筑波大学硬式野球部のブログ

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ラストシーズンに懸ける想い⑧(体育4・重久雄多/長崎北、体育4・鈴木星一郎/シートン)

2024年08月22日 20時00分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。


第8回は重久雄多(体育4・長崎北)と鈴木星一郎(体育4・シートン)です。


是非ご覧ください!



こんにちは。4年投手トレーナーの重久雄多です。
 





これまでは読む側だった「ラストシーズンに懸ける想い」もついに自分が書く側となり、もう引退なのか、あっという間だったな、と感傷に浸っています。
 
ちなみに去年のブログの中で個人的に一番感動したのは桐本さんのブログです。ラストがめちゃくちゃ泣けました。

私も人に感動を与える文章を書こうと意気込んでいましたが、背伸びをしてもあまりいいことはないので、自分のペースで淡々と想いを綴っていきたいと思います。
 

現在は投手トレーナーとして活動をさせてもらっていますが、私にも選手をやっていた時代がありました。

選手時代も含めて、これまでの生い立ちを交えながら大学野球人生を振り返りたいと思います。
 
 
私は長崎県の長崎市で生まれました。
時折、「長崎は外国だ」とか「帰省の時パスポートいるんですよね?」などと言ってくる人もいますが、ギリ日本なのでパスポートはいらないです。
 
野球を始めたのは小学校2年生の時で、父にリトルリーグの練習体験に連れて行ってもらったことがきっかけです。

連れて行ってもらった経緯は忘れましたが、気づけばそのリトルリーグに入団し、中、高、大と野球を続け、現在に至ります。
 
中学、高校では主に外野を守ってきましたが、大学に入ってからは投手として活動することにしました。


制球も良くないし、球も速くないのにです。


そもそも投げること自体得意ではなく、苦手な部類です。
 
投手に転向した理由はいくつかありますが、一番は自分が苦手とすることに真正面から向き合い、少しでも改善して、やればできるんだと自分に自信をつけたかったからです。


これまでは苦手なことに直面すると本気で向き合おうとしてきませんでした。

なので、野球人生の最後に本気で向き合おうと思ったんです。
 
そんな経緯で投手になりましたが、そこからは苦痛の日々でした。
周りの選手が当然のようにできているストライクの通し、PFが全くできなかったのです。

ブルペンの屋根についている凹みの2割くらいは私の仕業だと思いますし、隣のブルペンに投げ込んだこともあります。

投内連携で何度ノッカーの頭にぶつけそうになったことか。

それが悔しくて必死に練習しましたが、なかなか上達しません。


そんな自分が嫌になり、常に部活を辞めたいと思っていました。
 

それでも2年生の秋まで投手を続けられたのは、アドバイスをくれたり、一緒に頑張ってくれた同期や先輩方のおかげです。

みんなのおかげで練習も頑張れたし、入学した頃よりは少しは成長できたかなと思います。
 
そして2年生の秋から投手トレーナーとして活動することになりました。

トレーナーに転向した理由は、将来的にはトレーナーとして活動していきたいという気持ちがあったからです。

それもあって、転向した時から今日に至るまで、高いモチベーションで活動できています。
 
選手の時はチームに何も貢献できていなかったので、トレーナーの活動を通して必ず貢献してみせる、その思いで必死にやってきました。

その甲斐もあって、次第に投手の先輩や同期、後輩からケアを頼まれることが増えていきました。

これまで選手として迷惑ばかりかけてきた自分にとって、その時初めて認められたような気がしてとても嬉しかったのを覚えています。
 

そして3年生の秋、一つ上の代のリーグ戦が終わり、いよいよ自分たちを最高学年とする新チームが始動しました。


そこからの日々は苦悩の連続でした。
 

新チームが抱える課題としてリーグ経験者の圧倒的な少なさがありました。このままでは春リーグで2部に落ちてしまうとまで断言され、まさに危機的状況でした。

この状況を打破するためには今までと同様にやるのではなく、何かを変えなければならない。

そうなったときにトレーナーとして変えられるのはトレーニングの部分であり、これまでよりも量や強度を格段に上げるという決断をしました。

ただ月日が経つにつれ、今やっているトレーニングは本当に意味があるのか、逆に選手のパフォーマンスを下げてしまっているのではないかなどと悩むことが多くなりました。


今となってはあの決断が正しかったのか、見当がつきません。


少しでも選手にとってプラスな影響があったことを願うばかりです。
 

そういうわけで、今年の冬は選手たちにとって過酷な日々だったと思います。

でもそんな状況の中、選手たちは投手リーダー隼瀬を中心に「きつい時こそ頑張ろう」とひたむきに練習に取り組んでいました(裏では文句を言われてたかもしれませんが笑)。

その姿を見て、彼らの努力が報われてほしい、このチームで優勝したいと心の底から思うようになりました。
 

過酷な冬を乗り越え迎えた春リーグ、結果は惜しくも4位という結果に終わりました。


ですが彼らの力はこんなものではないと信じています。


あの冬を乗り越えられた彼らなら必ず、チームを秋リーグ優勝に導いてくれるはずです!

