NHKの日曜美術館。
『熊田千佳慕さん(2010-11-24)』でも感想書いたけれど。
また感想。
12月12日は「沖縄 母たちの神 写真家・比嘉康雄のメッセージ」だった。(12/19に再放送あり)
すごかった。
久高島のイザイホー、宮古島のウヤガン。
カミとつながる祭り。
はじめて動画も写真も見たけれど、とても厳粛で神々しかった。
日本のカミさまは、自然(Nature)なのだと思う。
日本では、「わー!すごい!」っていうものは、全てがカミ様。
手塚治虫は漫画のカミサマだし、松下幸之助は経営のカミサマ。
本居宣長もそう言ってる。
===========
本居宣長「古事記伝」
『さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしへのみふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其(そ)を祀(まつ)れる社に坐(いま)す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐひ海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり。』
===========
これは、以前竹内整一先生から聞いて以来、好きな考えです。
<自分がすぐれていると感じたものは、なんであっても畏敬すべき対象として敬いましょう>
と、自分は受け取っている。
■medium
テレビ上でコメントされてた安里英子さん。
その方も巫女さん(medium)のような方だった。
「祭りは記憶。祭りで記憶の底におりて、祖先とつながる」
とおっしゃっいた。
佇まいから醸し出ていた、あの女性的な優しさや包容力のようなもの、ひとことひとことの重みや深み。
そういうものは、果てしない祖先(祖霊)とのつながりからくるのだと思った。
巨大なものに包まれ、守られているようで。
巫女とはmedium。
mediumには多義的な意味がある。
中間(ちゅうかん)であり、媒体・媒介物のようなもの。
巫女さん(medium)とは、この世界と異界(たとえば、あの世)との媒介のような存在なのだろう。
どんなものにでも、なにかをつなぐ役割を果たしている人が、必ずいるものだ。
■柳田国男、先祖
先祖の霊のことを、祖霊と言う。
霊と言うと、幽霊とか地縛霊とかネガティブなイメージもあるけれど、沖縄の祭りには、興味本位のネガティブなものではなくて、連綿とつながる、土着的で力強い「祖霊信仰」のようなものも強く感じた。
民族学者の柳田国男は「先祖のはなし」の中で、日本の神道や土着的信仰の死後の話を語っている。
日本の土着的な信仰では、インドの仏教のように輪廻転生したり、日本の仏教のように地獄や極楽へ行ったり、キリスト教のような遠い死者の世界に行ったりはしない。
死者は、生者の世界のすぐ近く(とくに山や海の他界)にいて、お盆や正月に子孫の元に帰ってくると考えられていた。
こういう祖先崇拝は、微妙なニュアンスは違っても、未開社会・古代社会では普遍的に見られる信仰らしい。
巨大な「自然」へと還っていく感覚。
日本には明確な宗教はないけれど、こういう宗教的な感覚は根強く残っていると思う。
それがなければ、お墓参りとか、お盆とかの風習はすぐに廃れていくだろう。
人として、「祖先に感謝する」っていうのは、自然な感覚なのだと思う。
なぜなら、それは自分が生きて、存在していること自体の前提となる根拠だから。
否定したくても、肯定したくても、それは受け入れざるをえない。
その前提がなければ、こうして考えることも、書くことも存在しないし、「どうして人は生まれてくるんだろう」というような疑問や悩み自体も存在することができないものだ。
こういう「祖霊」の考えが、数十年前までは沖縄に確かに残っていて、その名残としての祭りを見ることができた。
それが、久高島のイザイホー、宮古島のウヤガン。
■祈り
安里英子さんの
「男たちは漁に出る。だから、女たちは島を守り、祈るのです。」
という何気ない言葉にも、重みを感じた。
島や土地と一体化して、そののたましいを祈り、守ると。
