今日は、マキさん、ともこさんと3人で、神保町にてとりとめもないお喋りをした。
話した内容は、
『自己と他者、近代的自我、デカルト、方法的懐疑、からだとこころ、肉体と精神、、脳死問題、日本人とは何か、日本とは何か、夢とは何か、意識と無意識、見えるものと見えないもの、日本の風土、「同じ」の概念世界と「違う」の感覚世界との関係、外人と日本人の違い、武道の達人の世界、時間、因果関係、現代医学・・・・』
膨大なテーマで話したから細かいことは忘れたけど、最近我がブログで自分なりに考えていたことを含め、感受性の豊かな二人の女性とのとりとめのない会話はとてつもなく楽しい!
キャッキャと遊ぶ感じ。
ともこさんのように英語のプロが言うところの「The」とか、冠詞の世界も面白かったー。
確かに言語表現に、それぞれの文化は凝縮されてるかも!
そういう意味で、日本語って興味深い。
日本語を考える上で、竹内整一先生(東大応用倫理学教授)の
■『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(ちくま新書)
■『「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史』(平凡社新書)
は是非ともみなさん読んでほしいなー。
僕が書いたブログの感想読んで、面白い一端を感じてくれると嬉しい。
この本を読んで、僕は本格的に古典の森に入った気もします。
(そういえば、東大病院内にて、7月8日水曜の18時30分から竹内先生が医療者向け?に死生観とか日本思想?の講演するみたいなので、興味ある人は聞きに来るといいですよー。僕が入れてあげます。)
竹内先生の本はすごく示唆に富むし、この本を3人とも呼んでたから、すごく盛り上がれた!
特に3人で盛り上がった一節を。
『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(ちくま新書)から引用。
//////////////////////////////////
「さようなら」という言葉に関して
//////////////////////////////////
世界の別れ言葉は、
*****************************************
(1)『神のご加護を願う』:「Good-bye」(神があなたとともにあらんことを祈る)、「Adios」(神のような存在のご加護を祈る)、「Adieu」、「Addio」
(2)『また会いましょう』:「See you again」、「Au revoir」、「再見(ツァイチェン)」、「Auf Wiedersehen」
(3)『お元気で』:「Farewell」、「安寧ヒ、ゲセヨ(ケセヨ)」
*****************************************
の3パターンに大きく分類することができるとのこと。
ただ、日本で最も一般的な別れ言葉である「さらば」「さようなら」「それでは」「じゃあ」「ほな」は、どのタイプにも入らない。
別れの表現としては、世界的にもすごく珍しい言葉であるとのこと。
では、「さようなら」とは、もともとどういう意味か。
「さようなら」は、「さらば」「さようならば」という言葉からも分かるように、元々は、『先の事柄を受けて、後の事柄が起こることを示す接続詞』であり、それがやがて日本人の別れ言葉として使われるようになった。
そして、「さようであるならば」とは、
************************************
(1)別れまでの色々な事柄を総括して再確認している。
(2)「みずから」の営みだけではなく、「おのずから」そうなる事柄を、「そうならねばならないならば」と、ありのまま、そのまま受けとめている。
************************************
というような意味でもある、と。
儚く悲しく切ない別れというものを、そのまま、ありのまま受け止める日本人の考えである。
「サヨナラ」ほど美しい別れの言葉を知らない、とアメリカの紀行作家アン・リンドバーグは言った。
(⇒アン・リンドバーグは、1927年にニューヨーク・パリ間の大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した、チャールズ・リンドバーグの妻)
======================================
『翼よ、北に』
アン・モロー リンドバーグ(著), 中村妙子(訳)
======================================
「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。
これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このように美しい言葉をわたしは知らない。
<Auf Wiedersehen>や<Au revoir>や<Till we meet again>のように、別れの痛みを再会の希望によって紛らわそうという試みを「サヨナラ」はしない。
目をしばたたいて涙を健気に抑えて告げる<Farewell>のように、別離の苦い味わいを避けてもいない。
「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。
それは事実をあるがままに受け入れている。
人生の理解の全てがその四音のうちにこもっている。
ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。
言葉にしないGood-byeであり、心を込めて握る暖かさなのだ
-「サヨナラ」は。
======================================
人生には、出会い、別れ、死など、自分ではどうにもならないことばかりあるが、日本人は、それをそれとして静かに引き受け、「サヨナラ(=そうならねばならないならば)」と別れているのだと、異国から日本を見た旅人であるアン・リンドバーグは言ったのだ。
//////////////////////////////////
引用終わり
//////////////////////////////////
アン・リンドバーグが『翼よ、北に』で書いているのは何度読んでも感動的!