選手たちがリーグでベストパフォーマンスを発揮できるよう、残りの期間精一杯サポートしていきます。

ケアが欲しくなった人はいつでも言ってきてください!
 





以上が私のラストシーズンに懸ける想いになります。
 
 

最後に


この場を借りてお世話になった方々に感謝を伝えたいと思います。
 

先生・院生コーチの方々
トレーナーとして至らない点も多かったと思いますが、ご指導いただきありがとうございました。

特に波戸さんには、チームが勝つ上でトレーナーとして何をすべきなのかを教えていただきました。

ありがとうございました。

最後のリーグ勝って、とり和で美味いやきとりとお酒を飲みましょう。
 
投手の先輩方、同期、後輩のみんな
投手未経験で、ヘタクソな自分を、チームピッチャーの輪の中に入れてくれてありがとう。

1年生の頃はよく、「投手に転向しなければよかった」と何回も思いましたが、今は心から投手になってよかったと思います。


最後はチームピッチャーで勝利に導きましょう
 
 
両親へ
大学4年間、大学野球人生を支えてくれてありがとう。部活でしんどい思いをしたとき、2人はいつも心のよりどころになってくれました。2人の存在がなければとっくに部活もやめ、今の自分はないと思います。
 
ただ一つ心残りなのは、選手として試合に出ている姿を一度も見せられなかったことです。

一度でいいから自分が投げている姿を球場で見てもらいたかったですが、できませんでした。


今でも悔しい気持ちでいっぱいです。
 

ですがせめて、私が4年間どんなチームで活動してきたのかを知ってほしい、その思いで、10/6のホームゲームに来てほしいと伝えたところ、快く承諾してくれました。

選手として試合に出ることはありませんが、筑波の魅力を肌で感じてもらい、自分の息子はこんな素晴らしいチームで4年間活動してきたんだなと思ってくれると嬉しいです。
 
 

チームのみんなへ



私の想いはこのチームで優勝したい、それだけです。

優勝して最高のビールかけをしましょう。
 






体育専門学群4年 重久雄多
長崎県立長崎北高校





平素より、筑波大学硬式野球部を応援してくださり、ありがとうございます。

外野手4年の鈴木星一郎です。






名前よりも、出身校のシートンハイスクールで覚えてくれている方もいらっしゃるかと思います。

あっという間に「ラストシーズンに懸ける想い」を執筆するときが来てしまいました。

光陰矢の如しとはよく言ったものですが、年を重ねるにつれて時間が経つのも早く感じられるというは、どうやら本当のようです。


あまり前置きが長くなるとまた飯塚に話が長いと言われてしまうので、これくらいにしておきます。


大学野球が終わりに近づいているということは、私の野球人生も一つの節目を迎えようとしているということを意味します。

まずは野球人生を振り返りながら、私が野球を通して学んだことをしたためたいと思います。
しばしお付き合いください。


私の野球人生の転機は、2回ありました。

1回目の転機は、小学校のときにヤクルトスワローズJrでプレーしたことです。

それまでの私は自信がなく、小学校低学年の頃の運動会では、砂に絵を描いているような子でした。

小学校5年生のときにヤクルトスワローズJrでプレーすることを目標に定め、毎日自分なりに頑張った結果、無事合格することが出来ました。

合格を通知する電話を、お昼ご飯を食べながら家族で待っていたことを今でも鮮明に思い出せます。

その日のお昼ご飯は、母が作った焼きそばでした。普通より、肉が多めです。


ヤクルトスワローズJrでは、初めて見るような上手な子たちと一緒に野球をやり、とても楽しかったことを覚えています。

お世話になった度会コーチには、「手を見せてみろ」と言われ、コンプレックスだったマメだらけの手を開き、「俺も現役の頃こんな手してたなぁ」と言っていただいたことがありました。