・人間は必ず女性から生まれるということ。
・人間は必ず老い、死ぬということ。
そこには例外はない。
そんな人間の根本原理を元にした、根源的な信仰を感じた。
だからこそ、女性を敬い、祖先を敬う。
そんな敬意や感謝を共通の感覚として前提にもった上で、男性も女性も、子どももお年よりも、共に生きる。
女性はあらゆる面で創造の源なのだろう。
そんな悠久な時間のつらなりが、祭りの中に記憶として受け継がれているのだと感じた。
今残っているもの、
それは文字でも、言語でも、祭りでも、建物でも、習慣でも、人間でも、生き物でも・・・
いろんなものがある。
そこには、必ず歴史があって、時間の記憶がある。
そこには、「流れ」のようなものがある。
そういう悠久な「流れ」を意識して生きることは、自分の存在の深い場所を根源的に肯定してくれる、目に見えない力につながるんだと思う。
チャップリンが、「ライムライト」という映画で
『時は偉大な作家だ。つねに完璧な結末を書く。』
と言ったように、時と言うのは偉大なのだと思う。
(⇒ブログで書いた感想。『「七人の侍」黒澤明、「ライムライト」チャップリン』(2009-04-12))
時を超えて残っているものには、大切なものが詰まっている。
短期的なものもいいけれど、悠久の時を超えて残っているものに思いを馳せる。
沖縄にはそういう日本の古層を感じる。
■
「沖縄 母たちの神 写真家・比嘉康雄のメッセージ」は、日常生活では見ることのできない異界を垣間見せてくれる、いい番組でした。
NHKの日曜美術館。ビデオに撮ったりして、思わず見てしまう。
日曜はつかの間の休息。
仕事に忙殺されると、これがすべてだと勘違いしやすい。
そういうときに、美術や芸術の世界のような「異界」を垣間見て、日常へと戻っていくことは、きっと実りのある日常へと戻っていけるのだと、自分は強く信じています。
(ちなみに、トップの写真。学生時代に沖縄の宮古島に一人旅をしたときの、夕暮れどきの海の写真です。)
『熊田千佳慕さん(2010-11-24)』でも感想書いたけれど。
また感想。
12月12日は「沖縄 母たちの神 写真家・比嘉康雄のメッセージ」だった。(12/19に再放送あり)
すごかった。
久高島のイザイホー、宮古島のウヤガン。
カミとつながる祭り。
はじめて動画も写真も見たけれど、とても厳粛で神々しかった。
日本のカミさまは、自然(Nature)なのだと思う。
日本では、「わー!すごい!」っていうものは、全てがカミ様。
手塚治虫は漫画のカミサマだし、松下幸之助は経営のカミサマ。
本居宣長もそう言ってる。
===========
本居宣長「古事記伝」
『さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしへのみふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其(そ)を祀(まつ)れる社に坐(いま)す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐひ海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり。』
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これは、以前竹内整一先生から聞いて以来、好きな考えです。
<自分がすぐれていると感じたものは、なんであっても畏敬すべき対象として敬いましょう>
と、自分は受け取っている。
■medium
テレビ上でコメントされてた安里英子さん。
その方も巫女さん(medium)のような方だった。
「祭りは記憶。祭りで記憶の底におりて、祖先とつながる」
とおっしゃっいた。
佇まいから醸し出ていた、あの女性的な優しさや包容力のようなもの、ひとことひとことの重みや深み。
そういうものは、果てしない祖先(祖霊)とのつながりからくるのだと思った。
巨大なものに包まれ、守られているようで。
巫女とはmedium。
mediumには多義的な意味がある。
