日常

エンデ「モモ」

2012-11-18 22:42:45 | 
ミヒャエル・エンデの
「モモ ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語」岩波書店 (1976/9/24) (大島かおりさん翻訳)を読みました。


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<商品説明>(Amazonより)
冒険ファンタジー『はてしない物語』の著者であるミヒャエル・エンデが贈る、時間どろぼうと風変わりな女の子の物語である。
文章のみならず、モノクロの挿絵までもエンデ自身が手がけた本書は、1974年にドイツ児童文学賞を受賞。
小学5、6年生以上から大人まで幅広い年代の人たちが楽しめる、空想力に富んだ小説だ。
円形劇場の廃墟に住みついた、もじゃもじゃ頭で粗末な身なりをした不思議な少女モモ。
黙って話を聞くだけで、人の心を溶かし悩みを解消させる能力を持った彼女のまわりには、いつもたくさんの大人や子どもたちが集まっていた。
しかし「時間」を人間に倹約させることにより、世界中の余分な「時間」を独占しようとする「灰色の男たち」の出現により、町じゅうの人々はとりとめのないお喋りや、ゆとりのある生活を次第に失っていく。

本書は、時間どろぼうである「灰色の男たち」とモモの対決というスリルあふれる展開を通して、1分1秒と時間に追われる現代社会へ、警鐘を鳴らしている。
たとえば、モモの友だちだったニノが「スピード料理」の店を始め、大繁盛しているせいで他人とわずかな世間話をする暇もないというように、時間を盗まれた人たちは、現代の私たちの姿そのものとして描かれている。
昨今、モモのように際限のない時間の中で、空想をめぐらせ楽しむ生活はほとんど忘れられている。
子どもばかりでなく、忙しい大人たちにも夢見ることの大切さを教えてくれる本だ。(砂塚洋美)
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超名作と知られるエンデの「モモ」ですが、今まで読んだことがなかったのです。
友人たちとこの本をテーマに輪読会をするということで、はじめて読みました。

大感動。
かなり奥深い場所が揺さぶられたのを感じました。

学会報告で別の脳みそを使い続けていた反動から、エンデ関連を読みまくりました。
○ミヒャエル・エンデ「鏡のなかの鏡―迷宮」岩波現代文庫(2001/1/16)
○ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店(1982/6/7)
○ミヒャエル・エンデ、田村都志夫 「ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと」岩波現代文庫(2009/11/13)
○ミヒャエル・エンデ、イェルク・クリッヒバウム「闇の考古学―画家エトガー・エンデを語る」岩波書店(1988/9/14)
○河邑 厚徳、グループ現代「エンデの遺言―「根源からお金を問うこと」」(2000/2)
○子安美知子「「モモ」を読む―シュタイナーの世界観を地下水として」朝日文庫(1991/1)
気が向いたら、感想書きます。



モモに関しては、灰色の男たちの「時間泥棒」という存在が出てきます。
この灰色の男が奪う「時間」は、メタファーとして色んなものが重層に予感される言葉です。


エンデが書く物語世界は、理性で表面的だけの解釈をすることを拒むような重層性があります。
五感で捉えられない世界は、常にメタファーでしか表現することができません。メタファーを理性で解釈しようとすると、常にパラドックスを含み、理性での解釈を拒み続けます。
それは絵や音楽、自然で受ける体験のような感覚であり、感動であり、そういう一回性の体験そのものです。
体験は言語解釈をはるかに超えていて、それでいてその人の血肉を形作る養分となります。
知となり肉となりガイスト(精神)やゼーレ(魂)となり溶け込んだ一回性の体験は、理性では解釈できません。
五感で捉えられる3次元世界の空間をワープして、4次元以上の別次元を介して伝わるようなもの。
そこにこそ芸術の力があるのだと思います。


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ほんとうに話を聞くことのできる人は、めったにいないものです。
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→モモには、ひとの話を「ほんとうに聞く」という能力があります。