そのときに、初めて自分がやっていることに自信が持てました。

あの経験がなければ、今まで野球を続けることはできなかったかもしれません。


2回目の転機は、高校生のときの留学の経験です。

塩あたりは、またこの話かとうんざりするかもしれませんが、一応聞いてください。

中学卒業後、日本の高校に進学した私は、半年で高校を退学し、単身でオーストラリアへ野球留学をすることを決意しました。

詳しい経緯などについては、私が二年生のときに執筆いたしましたブログに書いてありますので、そちらも併せて読んでいただけると幸いです。

今回は字数の制限があることと、私の語り癖が出てしまうことを考慮し、割愛させていただきます。

オーストラリアでは、三年間を通して、野球の技術を向上できただけでなく、スポーツの魅力について知ることが出来ました。

私は、留学以前は「勝つこと」や、「選手として成長すること」がスポーツの最大の魅力だと感じていました。


しかし、オーストラリアでは、言葉も飛行機の乗り方もわからない、当時15歳の私をたくさんの人が助けてくれて、野球を通じてたくさんの人と出会うことが出来ました。


言葉がなくても、野球によって人がつながっていくという経験をして、私は強く心を打たれたことを覚えています。

そのような人を繋ぐ力こそ、野球、あるいはスポーツの魅力なのではないかと感じました。


競技スポーツを行う人の多くが、スポーツをすることが辛いと感じたことがあるのではないでしょうか。

もしくは、常にそのように感じている人もいるかもしれません。

大学野球をやっていても、1年生で既に日々が辛いと感じている方もいるのではないでしょうか。

私も大学野球を振り返ってみれば、怪我も多く、スタッフミーティング(二年冬に行われる、その後のシーズンからの役職を決めるミーティング)などを通して、辛いこともたくさんありました。


しかし、振り返ってみれば、辛かった思い出にも常にその思い出を笑って語れる仲間がいました。

私が経験したオーストラリアの野球とは体制が違っても、野球によって仲間ができることや、その仲間がかけがえのない存在であるということは世界共通であり、それはとても尊いことだと思います。

だから後輩のみなさん、仲間と野球をできる今を大切に、頑張ってください。






もう一つ触れておきたいことは、今年の6月に行った教育実習での経験です。

本学付属の、筑波大学付属駒場中・高等学校(以下、親しみを込めて、筑駒)では、短い時間の中で生徒が工夫をして練習を行っていました。

私は、当時、このままリーグ戦で選手として十分な活躍をすることなく引退することになるのではないかと不安を感じていた時期でした。

そのような状態で臨んだ教育実習でしたが、筑駒の選手たちは、なんとしても最後の夏は勝ちたいという強い思いで練習に励んでいました。

私が授業準備などを済ませ、グラウンドに向かうと、毎日たくさん質問をしてくれました。

それにより良い感覚を掴んだと嬉しそうに話してくれる生徒たちを見て、私は最後までこの子たちの力になりたいと思うと同時に、私自身も、もっと頑張りたいと思うようになりました。

大学で野球を辞めようかと考えたこともありましたが、教育実習を通して、やれるところまでやりたいと考え直しました。


私は幼いころからアメリカで野球をしたいと思っていたので、卒業後はそれを叶えに行きたいと思っています。

そして将来、教員になって、筑駒の選手たちのような高校生に、私の経験を話せるようになりたいというのが今の夢です。

筑波大学付属駒場中・高等学校の皆さん、ありがとうございました。
 

最後に、家族への言葉を述べたいと思います。


今まで野球をやらせてくれて、ありがとう。

中学のときに病気をしたり、宇都宮線の乗り換えもできなかった俺のわがままを聞いて、留学させてくれてありがとう。

大学も筑波大学にきて本当に良かったです。ありがとう。

ママとはこないだ帰省したときに盛大に口喧嘩しちゃったけど、大好きです。

パパ、仲裁ありがとう。

こうせい(弟)もしばらく会ってないけど、次会うときには温泉にでも行こう。
 


もう私たち四年生は、このシーズンが終わったら引退です。


みんなそれぞれの道に進んで、なかなか会えなくなるのがとても寂しいです。

そんな大切な仲間が出来たことも、それぞれが今まで野球を頑張ってきたからであり、筑波大学に入ってみんなでリーグ優勝を目指して頑張ってきたからだと思います。



最後のシーズン、悔いのないようにやり切りましょう。



Atta Boys







鈴木星一郎 体育専門学群 シートン