




しかし迎えた第1節の桜美林戦、厳しいトレーニングの甲斐もあり、投げていて感じた打者の反応はこれまでのリーグと確実に違ったものでした。


その後も勝ち点を懸けた3戦目での先発を経験したり、徐々に結果を残せるようになっていく中で、プレッシャーに感じていた応援も試合に臨む覚悟を決める力強い後押しだと感じるようになってきました。


「自分なんかが」と思っていても、自分がやらないといけないときは必ず来ます。



どれだけ自分の実力に対して自信を失っても、自分を奮い立たせる原動力となったのは、経験の少ない投手陣をどう良くするか考え続け自分を追い込み続ける、ヘッドの活樹や投手リーダーの隼瀬の姿でした。



自分もやらなきゃと思いました。


彼らに報うため自分もひたむきに取り組みました。




最後のリーグ戦に向けて


後輩たちにリーグ戦で自分のような経験をさせないためにも、自分の経験を伝え、練習では最後まで妥協しないようチームをつくっていきます。



だからどうかついてきてほしい。



試合での厳しい場面は4年生が全部背負います。



だから少しでも自信を持ってマウンドに立ってほしい。




秋リーグ、全部背負ってマウンドに立ちます。



今まで少年野球、中学、高校、大学と自分に野球を教えてくれた、成長させてくれた方々のために投げます。



チームのためにスタッフに回ってくれた活樹、あさひ、しげ、菅野さん、坂田に報えるように、試合に出られない選手の分まで背負えるように、頑張って投げます。




エースとして、チームを背負って、応援に背中を押されながら、マウンドに上がれることを噛みしめながら投げます。



最後まで全員の力を尽くして、全部の試合勝ち切りましょう。



まだまだ練習できるし、もっと上手くなれる!
全てやりきって絶対に後悔しないラストシーズンにしよう!




理工学群工学システム学類 一井日向汰
武蔵野北高校





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