自分も、職業柄、<話を聞く>ということがどういうことなのか、日々の体験からよく考えています。
それは、自分の理性や判断を捨て、相手の語りに身を任せるという事です。
そのとき、聞き手は一切の理性的判断を捨てなければいけません。
心の内で批判的に聞いたり、心の内であれこれの解釈をしながら聞くことをすべて放棄しなければいけません。
それがいくら聞き手の内的世界で起きていることでも、内部でそう思っていること自体でその人はすでに世界に働きかけている。
そして、その聞き手の内的態度は別次元を介して必ず相手に伝わるのです。

一切の判断や一切の解釈を捨て、話を聞くこと。
これは、簡単なようでかなり難しいのです。
それは瞑想(Meditaion)に似ています。
目をつぶり何も考えないでいなさい、と言われて目をつぶると、数分すると、脳の中では常に何かが独り言のような思考続けていて、その思考を途絶することは困難であることを自覚します。
それは寒い、痛い、なんの意味があるんだろう、あの人はどうも好きではない、お腹がすいた、・・・などなど。私たちが雑念とされるものが訪れては去り、訪れては去り続けることを自覚するわけです。
ただ、それはすべて脳の中を通して自動的に行われている価値判断が含まれています。
ただひとりで存在しているだけでもそうなのですから、相手の話を聞くときなど、そういう雑念のような脳内思考は更に訪れやすくなり、いくら脳内であっても、無意識に相手の意見を批判的に聞いたり、それは違うだろ、それは変だろう、などと思いながら聞いてしまうことが常なのです。

ですから、いわゆる瞑想(Meditation)のように、自分の価値判断を一切捨てて相手の話を聞くというのは、それなりのトレーニングがいるのです。
おそらく、それが<ほんとうに話を聞く>ということなのだと、自分のつたない経験から感じています。
そういう状態が作られると、その瞬間には便宜的に作られている自と他の境界が溶けている瞬間が訪れます。
その一瞬で何かがやり取りされ、互いの組成が少し交換され、何かが組み替えられます。
それは外的に表面的で見ていると何が起きているのか全く分かりませんが、互いの内部では必ず何かが変わっているのです。
それは、時に相互に治癒のような副次効果を生むことがあり、「ほんとうに話を聞く」ときに起こる不思議な現象だと、自分は臨床現場の中で感じています。






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彼は灰色の紳士の訪問をうけたことをもうおぼえていないのですから、ほんとうなら、いったいじぶんの時間がどうしてこうも少なくなったのか、しんけんに疑問にしてもいいはずでした。
けれど、こういう疑問はほかの時間貯蓄家とどうよう、彼もぜんぜん感じませんでした。もののけにとりつかれて盲目になってしまったのも同じです。
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→「もののけ」に取りつかれている人は、まさか自分がとりつかれているとは夢にも思わないものです。
「もののけ」は、誰かが吹き込んだ偏見や先入観であることもあります。
自分が考えたと思いこんでいる考えは、誰かの意図で誰かによってふきこまれた「もののけ」であることがあるのです。その「もののけ」はこちらの養分を吸い取り、自律して動きだすウイルスのような生命体として自分の考えを乗っ取りだすことがあります。常に自分の意識を明晰にしつつ、自分の意思で明かりをつけ(enlightment)、自分の頭で問い直すことが必要だと思います。
人間は、無意識化して習慣化してしまうと、それは血肉化して一体となってしまい、その行為や考え自体を疑う事すらなくなります。それは時に「もののけ」としか形容されない状態に陥ることがあります。


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ほんとうのお祭りはできなくなりました。夢を見るなど、ほとんど犯罪も同然です。
けれど彼らがいちばん耐え難く思ったのはしずけさでした。
彼らはじぶんたちの生活がほんとうはどうなってしまったのかを心のどこかで感じ取ってましたから、しずかになると不安でたまらないのです。
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→「静けさ」は心を移す鏡のようなものです。
だから、ある種の人はその「静けさ」が到来することを本能的におそれます。
それは自分の心を直視する鏡となり、それは自分の闇をも照らし出す鏡ともなるからです。

