一条真也さんの「唯葬論」と同時期に発売された、「永遠葬」現代書林 (2015/7/22)を読みました。
***************
<内容紹介>(Amazon)
大手冠婚葬祭会社の(株)サンレーを経営するかたわら著述家としても活躍する著者が書き下ろす葬儀論の決定版。
かつて「葬式は要らない」(島田裕巳/著)というベストセラーに対し、「葬式は必要! 」(双葉新書)を著した著者が、再び島田氏の著書「0葬」に対抗するために執筆しました。
「0葬」への対抗本であることを強調するため、判型・ページ数・定価・装丁など、すべて「0葬」を意識して作られています。
葬儀はなんのために行なうのか――その明確な答えが本書です。
絆や家族がクローズアップされるなかで、老いや葬儀がなぜ軽んじられるのか。
「終活」という問題が大きなテーマになる中で、葬儀の重要性、必要性を語ります。
しっかりした理論武装で葬儀という「儀式」の必要性を説き、さらに変わりつつある死の迎え方の現実を豊富なデータや実例で紹介しながら、葬儀の実践方法をも紹介します。
***************
<参考>
●一条真也「唯葬論」 (前編)(2015-08-07)
●一条真也「唯葬論」 (後編)(2015-08-14)
「唯葬論」がすべてを包括した壮大なものだったので、この 「永遠葬」現代書林 (2015/7/22)はちょっと影に隠れてしまって残念です・・・。
「唯葬論」が抽象度の高い哲学者としての一条さんの顔だとすると、
「永遠葬」は具体性の高い実践者・実務家としての一条さんの顔です。
理論と実践とは、相互に補完し合う関係ですので、二つ合わせて読まれることをお薦めします。
・・・・・・・・・・・・
この本は、島田裕巳さんの「0葬」への一条さんの返答です。
インターネットは容易に発言を削除できますが、書籍となると永遠に活字として残ります。
こうして「本」というまとまった形で深いやり取りができるのは素敵だな、と思いました。
ちなみに、島田裕巳さんの「0葬」を自分も読みましたが、なかなか過激でやや極論かなと感じる面はありました。
ただ、極論があるから中庸に行けます。物事を考えてみるきっかけとして、止まった事象に動きを与える一撃として、意義深い本かなと思いました。
島田裕巳さんの『0葬』では、
==================
島田裕巳『0葬』
「私たちはこれまで、人を葬るということにあまりにも強い関心を持ちすぎてきたのではないだろうか。それに精力を傾けすぎてきたのではないだろうか。
それこそが日本の文化であり、死者を丁重に葬ることは日本人の精神にかなってきたと言われてきた。
だが、社会は大きく変わり、死のあり方そのものが根本的に変容してきたことから考えれば、従来の方法は意味をなさない。
極端な言い方をすれば、もう人を葬り、弔う必要はなくなっている。
遺体を処理すればそれでいい。そんな時代が訪れている」
==================
「残された人間が故人を思い出すのは、故人がした善行を通してではなく、反対に迷惑になったことを通してだったりする。
死後に忘れられないためには、生前、周囲に数限りない迷惑をかけておいた方がいいのかもしれない。
それでも、人が死ねば、やがてその存在は忘れられていく。
何年もその存在が、多くの人に記憶されている人はほとんどいない。
だったら、あっさりと消えてしまった方がいい。まさに『立つ鳥跡を濁さず』である。
これから遺体処理の方法が開発され、最後には灰どころか何も残らない形がとれるようになるかもしれない。
それこそが究極の0葬である」
==================
というところが特に自分の心に残った主張です。この記載の裏には、
(1)すべて自分で決めたい。
(2)人に迷惑かけたくない。
この二つが根底にあると思いました。
(1)に関して、<自分の人生は自分が決める>という大枠に関しては同意です。
ただ、「葬」に関しては、自分のため、というより「残された人」のためではないでしょうか。
残された人の心の不安定を動揺を落ち着かせるため、儀式は必要になる。
そうしないと、永遠に「喪は開けない」のではないでしょうか。
一条さんは「唯葬論」やその他の著作でもそのような葬の意義を述べられており、
医療の現場にいる自分としても、その意義は実感しています。
(2)に関しては、臨床現場でも確かによく聞く言葉なのです。
人に迷惑かけたくない。という心情はよく分かります。自分も、心情としては<人に迷惑かけたくない>です。
ただ、人には必ず迷惑をかけるものです。
だから、むしろそれを前提にした上で考えた方がより現実的ではないかと、自分は思うのです。