・・・・・・・・
ところで、
3人で神保町の「さぼうる2」でスパゲッティナポリタンを食べた。
「一杯のかけそば」のように3人で1つをツツイタのです。
ここのナポリタン、ほんと漫画みたいに、「喫茶店のナポリタン」のビジュアルで、しかも美味しい!しかも安い!(650円)
しかも盛りつけが造形的に奇抜!
この日本のB級グルメのとてつもない美味さが、日本のグルメの奥深いとこ。
このナポリタンなんて、一生ミシュランガイドには載らないんだけど、こういうのこそ、日本人は好きだし、思い出に残る食べ物。何度も食べに行きたくなる。
わしも、大学生の時から定期的に食べに来てるし。笑
また、行きましょう!
今度は「さぼうる」の方で!
話した内容は、
『自己と他者、近代的自我、デカルト、方法的懐疑、からだとこころ、肉体と精神、、脳死問題、日本人とは何か、日本とは何か、夢とは何か、意識と無意識、見えるものと見えないもの、日本の風土、「同じ」の概念世界と「違う」の感覚世界との関係、外人と日本人の違い、武道の達人の世界、時間、因果関係、現代医学・・・・』
膨大なテーマで話したから細かいことは忘れたけど、最近我がブログで自分なりに考えていたことを含め、感受性の豊かな二人の女性とのとりとめのない会話はとてつもなく楽しい!
キャッキャと遊ぶ感じ。
ともこさんのように英語のプロが言うところの「The」とか、冠詞の世界も面白かったー。
確かに言語表現に、それぞれの文化は凝縮されてるかも!
そういう意味で、日本語って興味深い。
日本語を考える上で、竹内整一先生(東大応用倫理学教授)の
■『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(ちくま新書)
■『「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史』(平凡社新書)
は是非ともみなさん読んでほしいなー。
僕が書いたブログの感想読んで、面白い一端を感じてくれると嬉しい。
この本を読んで、僕は本格的に古典の森に入った気もします。
(そういえば、東大病院内にて、7月8日水曜の18時30分から竹内先生が医療者向け?に死生観とか日本思想?の講演するみたいなので、興味ある人は聞きに来るといいですよー。僕が入れてあげます。)
竹内先生の本はすごく示唆に富むし、この本を3人とも呼んでたから、すごく盛り上がれた!
特に3人で盛り上がった一節を。
『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(ちくま新書)から引用。
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「さようなら」という言葉に関して
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世界の別れ言葉は、
*****************************************
(1)『神のご加護を願う』:「Good-bye」(神があなたとともにあらんことを祈る)、「Adios」(神のような存在のご加護を祈る)、「Adieu」、「Addio」
(2)『また会いましょう』:「See you again」、「Au revoir」、「再見(ツァイチェン)」、「Auf Wiedersehen」
(3)『お元気で』:「Farewell」、「安寧ヒ、ゲセヨ(ケセヨ)」
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の3パターンに大きく分類することができるとのこと。
ただ、日本で最も一般的な別れ言葉である「さらば」「さようなら」「それでは」「じゃあ」「ほな」は、どのタイプにも入らない。
別れの表現としては、世界的にもすごく珍しい言葉であるとのこと。
では、「さようなら」とは、もともとどういう意味か。
「さようなら」は、「さらば」「さようならば」という言葉からも分かるように、元々は、『先の事柄を受けて、後の事柄が起こることを示す接続詞』であり、それがやがて日本人の別れ言葉として使われるようになった。
そして、「さようであるならば」とは、
************************************
(1)別れまでの色々な事柄を総括して再確認している。
(2)「みずから」の営みだけではなく、「おのずから」そうなる事柄を、「そうならねばならないならば」と、ありのまま、そのまま受けとめている。
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というような意味でもある、と。
儚く悲しく切ない別れというものを、そのまま、ありのまま受け止める日本人の考えである。
「サヨナラ」ほど美しい別れの言葉を知らない、とアメリカの紀行作家アン・リンドバーグは言った。
(⇒アン・リンドバーグは、1927年にニューヨーク・パリ間の大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した、チャールズ・リンドバーグの妻)
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『翼よ、北に』
アン・モロー リンドバーグ(著), 中村妙子(訳)
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「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。
これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このように美しい言葉をわたしは知らない。
<Auf Wiedersehen>や<Au revoir>や<Till we meet again>のように、別れの痛みを再会の希望によって紛らわそうという試みを「サヨナラ」はしない。
目をしばたたいて涙を健気に抑えて告げる<Farewell>のように、別離の苦い味わいを避けてもいない。
「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。
それは事実をあるがままに受け入れている。
人生の理解の全てがその四音のうちにこもっている。
ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。
言葉にしないGood-byeであり、心を込めて握る暖かさなのだ
-「サヨナラ」は。
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人生には、出会い、別れ、死など、自分ではどうにもならないことばかりあるが、日本人は、それをそれとして静かに引き受け、「サヨナラ(=そうならねばならないならば)」と別れているのだと、異国から日本を見た旅人であるアン・リンドバーグは言ったのだ。
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引用終わり
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アン・リンドバーグが『翼よ、北に』で書いているのは何度読んでも感動的!