ただ、だからこそ、人の話を聞くときに大事なものも聞き手の「絶対的な内的な静けさ」でもあるのだと思います。

その静けさは、すべての真実を水面に映す鏡のような働きをします。
静けさは、理性が溶け込まないからこそ、対象をダイレクトに反射させる鏡となります。
理性の介入は、相手が投げかけた光の伝導を屈折させ、方向をねじ曲げる作用もある。
だからこそ、僕らは自分の内部に、静けさをこそ大切に守り続けなければいけません。それは人間にとって鎮守の森なのです。



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ここではなにもかも正確に計算され、計画されていて、一センチのむだも、一秒のむだもないからです。
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まるで両方が互いに催眠術をかけあっているみたいでした。
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モモはぼんやりとながらも、じぶんがあるたたかいに直面している、いや、すでにたたかいのなかに巻きこまれている、と感じました。
けれどもそれがなんのたたかいなのか、だれに対するたたかいなのかは、わかりません。
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→催眠や中毒は、誰かを意図的に支配して誘導するためにいちばん簡単なやりかたなのだと思います。この手法は巷に氾濫しているのを感じます。
時にはシステムの中に、無意識の中に潜む悪夢のように、誰かがある特定の意図をもって埋め込ん出いる時があります。

本来、この宇宙や自然はただ無目的に何らかの法則のもとに生々流転しているだけです(それを釈迦はダルマ(法・ダンマ)と呼びました)。
もともと、宇宙には「意図」を持つ人類は存在していませんでした。
「意図」を持つ人類が地球に誕生したとき、自然の中に意図を含む人工的なものが組み込まれてきたわけです。人工的なものは常に、だれかがある意図をもって作り出したものです。その意図には善意もありますが、悪意の場合もあります。その見えない意図に注意を払う事が、催眠や中毒ではない自然そのものを生きるために重要なことです。



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モモは、こんなにゆっくりと歩いているのにどうしてこんなに早く進めるのかふしぎになってきました。
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「星の時間て、なんなの?」とモモはききました。
「いいか、宇宙には、あるとくべつな瞬間というものがときどきあるのだ。」
と、マイスター・ホラは説明しました。

「それはね、あらゆる物体も生物も、はるか天空のかなたの星々にいたるまで、まったく一回きりしか起こり得ないようなやり方で、たがいに働き合うような瞬間のことだ。
そういうときには、あとにもさきにもありえないような事態が起こることになるんだよ。 
だがざんねんながら、人間はたいていその瞬間を利用する事を知らない。だから星の時間は気付かれないまま過ぎ去ってしまうことが多いのだ。
けれどもし気がつく人がだれかいれば、そういうときには世の中に大きなことが起きるのだ。」
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マイスター・ホラ
「人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんじしんできめなくてはならないからだよ。」
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マイスター・ホラ
「人間には時間を感じるために心というものがある。」
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→モモの中では「時間」が重要な要素を占めます。
僕らは24時間、がんじがらめにされた社会の中で生まれてきた世代なわけですが(少なくとも縄文時代はそうではなかったでしょう)、自分の時間を誰かに支配されてしまう事にも注意が必要です。
その人の時間はその人の生命そのものです。人間には寿命があり、天寿があります。
無意識に時間を預けることは、無意識に自分の生命を明け渡すようなもの。
自分の聖域に誰かを土足で踏み込ませることは、自分の中の神殿を乗っ取られてしまうことにつながります。
誰の中にも聖性(神性、仏性)は内在している。そのことは「良心」として時に片鱗を表すときに感知されるものです。そのことに意識的であることは大切なことだと思います。