ほ乳類もその他の生き物も、どんな存在でも生まれた直後はか弱い存在です。
誰かに守ってもらわないと、1日として生存を続けることはできません。
そのことは無意識下に沈澱してすっかり忘れてしまいますが、どんな人でも誰かに支えられ、愛を与えられて、人生は始まり、生きてこれたはずなのです。
それは、迷惑をかけた、とも言えるかもしれません。
ただ、人間はそうして、生まれてから必ず迷惑をかけてしか人生は始まらないようになっています。
ですから、他の人が似た状況にいれば、自分の過去を思い出しながら全力でサポートすればいいのだと思います。
自分は、そうして「いのち」は太古から受け継がれていると思います。
「いのち」をつなぐポイントに、心がどんなに動揺しても適切に体が動けるよう、型としての「葬」は経験知として手渡されてきたのではないでしょうか。
そんなことを、「0葬」と「永遠葬」を交互に読みながら深く内省しました。
■
以下、一条真也さんの『永遠葬』本文の感想です。
========================
一条真也『永遠葬』
「葬儀という「かたち」は人間の「こころ」を守り、人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。」
========================
人間は強いようで弱いです。間違うこともあります。
そのことを考えると、「かたち」として継承されているものには深い意味を感じます。
日本の伝統芸能も武術も、「型」として色々なものが受け継がれています。
それが、「からだ言葉」のようなもの。
「からだ言葉」として、不安定な脳を介さずに確実に伝えていく工夫がある。
だからこそ、その「からだ言葉」を解読しないと、「葬」に内在された深い意味がよく分からないのかもしれません。
本書では、マネジメントの父と呼ばれるピータードラッカーが、企業が反映するための条件は「継続」と「革新」であると述べていることにふれられています。
芭蕉の「不易流行」(かわらないもの+かわるもの)という事にも通じますが、
本質を保ちながら、表面を時代と共にバージョンアップさせて相互作用を起こしていく。
その両方のバランスと中庸の中で、過去の先人たちから色々なものが受け継がれています。
その中に、葬などの儀式もあるのかもしれません。
========================
一条真也『永遠葬』
「葬儀によって、有限の存在である“人”は、無限の存在である“仏”となり、永遠の命を得ます。
これが「成仏」です。
葬儀とは、実は「死」のセレモニーでじゃなく、「不死」のセレモニーなのです。
そう、人は永遠に生きるために葬儀を行うのです。」
========================
「「縁」とは人間が社会で生きていく上での前提条件であり、
「絆」とはさまざまな要因によって後から生まれるものです。」
========================
読んでいてはっとしました。
人は死んだら<仏になる><お釈迦になる><お陀仏>・・・など、色々な不思議な表現があります。
生から死へとモードが変わる時、人から仏へと、人からカミへと、次元転換のような現象が起きるようです。
そんな奇跡的な記念日に、仏やカミとなる「不死」のセレモニーとして「葬」が行われているとしたら、こんなに素敵なことはありません。
・・・・・・
本書では、「0葬」も適時引用しながら、葬儀の歴史が語れます。
初めて知った知識として、以下のようなものがありました。
●中江兆民(1847‐1901年、ジャン=ジャック・ルソーの思想を日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となる)は、
1887年(明治20年)に葬儀無用論を唱えた。
そうは言うものの、生前に親交のあった板垣退助や大石正巳といった自由民権家が、
中江兆民を偲ぶために宗教上の儀式にとらわれない「告別式」を青山会葬場で開いた。
これが一般化した告別式の始まり。
●仏教式の葬儀の方法を生みだしたのは浄土宗ではなく禅宗。
曹洞宗で道元と共に宗租とされる道元禅師から4代目の瑩山禅師(けいざんぜんじ)が、『禅苑清規』という書物をもとに、修行途中の雲水の葬儀の方法を俗人の葬儀に応用する道を開いた。
この二つは初耳で驚きました。
中江兆民のように、<葬儀なんか必要ないわい!>と言った人に、
周りの人が「やれやれ、困ったものだ」と。
ただ、そんな相手の意見も最大限に尊重しつつ、
それでいて残された人たちの哀悼の念を表現して喪に服すため「告別式」が生まれた、という歴史的な事実!