中間(ちゅうかん)であり、媒体・媒介物のようなもの。
巫女さん(medium)とは、この世界と異界(たとえば、あの世)との媒介のような存在なのだろう。
どんなものにでも、なにかをつなぐ役割を果たしている人が、必ずいるものだ。
■柳田国男、先祖
先祖の霊のことを、祖霊と言う。
霊と言うと、幽霊とか地縛霊とかネガティブなイメージもあるけれど、沖縄の祭りには、興味本位のネガティブなものではなくて、連綿とつながる、土着的で力強い「祖霊信仰」のようなものも強く感じた。
民族学者の柳田国男は「先祖のはなし」の中で、日本の神道や土着的信仰の死後の話を語っている。
日本の土着的な信仰では、インドの仏教のように輪廻転生したり、日本の仏教のように地獄や極楽へ行ったり、キリスト教のような遠い死者の世界に行ったりはしない。
死者は、生者の世界のすぐ近く(とくに山や海の他界)にいて、お盆や正月に子孫の元に帰ってくると考えられていた。
こういう祖先崇拝は、微妙なニュアンスは違っても、未開社会・古代社会では普遍的に見られる信仰らしい。
巨大な「自然」へと還っていく感覚。
日本には明確な宗教はないけれど、こういう宗教的な感覚は根強く残っていると思う。
それがなければ、お墓参りとか、お盆とかの風習はすぐに廃れていくだろう。
人として、「祖先に感謝する」っていうのは、自然な感覚なのだと思う。
なぜなら、それは自分が生きて、存在していること自体の前提となる根拠だから。
否定したくても、肯定したくても、それは受け入れざるをえない。
その前提がなければ、こうして考えることも、書くことも存在しないし、「どうして人は生まれてくるんだろう」というような疑問や悩み自体も存在することができないものだ。
こういう「祖霊」の考えが、数十年前までは沖縄に確かに残っていて、その名残としての祭りを見ることができた。
それが、久高島のイザイホー、宮古島のウヤガン。
■祈り
安里英子さんの
「男たちは漁に出る。だから、女たちは島を守り、祈るのです。」
という何気ない言葉にも、重みを感じた。
島や土地と一体化して、そののたましいを祈り、守ると。
・人間は必ず女性から生まれるということ。
・人間は必ず老い、死ぬということ。
そこには例外はない。
そんな人間の根本原理を元にした、根源的な信仰を感じた。
だからこそ、女性を敬い、祖先を敬う。
そんな敬意や感謝を共通の感覚として前提にもった上で、男性も女性も、子どももお年よりも、共に生きる。
女性はあらゆる面で創造の源なのだろう。
そんな悠久な時間のつらなりが、祭りの中に記憶として受け継がれているのだと感じた。
今残っているもの、
それは文字でも、言語でも、祭りでも、建物でも、習慣でも、人間でも、生き物でも・・・
いろんなものがある。
そこには、必ず歴史があって、時間の記憶がある。
そこには、「流れ」のようなものがある。
そういう悠久な「流れ」を意識して生きることは、自分の存在の深い場所を根源的に肯定してくれる、目に見えない力につながるんだと思う。
チャップリンが、「ライムライト」という映画で
『時は偉大な作家だ。つねに完璧な結末を書く。』
と言ったように、時と言うのは偉大なのだと思う。
(⇒ブログで書いた感想。『「七人の侍」黒澤明、「ライムライト」チャップリン』(2009-04-12))
時を超えて残っているものには、大切なものが詰まっている。
短期的なものもいいけれど、悠久の時を超えて残っているものに思いを馳せる。
沖縄にはそういう日本の古層を感じる。
■
「沖縄 母たちの神 写真家・比嘉康雄のメッセージ」は、日常生活では見ることのできない異界を垣間見せてくれる、いい番組でした。
NHKの日曜美術館。ビデオに撮ったりして、思わず見てしまう。
日曜はつかの間の休息。
仕事に忙殺されると、これがすべてだと勘違いしやすい。
そういうときに、美術や芸術の世界のような「異界」を垣間見て、日常へと戻っていくことは、きっと実りのある日常へと戻っていけるのだと、自分は強く信じています。
(ちなみに、トップの写真。学生時代に沖縄の宮古島に一人旅をしたときの、夕暮れどきの海の写真です。)