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(モモ)「すると、もしあたしの心臓がいつか鼓動をやめてしまったら、どうなるの?」
(マイスター・ホラ)「そのときは、おまえの時間もおしまいになる。あるいは、こういうふうに言えるかもしれないね。
おまえじしんは、おまえの生きた年月のすべての時間をさかのぼる存在になるのだ。
人生を逆にもどって行って、ずっとまえにくぐった人生への銀の門に最後にはたどりつく。そしてその門をこんどはまた出ていくのだ。」
「そのむこうはなんなの?」
「そこは、おまえがこれまでになんどもかすかに聞きつけていたあの音楽の出るところだ。
でも今度は、おまえもその音楽に加わる。おまえじしんがひとつの音になるのだよ。」
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「もし人間が死とは何かを知っていたら、こわいとは思わなくなるだろうにね。
そして死を恐れないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにも出来なくなるはずだ。」
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それは、太陽と月とあらゆる惑星と恒星が、じぶんたちそれぞれのほんとうの名前をつげていることばでした。
そしてそれらの名前こそ、この<時間の花>のひとつひとつを誕生させ、ふたたび消え去らせるために、星々がなにをやり、どのように力を及ぼし合っているかを知る鍵となっているのです。
そのとき、とつぜんモモはさとりました。
これらのことばはすべて、彼女に語りかけられたものです!
全世界が、はるかかなたの星々にいたるまで、たったひとつの巨大な顔となって彼女の方を向き、じっと見つけて話しかけているのです。
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→僕らは、「死」というものが何を意味するのか、本当に真剣に考えなくてはいけない時代に生きています。真実は、つねに表面的には隠されているものです。

死は、生を形作る部分であり要素です。死と生は対立するものではありません。死は生の中に内在しており、部分的に一体化しているものです。
僕らは日々、何かが死にながら、何かが生まれている存在です。そこでは新陳代謝しながら、生と死は交互に連鎖しながら循環している。全体として生が優勢であるからこそ、生の状態を維持できるわけです。

だからこそ、個体として肉体の死は、全てが死に果てるわけではなく、生より死が優勢になったから起きる状態ですから、何かが生まれている萌芽でもあるわけです。
終わりははじまり。はじまりは終わり。

それは炎を見ていると、炎のカタマリの中には小さい火が生まれては消えて生まれては消えてを繰り返し、全体として炎を形成していることに似ています。
生命は、生命の炎と言うように、炎のメタファーとしてとらえられることがあるのもそのためでしょう。


この狭い物質世界だけを見ていてはとうてい分かりえませんが、モモが耳を傾けるような宇宙的な声や音楽にほんとうに耳をすますと、真実は表れています。
宇宙は光が何億年の旅をするような時の中で生きている存在。数十年の寿命の僕らの尺度で考えるには、それなりの慎重さが必要なのです。
宇宙空間の97%はよく分かっていないそうです。それは少なくとも物質的世界で認識されるものではないでしょう。
(逆に言うと、物質世界はそれだけ宇宙の中で希少であり、そういう意味で重要だと言えるとも思うわけですが・・・。そこだけにとらわれてはいけません。)


僕らの理性だけが、「受け入れたくても受け入れたくない」という不可思議な自己言及のパラドックスにひとり悩んでいることがあります。
自然や宇宙や森羅万象は、真実を伝え続けています。本質的な問題は、受信側の器の大きさの問題です。
受け手側が宇宙的でコズミックでユニバーサルな器を作れば、宇宙やこの森羅万象が生々流転している、その根底にある生命の法則が見えます。

人類は、そんな宇宙や自然の中の部分集合的な存在であり、基本的にはその法則の内部に含まれているはず。
その中にこそ、人類や生命の生や死の謎は潜んでいると感じています。