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ところで、
3人で神保町の「さぼうる2」でスパゲッティナポリタンを食べた。
「一杯のかけそば」のように3人で1つをツツイタのです。
ここのナポリタン、ほんと漫画みたいに、「喫茶店のナポリタン」のビジュアルで、しかも美味しい!しかも安い!(650円)
しかも盛りつけが造形的に奇抜!
この日本のB級グルメのとてつもない美味さが、日本のグルメの奥深いとこ。
このナポリタンなんて、一生ミシュランガイドには載らないんだけど、こういうのこそ、日本人は好きだし、思い出に残る食べ物。何度も食べに行きたくなる。
わしも、大学生の時から定期的に食べに来てるし。笑
また、行きましょう!
今度は「さぼうる」の方で!
いいですね~。大好きです。
あのへんの個性的な喫茶店たち,不滅のB級グルメと共に,いつまでもそのまま残っていてほしいですね。
私が前住んでいた飯田橋・神楽坂にも,いい老舗の喫茶店がいくつかあったのに,開発などでいくつか閉めてしまい,町中が残念がっていました。渋い喫茶店がなくなって,スタバやヴェローチェ(すごくお世話になっているけどm(_ _)m)ばかりになったら本当に悲しい。微力ながら,良いと思う喫茶店には常連になって通い続けるしかないですね!
それにしても,刺激的で楽しそうな会合ですね。またいつか,参加させて下さい♪
それにしても、私の中でちょっと乗り遅れ感満点、だと思ってこっそり一人で盛り上がっていた竹内先生の本の話が出て、熱かったです。
あとは、自分的には、
「夢を見ている人ごと、それもまた夢で…」という話と
「頭を猛烈に使うと眠くなる。なぜなら起きている時に煩雑にものすごい勢いで流入してきた情報を整頓させるのが眠っている時間だから」という話が大変印象的でした。昨日、二人の話を聞いて久々に頭使ったから、帰ってすぐ眠くなったもん笑。
7月8日の、竹内先生のぜひとも参加したいなあ。
本持って行ってサインしてもらう!
それにしても、あのナポリタンには恐れ入った!