これこそまさに「人に迷惑かけたくない!」と思うものの、そういう強引な発言も含めて<結局は人に迷惑かけてしまう>わけです。
そんな葛藤の狭間から「告別式」がうまれた、というのは歴史の醍醐味でも皮肉でもありますね。
========================
一条真也『永遠葬』
「儀式と言う形はドラマや演劇にも似ている。
ドラマで「かたち」が与えられると、心はその「かたち」に収まる。」
========================
内的世界と外的世界は照応(correspond)しています。
現実を夢のように、夢を現実のように捉えていくと、
内的世界と外的世界は不思議なコンステレーションを布置していることに気付きます。
目では見えない「こころ」にあるまとまりをもたせるため、
人類は言語として「物語」を生みだし、からだの言語として「演劇」を生みだしたのではないでしょうか。
演劇を見ることで、はたまたお能を見ることで、場全体で色々な物事を共同体験しているのだと思います。
それは、映画などの視覚的な映像表現ではとりこぼしてしまうものなのかもしれません。
実際に演劇やお能などに足を運んでみると、何か自分の心が動いて変化したのを感じます。
(演劇などの個人的感想)
<東京ノーヴィ・レパートリーシアター>
●「古事記 天と地といのちの架け橋」(2014-10-10)
●「ゴドーを待ちながら」(2014-02-25)
●『Idiot~ドストエフスキー白痴より~』(2013-10-08)
●ブレヒト『コーカサスの白墨の輪』(2013-06-13)
<宮城聰(みやぎ・さとし)さん SPAC 静岡県舞台芸術センター芸術総監督>
●SPAC『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』(2014-09-24)
<美輪明宏さん>
●美輪明宏「黒蜥蜴」(2013-04-30)
<ベルリンフィル マリス・ヤンソンス指揮>
●ベルリンフィルの衝撃(2012-06-12)
<演出:蜷川幸雄 脚本:フランク・ギャラティ、原作:村上春樹>
●舞台版「海辺のカフカ」(2012-05-04)
<望月龍平シアターカンパニー>
●音楽劇「君よ 生きて」(2015-01-27)
・・・・・・・・・・
========================
一条真也『永遠葬』
「「迷惑」の背景には「面倒」という本音が潜んでいる。
葬儀や墓のことを家族で話し合うのが面倒なのかもしれない。」
========================
病や死という現象が起きると、バラバラだった人たちはその人を中心に集まることになります。
つまり、病や死というものが「つなぐ」働きを持つのです。
「つなぐ」働きを面倒だと思えば、インターネットやお金でパパっと済ませたくなりますが、
「つなぐ」働きを正面から受け止めれば、何か新しい関係性が生まれるきっかけになります。
臨床の現場でも、そのことで何十年もいがみあった兄弟や家族が数十年ぶりに出会い、
和解するきっかけになる例を沢山見ています。
一条さんは、葬儀には、社会的な処理、遺体の処理、霊魂の処理、悲しみの処理、という4つの役割があり、葬儀は「死者を弔う心」のあらわれ。葬儀は死者を描いたドラマであり、「老い」と「死」に揺れる魂を安定させる働きを持つ。と書かれています。
こういう人間の内面への、深い層への働きかけは、葬儀の表面や形式だけを見ているとなかなか気付きにくいことだと思います。
また、本書では、鈴木隆泰『葬式仏教正当論』を紹介しながら、ブッダと葬の関係に対して、新しい一石を投じているように感じました。
こちらに関しては、本書を手に取りよく読んで頂くことをお勧めします。
・・・・・・・・・・
●「歴史的な存在として」(2015-06-26)
自分もふと浮かんだことをここに書き連ねましたが、私たちは歴史や時間の流れというものから逃れることはできません。
人類にとって最大の謎であり続け、大きな謎として常にインスピレーションを与えて続けてきたことは、「生まれる」「生きている」「死んでいく」というプロセスではなかったでしょうか。
この赤ん坊という生命体は、この放逸で爆発的なな生命エネルギーと共に、果たして何をしにどこからやってきたのだろうか。
そして、人生という豊かな時間を重ねた人間は、死ぬという現象により違う世界に旅立っていく。
人はどこから、なんのためにやってきて、どこへと向かっていくのだろう。
そしてなぜこんな謎に満ちた現象が、何世代も何世代も、途切れることなく太古から延々と続いているのだろうか。