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「いいかね、地球が太陽をひとめぐりするあいだ、土の中で眠って芽を出す日を待っている種のように、待つことだ。
ことばがおまえの中で熟しきるまでには、それくらいの長いときが必要なのだよ。それだけ待てるかね!」
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「おまえを作り出したのはわれわれだ。おまえはゴム人形さ。われわれが空気を入れてふくらましてやったのだ。」
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「でもジジはジジじゃなくなっちゃったんだ。
モモ、ひとつだけきみに言っておくけどね、人生でいちばん危険なことは、かなえられるはずのない夢が、かなえられてしまうことなんだよ。」
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そこまで考えた時、モモはきゅうにじぶんの中にふしぎな変化がおこったのを感じました。
不安と心ぼそさがはげしくなってその極にたっしたとき、その感情はとつぜんに正反対のものに変わってしまったのです。
勇気と自信がみなぎり、この世のどんなおそろしいものがあいてでも負けるものか、という気持ちになりました。
あるいはもっと適切に表現すれば、じぶんにどんなことがふりかかろうと、そんなことはちっとも気にかからなくなったのです。
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→人間の意識が転換するというのは大変なことです。
ただ、ある種の「とらわれ」から自由になるとき、今まで固執していた意識(偏見・固定観念)を、さらにひとつ上の段階から包含するような意識へと、自分の意識を階層として持ちあげることができます。
それは、僕らが赤ん坊から乳幼児、小児から成人へと変化していくとき、常に通ってきた成長のプロセスでもあります。

ただ、「おとな」になると、その破壊と創造のプロセスから嫌気がさすことがあり、ある安定状態にとらわれたいという誘惑に襲われることがあるのです。
そのとき、脳の中に「固定観念」や「偏見」という不変の結節点を作り出し、その固定した不変のポイントからすべてを認知しようとし始めます。

その固定的な視野からはみ出すものはすべて自分の世界観にあわないものとして排除され、自分に都合の良いものだけが選択して取り入れられることになります。
「不可思議」「?」というものはすべて失われます。

パッチワークとして世界はつなぎあわされ、自分に都合の良い世界像を捏造することで、その劇場の中で生きようとします。
ただ、それは一種のねつ造されたプライベートな劇場に過ぎません。

自分の古い価値観が壊され、さらに大きな新しい価値観の中に包み込まれていくとき、今まで「対立していた」と思われていたものはひとつのものとなり、むしろ「対立」と思われていたものは互いが互いを支えあう二つの組み合わさった要素であったことに気付きます。
「対立」とは、ある価値観から見えていた風景に過ぎません。この世界では対立するものなど存在しないと思うのです。互いが互いを必要としているのです。


僕らは、そうして日々の生活から無限に学び続けることができるものです。
それは生きている間も、死んだあとも、永遠に続く開かれたプロセスだと思うのです。



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エンデの「モモ」には、人生の節目節目に読みたいと思わせる吸引力がありました。素晴らしい本だと思います。
簡潔な言葉の中に圧倒的な深さと重層的なメタファー世界があります。村上春樹さんの物語世界と似たような深さと広さです。

とくに「時間の花」の描写は、何とも表現できない美しさがあります。そこはあえてあまり抜き出しませんでした。
そこでは美のイデアがほんの少しだけ顔を出し、そこで天界の音楽の調べが聞こえるような感覚がありました。


4 コメント

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交響する祝祭空間 (Is)
2012-11-19 22:51:11
久々の参加で、相変わらずの居心地いい時間と空間で、「忙し(!)」さにかまけてないで、
「緊急ではないが重要なこと」(←コヴィー『7つの習慣』)大切にしようと再確認の時間だった~!

年を取る毎に違った読み方が出来るという点で、やっぱり『モモ』は古典なのだと思った。もう30年以上読み続けられている。
(余談ですが、先日、『となりのトトロ』を見たら、もはやメイちゃんとかではなく、あの糸井さんの声のお父さんの目線で見るようになっていた。もう30年もしたら、トトロになるのかな?と思った…笑)

個人的に、今、響いた箇所は、四章の「いちどに道路全部のことを考えてはいかん…、次の一歩のことだけ…いつもただつぎのことだけを。」のところがよかったな~。
ものすごく実務的になっている今日この頃な点もあると思うけど、先のことばかり考えて今をおざなりにしてしまいがちな反省点として、ここが効いた!