実はとしくんの背中側に座っていた人、一人で来て大盛りナポリタン、食べてたのよ。
で、本を熟読しつつコーヒーをすする。
その男性が『正しいさぼうるの利用法』を体現してくれていた感じで非常にほほえましかったです。
さぼうる「本館」にぜひ、いきましょ。
◆MY様
*************
さすが、さぼうる、知ってるんだねー。
わしの中で、神保町一有名な喫茶店だと思っとります。
ああいう店こそ、いつまでも残っていてほしい。
資本主義に負けず、資本主義を気にしてないのに資本主義に打ち勝つような独自の経営理念で存続させてほしいもんです。
飯田橋・神楽坂も,いいよね。
この前も、ブラリと行った喫茶店も、モダンと風情とが上手く調和してて、日本の美意識の高さを感じましたよ。
喫茶店も、ひとつひとつ違うものとしての喫茶店を見直したい。
スタバとかドトールも、やっぱり良くも悪くもマクドナルド的になるものだし、同じものとしての喫茶店の良さも確かにある。
<違う>と<同じ>のバランスですな。
MYさんが日本に帰国してきた時、神保町で集まりましょー。
結構先だと思うけど、お互いどんな感じの未来になっているのかなぁー。
*************
◆maki様
*************
夢の問題はなかなか奥深いよねー。
「この今現実と思っている瞬間が夢ではないという証明はできない」っていうのは前々から不思議に思っていることで、寝て夢を見ると、ほんの数秒の記憶しか残らないんだけど、実はその夢の世界は人間の一生の80年とかで、その中の数秒だけを記憶しているってことはないのかなと。
そういう80年くらいの人生を凝縮したものを、<夢>として数秒だけ毎日記憶してるって考えてもいいんじゃないかと。
さらに言えば、そういう風に<夢>は無限の円環構造していて、夢の中の夢の中の夢の中の・・・・という感じで、無限にミクロに続く。
逆に、自分の人生そのものが夢とすると、さらにそれを包む大きな夢があって、さらにそれを包む大きな夢があって・・・って感じで、マクロに無限に続く。
ま、これって単なる妄想なんだけど、違うって証明もできないから、これはこれとして自分の中で持っているのよね。
死後の世界も、そんな形でどこかの別の層の夢の世界に入っていくだけなのかもしれないし。
そして、最近は毎日ひたすら眠い!
この眠い!は、考える裏返しの状態だと思う。
考えまくると脳の中が無秩序になって、だからこそ脳を秩序立てるために寝ないといけない。
だから、眠い!ってのは、日々考えている証拠なんだと思いますね。
研修医の頃、睡眠時間削って働いてたけど、あのときはあまり考えたりせずに反射神経で働いてたから、だからこそ寝ないっていう無理ができたんだと思うのよね。
睡眠時間削ることができるっていうのは、あまり考えずに生活している裏返しなんだと思います。
最近は、仕事をし始めてから一番考えている時期なので、毎日ひたすら眠い!そして日々夢を見てて覚えてる。不思議なもんだ。
・・・・・・・・・・
7月8日の、東大病院である竹内先生の講演会。
なかなか病院内にはビラとか貼ってないし広報不足ではあるけど、珍しい機会だから是非とも参加しましょう!
竹内先生自体が、今年で東大を定年しちゃうし、最後の機会だと思うなー。
また、続きは別の日に「さぼうる」でサボリましょー。
それにしても、とすると、どれだけ無秩序なんだ私の頭の中は。笑。。。。。
でも、だから私、メモを自然にとっているのかも・・・。あれはちょっと睡眠に似た効果なのかもなぁ。そうでもしないと、ぐちゃぐちゃすぎて耐えられないのかもしれないです。笑。現に、メモや日記にすると、ホントにすっきりするもんなぁ。ぶつぶつ。。
その竹内先生の本は、やはり5月に日本で買って帰るべきでした!Makiさん、私こそ、乗り遅れすぎてますよ~。多分これだけ、私の大好きなみなさんが盛り上がっているということは、私にとっても、大切な一冊になるに違いない。楽しみです。時差が生じて一人で頭に電球がつくこと、間違いなし。その時はお付き合いください。笑。
日本のレトロな喫茶店。いいですね~~。
私は、本郷三丁目の「麦」という喫茶店に受験生のころよく通っていました。ソルフェージュのレッスンをその近くで受けていたので、帰りに寄って、復習したり、読書したりしていましたn。所謂名曲喫茶ですよね、確かあそこは。みんな同じ方向を向いているのが不思議だけど、なんだか知らないが、変に落ち着く空間なのですよね。なんだろうあれは。映画館とかコンサートホールも同じ向きで座りますよね。
夏にひさしぶりに行ってみよー♪
さぼうるの雰囲気もかなりよさそう!
そして、山もりナポリタン。すごい!!!