・・・・
それは今でも古代でも大きな謎であり問いであったのだと思います。
人類や宇宙の謎そのものを含んだ生や死という現象に対して、人類は「葬」という形で人を弔い、「いのち」をつないできました。
生きている人間より、過去に死んでしまった人の数の方が遥かに多いのです。
その故人たちが受け継いできて手渡そうとした過去の営みには、きっと深い意味があると思います。
そういう謎や問いに引き寄せられるように、観念的ではなく実際的な側面から考察していくように、自分は医療の現場で日々働いています。
本書では、葬の歴史、葬の意義・・・、色んなものを考え直すいいきっかけになりました。
そういうことを改めて考え直してみたい方は、是非お読み頂ければと思います。
・・・・・・・
1945年に日本は終戦を迎え、戦後70年が経ちました。
在宅医療でお年寄りの方と接するたびに、戦争の話を聞きます。
そこで語られるすべてのことは、多くの死者からその方が「いのち」を受け取った「しるし」のようなもの。
その「しるし」はトーチのように、いまこうして生きている次の世代へと、過去と現在と未来とをつなぐように手渡されます。
それは語りでしか表現しえないものです。
毎年8月になると、なにか「いのち」を手渡されているような気がして、いつもソワソワしてしまうのは、気のせいでしょうか。
<参考>
●音楽劇「君よ 生きて」(2015-01-27)
===========
追記:
一条さんがブログ内で本ブログをご紹介くださいました。
<一条さんのブログより>
■未来医師、『永遠葬』を読む(2015-08-20)
■『唯葬論』に反響続々!(2015-08-10)
■『唯葬論』の途方もない書評ブログが完結!(2015-08-14)
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<内容紹介>(Amazon)
大手冠婚葬祭会社の(株)サンレーを経営するかたわら著述家としても活躍する著者が書き下ろす葬儀論の決定版。
かつて「葬式は要らない」(島田裕巳/著)というベストセラーに対し、「葬式は必要! 」(双葉新書)を著した著者が、再び島田氏の著書「0葬」に対抗するために執筆しました。
「0葬」への対抗本であることを強調するため、判型・ページ数・定価・装丁など、すべて「0葬」を意識して作られています。
葬儀はなんのために行なうのか――その明確な答えが本書です。
絆や家族がクローズアップされるなかで、老いや葬儀がなぜ軽んじられるのか。
「終活」という問題が大きなテーマになる中で、葬儀の重要性、必要性を語ります。
しっかりした理論武装で葬儀という「儀式」の必要性を説き、さらに変わりつつある死の迎え方の現実を豊富なデータや実例で紹介しながら、葬儀の実践方法をも紹介します。
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<参考>
●一条真也「唯葬論」 (前編)(2015-08-07)
●一条真也「唯葬論」 (後編)(2015-08-14)
「唯葬論」がすべてを包括した壮大なものだったので、この 「永遠葬」現代書林 (2015/7/22)はちょっと影に隠れてしまって残念です・・・。
「唯葬論」が抽象度の高い哲学者としての一条さんの顔だとすると、
「永遠葬」は具体性の高い実践者・実務家としての一条さんの顔です。
理論と実践とは、相互に補完し合う関係ですので、二つ合わせて読まれることをお薦めします。
・・・・・・・・・・・・
この本は、島田裕巳さんの「0葬」への一条さんの返答です。
インターネットは容易に発言を削除できますが、書籍となると永遠に活字として残ります。
こうして「本」というまとまった形で深いやり取りができるのは素敵だな、と思いました。
ちなみに、島田裕巳さんの「0葬」を自分も読みましたが、なかなか過激でやや極論かなと感じる面はありました。
ただ、極論があるから中庸に行けます。物事を考えてみるきっかけとして、止まった事象に動きを与える一撃として、意義深い本かなと思いました。
島田裕巳さんの『0葬』では、
==================
島田裕巳『0葬』
「私たちはこれまで、人を葬るということにあまりにも強い関心を持ちすぎてきたのではないだろうか。それに精力を傾けすぎてきたのではないだろうか。
それこそが日本の文化であり、死者を丁重に葬ることは日本人の精神にかなってきたと言われてきた。
だが、社会は大きく変わり、死のあり方そのものが根本的に変容してきたことから考えれば、従来の方法は意味をなさない。