「時間」というと、自分は、真木悠介(←社会学者・見田宗介のペンネーム。本当に書きたいものはこの名前で書いている)『時間の比較社会学』を何度も何度も読んできたので、モモ読んで,改めて書き抜きしたところとか見直してみたら、次の箇所とか、呼応するかと思った。

「われわれの意識が未来を獲得し、さらにその生が未来に向かって組織化されているときでさえ、
われわれがまず第一に、現在の生をそれじたいとして愛する実感(センス)を失わない限り、
そして第二に,未来がある具体性のうちに完結する像をむすぶかぎり、
すべての未来がそのかなたに死をもつという事実といえども、われわれの個体や人類の生涯を空しいものとはしない。」

時間の問題というと、とかく近代批判的になりがちだけど,見田は、近代的な時間が生き方を疎外する条件を選り分け精査し示してくれる。
「東大の講義室」なんていうと、一般的には祝祭的な場からは一番離れた場所に思うけど,見田にとっては毎回の授業は祝祭空間だったと。一時一時その場その場を愛する自身の態度(スタンス)の問題なのだろう。

日常の中で、こうして立ち止まり考える場は大切ですね。それが気心の知れた信頼できる友人たちとの場であれば,これ以上の幸せはないなと再確認でした。

ちなみに、今やってるNHK100分de名著、アインシュタインの『相対性理論』ね。とても分かりやすくて楽しく見てます。物理学のこの常識を覆しつつ、なんとなく感性的に感じてる部分と付合する感じが面白いですな~。
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即今、当処、自己 (いなば)
2012-11-21 18:56:56
>>Isくん
なんだかこのブログでこうしてダイアログするのは久しぶりですねぇ。(^^

「いちどに道路全部のことを考えてはいかん…、次の一歩のことだけ…いつもただつぎのことだけを。」
理性は未来を先取りする癖があるよね。
しかも、その未来に現在が縛られてしまう。
そうなると、現在を生きることができなくなる。
竹内整一先生は、そういう前のめりの姿勢は西洋から来ていて、Pro-に表現される言葉に多いって、『「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史』(平凡社新書←名著!) っていう本に書いてあったのを覚えてます。

よく言われる、business=『busy-ness:忙しさ』→『心を亡くし亡ぼす』でもあり、business社会では、「はか」がいくことが求められる。


「はか」とは、稲作での仕事量を表す単位だった。
その動詞である「はかる」とは、
1:ものごとを軽量する→「計る」「量る」「測る」
2:ものごとの見当をつけて、論じ、調整する→「諮る」「付る」「衝る」
3:ものごとをもくろみ企てる→「図る」「策る」「謀る」
こんなニュアンスがある。

そして、この「はか」ることは、近代西洋が作り上げてきた、科学的な思考方法でもある。


西洋語には、project(プロジェクト)・produce(プロデュース)・promototion(プロモーション)・progress(プログレス)・program(プログラム)・・・という、西洋近代の本質でもある『前のめりの姿勢[pro-]』や、『前望的な時間意識[pro-spective]』があるらしい。
この姿勢がbusiness社会を生む。

自分もIS君も、何かしらの busy-ness社会に巻き込まれてしまっているわけですが、モモの読書体験を通して、各自が各自の適度なバランスを取りなおすことができるんだと思うよね。

『時間の比較社会学』は、本棚の奥深くにありそうだけど読んでない。今度読んでみようかな。
禅でも求められる【今・ココ】という意識は、重要ですよね。

即今、当処、自己

明日でもなく昨日でもなく、いま。
まだ見ぬどこかでもなく、ここ。
あの人でもこの人でもなく、わたし。


NHK100分de名著、アインシュタインの『相対性理論』は自分も見てるよー。
あのシリーズ面白いよね。とりあえず毎週録画してるもん。


物理学は、超ひも理論とかMulti Universe Theory (MUT) とか、次元(Dimension)の問題が面白くて、暇な時勉強してるよ。数学はなかなか独学で難しいけど、イメージだけではなんとか理解したいよねぇ。


新しい理論っていうのは、佐々木閑さんの「犀の角たち」に書いてあったような
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パラダイムシフトとは、頭の中の直覚と、現実から得られる情報のせめぎ合いにおいて、直覚が負けて情報が勝つ、という現象だと考えることができる。
脳の生み出す理想世界が、現実を監査することで得られる外部情報で修正を迫られ、「いやだけど仕方がない」と軍門に下る事だ。
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というのがすごく面白い、と思った。