でも、ドイツ暮らしが慣れてしまった私も、Makiさんの背中側の男性のように、一人で食べきれたりして。焦。。ホント、ドイツのレストランで出てくる量は、日本の2~3倍はありますね。両親も驚いていました。三人で2人分頼めば十二分だったりして。日本のアイスコーヒー・・・懐かしいなぁ。その昔、マクドナルドで、Eiskaffeeと頼んだら、「????」という顔をされて、店員さんが奥で協議。何が出てくるかとおもったら、なんと・・・・熱いコーヒーの上に冷たいアイスが。。。。その時初めて、ドイツにはアイスコーヒーという概念がないのだと知りました(もしかして今はあるのかもしれない?)。時間がなくて、ひたすらとけていく意味の分からない目の前の物体と闘うのが大変でした。笑。
関係ないけど、メロンソーダとかも懐かしいなぁ。
>「夢を見ている人ごと、それもまた夢で…」という話
いまいち話が読めなかったのですが、これは、夢を見ている人、丸ごと・・・ということでしょうか。
意識・無意識、夢のはなし。
本当に興味深いですね。深すぎて、もうひとりで妄想が膨らみすぎています。みんなと語りたい。池田晶子さんの「14歳のための哲学」という本を最近読んで、またそこから、いろいろぐるぐるしています。今のみなさんに、おすすめかも!大人になってしまったからこそ、ああいう本は大切な気がします。
14歳からの哲学でした。
あしからず。
ビバ!ナポリタン!
本もありがとう!早く木曜よ終わってくれー。また報告します。
◆la strada様
*************
「寝る」とか「夢」ってことに、
最近かなり積極的な考察をするようになってきたのよねー!
色々まとまってきたらブログに書いちゃおうかなー。
いづれにせよ、
「すごく寝る人、すごく眠そうな人は、
実はすごく考えている結果だ」
って説を強く主張します!
きっと、la stradaさんがそんだけ寝ちゃうってのも、
きっと無意識にものすごく考えている結果だと思う!
だから眠いことはいいこと。寝ることはいいこと。
寝ないで働くのは言語道断!
どんどん寝て、どんどん起きてるとき考える。
このサイクルが最高に好循環のサイクルだと思うなー。
スーツケースの重量制限あったりするのって辛いよねー。
竹内先生の本、東大書籍部にもバッチリおいてあるし、強くお薦めします。
古典からの引用満載だけど、すごく分りやすいもん!
本郷三丁目の「麦」に行ってたってのはほんとに驚いたー。
俺もあそこ大好きよー。
コーヒーが確かに250円!で、お変わりも100円!
しかもコーヒーが濃くて好きなのよー。
しかも自家製ぷりんも美味し!!
あそこはあまり人と行って話す場所でもないし、
少し店内暗くて本を長時間読むのも目が疲れるので、
なんとなく行って、コーヒー飲んで、
ダラダラとクラシック聞いて時間過ごすのが最高!
しかも、寝てても何にも文句言われない雰囲気だし!
(さすがにイビキかいたら怒られるとは思うけどねー笑)
確かに、アイスコーヒーって日本の飲み物なんだよね!
そこが日本の発明心のすごいとこだし、グルメなとこ。
アイスコーヒーって間違いなく美味い!
そう言えば、お茶も、
冷えた冷茶が到る所で売られるようになったのも最近?!
ちょい前まではお茶も普通は熱いお茶しかなかったんだろうしね。
*************************
>「夢を見ている人ごと、それもまた夢で…」という話
いまいち話が読めなかったのですが、
これは、夢を見ている人、丸ごと・・・ということでしょうか。
*************************
そのとおり!
この現実で僕らは寝ると夢を見る。
でも、実はこの現実だと思っている今自体が大きな夢の中で・・・
ってことは証明できないんじゃないかってことね。
そういう風にミクロレベルでも、
逆にマクロレベルでも永遠に続くんじゃなかろうかって。
鏡の世界と同じで無限に続く感じ?
あ、ただの妄想です。笑
小学生くらいの時にそんなこと考えてたのを最近思い出したんですよ。
小学生くらいのときって常識に縛られてないから、
ほんと色々妄想・空想してて、勉強とか集中できんかったなー。笑
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/37/4b05079449a7ba7ca4b82d0c5abd2c41.jpg
池田晶子さん、最近色々本出してるよねー。
すごく気になってはいたのです。
今度読んでみるねー。
*************
◆ともこ様
*************
色々現実的な課題とか悩みもあるだろうけど、
それを大きく包むような抽象レベルで考えなおすと、
ふと初心に帰れるときってあるよねー。
部分を全体と間違えちゃうというか。
行かに自分が部分にとらわれすぎて、
全体を見れなかったかということがね。
ああいう風な深い話をすると、
表面的なことに惑わされずに済むような気がします。
また、仕事が落ち着いたら続きを話しましょー。
養老先生の「無思想の発見」面白いよー。