短歌時評「さまざまな歌人たち」「短歌研究」11月号より 大野道夫
・内野光子・・・「天皇の短歌は何を語るのか」。(内野の歌書は)天皇、皇后という歌人が考察されている。そしてそれぞれの歌が、どのような「意図」を持って詠まれ、世の中へ発表され、読まれたかについていての考察が行われている。確かに天皇などの歌の私性は作者=作中主体賭して詠み、読まれ、好むと好まざるとにかかわらず、かなりの影響力を持っている。
内野の歌書は、そのような天皇をはじめとする歌を、現在入手できる資料をもとに丹念に考察していった力作である。・・
しかしまた天皇など本人の「意図」や、一次資料がなかなか世に出がたいため、評者によってその歌への評価はかなり否定的にも肯定的にもなる、とも思った。・・・内野は「結論的の言えば、象徴天皇制における天皇の政治的立場は中立を標榜するが、その実態は、(中略)余りにも貧弱な施策を、(中略)厚く補完する役割を担っていることが明らかのなってきた。」としているが、私はやや厳しすぎる評価と思った。
・岩田亨・・・「斎藤茂吉と佐藤佐太郎」。(この著書は)比較という方法により、茂吉と佐太郎の個性を浮き彫りにしている。
ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕殺ししその日思ほゆ・斎藤茂吉「赤光」
暮方にわが歩み来しかたはらに押し合いざまに蓮しげりたり・佐藤佐太郎「歩道」
たとえば岩田はこれらの歌を比較し、斎藤は、<ゴオガンの自画像>と<山蚕殺ししその日>=「殺気にも似た美しさを持つ少年の日の回想」というように、「具象どうしを相互の象徴として使っている」。それに対して佐太郎は、「抽象的な思想・観念などを、具体的な事物や形象に託して表現すること」などのように象徴を用いている。・・・と鑑賞している。
この岩田の歌書は、両者の歌論や歌人と戦争との関係にも触れた良き本である。ただ岩田も断っているが、ブログの記事を書籍化したため重複した記述も散見し、それらを整理して、前述した両者の「象徴」や「写生(写実)」の比較をさらに書き進めて欲しい、とも思った。
(なおこの著作に収録した記事は既に、消去してあります。=岩田註)