たしかに、量子力学の世界とか、物質は波動と粒子の二重存在だとか・・・直覚ではなかなか理解できない世界だよね。
いまだに、太陽が東から西に沈むとき、地球が回っている!とは思わないもの。笑


Isくんのブログも亢進楽しみにしてますー(^^
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Meditation・・・ (amyjumy)
2012-11-25 13:19:17
モモの “ ひとの話を「ほんとうに聞く」という能力 ”に憧れます。

『一切の判断や一切の解釈を捨て、話を聞くこと。
これは、簡単なようでかなり難しいのです。
それは瞑想(Meditaion)に似ています。』

そうだったんですね!
なんだかとっても腑に落ちました。
仕事中には、それができたかも?なんて思う場合があったような気もするんですが・・・
表現しがたい感覚でした。

stoneやsaltやflower・aromaで、こっそり浄化した “ 場 ” のエネルギーに助けられて、
いわゆる瞑想に近い状態に入りやすくなっていたとしたら、自分なりの再現性をうることも可能かもしれません。

ほんとうはツールは不要なのだろうし。
道具は自分そのもので、いいはずですよね。
先生の一文で、またまた風穴あいた感じです!

自分が今後、何に向かって努力したいのか?
どんな感覚を磨きたいのか?
どんな風に世の中に役に立てたら素敵だと感じているのか?
勝手にヒントいただいたみたいです。
ありがとうございました。

つい先ごろ、自宅ピアノの調律でA=444Hz(C=528)に
チューニングしていただきました。
528が愛の波動だとかいう本を読んで。
調律師さんも、いわゆる数少ないお話のわかる方で・・・。
何か変化が起こるか、確認してみますね!と言ったばかりでしたが。
早速いいことあったかもデス。

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vibration (いなば)
2012-11-27 01:25:32
>>>amyjumy様
いつもコメント有難うございます。とても嬉しいです。

amyjumyさんも、臨床現場できっと同じような瞬間を経験している事あると思いますよ!
もちろん、そのためには相手側よりもこちら側の心が平静であることが前提条件になります。若い研修医の時は自分の疲れ具合や気分などに左右されてしまうことが多いわけですが、経験を積むと、どんなに寝むて辛いときでも、どんな状況にも動揺しない静かな心を作れるようになるわけです。

表現しがたい感覚、まさにそうですよね。
何かがつながる感覚、これは言語では表現しがたいものです。体験としか言えないものです。


stoneやsaltやflower・aromaで場を作られているのですね。
素晴らしい!自分もそういう職場にしたいものですが、大学病院ととんでもなく無機質なもので、ナースサイドはそういうことに対する感度があるかと思うのですが、医者側はなかなかそういうのを馬鹿にする傾向にありまして・・・。先端の西洋医学はガチガチに固着化していて、やれやれ、という感じです。

普段の仕事ではある程度のツールを使うのは自然だと思いますが、本当は裸一貫で自分の存在だけでやれるのが理想ですよね。
自分は夏休みは山岳医療を、週に1回は在宅医療をやっているので、物品がないところでいかに自分の潜在能力や相手の潜在能力を使いながらケアしていくか、そういうことをいつも考えています。


自宅ピアノのチューニング(A=444Hz(C=528))も、きっといい効果があったんだと思いますね。この世界は粒子と波動から構成されていますし、波動は眼に見えにくいので常に忘れやすい、それでいて重要なものだと思います。

○リチャード ガーバー (著), Richard Gerber (原著), 上野 圭一 (翻訳), 真鍋 太史郎 (翻訳) 「バイブレーショナル・メディスン ―いのちを癒す「エネルギー医学」の全体像」日本教文社 (2000/10)
と言う本の感想も、いづれ書きたいです。
読まれたことありますか? 662ページなので大著ですが、現代医学が忘れている重要なポイントに満ちている本だと思っています。
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