極端な言い方をすれば、もう人を葬り、弔う必要はなくなっている。
遺体を処理すればそれでいい。そんな時代が訪れている」
==================
「残された人間が故人を思い出すのは、故人がした善行を通してではなく、反対に迷惑になったことを通してだったりする。
死後に忘れられないためには、生前、周囲に数限りない迷惑をかけておいた方がいいのかもしれない。
それでも、人が死ねば、やがてその存在は忘れられていく。
何年もその存在が、多くの人に記憶されている人はほとんどいない。
だったら、あっさりと消えてしまった方がいい。まさに『立つ鳥跡を濁さず』である。
これから遺体処理の方法が開発され、最後には灰どころか何も残らない形がとれるようになるかもしれない。
それこそが究極の0葬である」
==================
というところが特に自分の心に残った主張です。この記載の裏には、
(1)すべて自分で決めたい。
(2)人に迷惑かけたくない。
この二つが根底にあると思いました。
(1)に関して、<自分の人生は自分が決める>という大枠に関しては同意です。
ただ、「葬」に関しては、自分のため、というより「残された人」のためではないでしょうか。
残された人の心の不安定を動揺を落ち着かせるため、儀式は必要になる。
そうしないと、永遠に「喪は開けない」のではないでしょうか。
一条さんは「唯葬論」やその他の著作でもそのような葬の意義を述べられており、
医療の現場にいる自分としても、その意義は実感しています。
(2)に関しては、臨床現場でも確かによく聞く言葉なのです。
人に迷惑かけたくない。という心情はよく分かります。自分も、心情としては<人に迷惑かけたくない>です。
ただ、人には必ず迷惑をかけるものです。
だから、むしろそれを前提にした上で考えた方がより現実的ではないかと、自分は思うのです。
ほ乳類もその他の生き物も、どんな存在でも生まれた直後はか弱い存在です。
誰かに守ってもらわないと、1日として生存を続けることはできません。
そのことは無意識下に沈澱してすっかり忘れてしまいますが、どんな人でも誰かに支えられ、愛を与えられて、人生は始まり、生きてこれたはずなのです。
それは、迷惑をかけた、とも言えるかもしれません。
ただ、人間はそうして、生まれてから必ず迷惑をかけてしか人生は始まらないようになっています。
ですから、他の人が似た状況にいれば、自分の過去を思い出しながら全力でサポートすればいいのだと思います。
自分は、そうして「いのち」は太古から受け継がれていると思います。
「いのち」をつなぐポイントに、心がどんなに動揺しても適切に体が動けるよう、型としての「葬」は経験知として手渡されてきたのではないでしょうか。
そんなことを、「0葬」と「永遠葬」を交互に読みながら深く内省しました。
■
以下、一条真也さんの『永遠葬』本文の感想です。
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一条真也『永遠葬』
「葬儀という「かたち」は人間の「こころ」を守り、人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。」
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人間は強いようで弱いです。間違うこともあります。
そのことを考えると、「かたち」として継承されているものには深い意味を感じます。
日本の伝統芸能も武術も、「型」として色々なものが受け継がれています。
それが、「からだ言葉」のようなもの。
「からだ言葉」として、不安定な脳を介さずに確実に伝えていく工夫がある。
だからこそ、その「からだ言葉」を解読しないと、「葬」に内在された深い意味がよく分からないのかもしれません。
本書では、マネジメントの父と呼ばれるピータードラッカーが、企業が反映するための条件は「継続」と「革新」であると述べていることにふれられています。
芭蕉の「不易流行」(かわらないもの+かわるもの)という事にも通じますが、
本質を保ちながら、表面を時代と共にバージョンアップさせて相互作用を起こしていく。
その両方のバランスと中庸の中で、過去の先人たちから色々なものが受け継がれています。
その中に、葬などの儀式もあるのかもしれません。
========================
一条真也『永遠葬』
「葬儀によって、有限の存在である“人”は、無限の存在である“仏”となり、永遠の命を得ます。
これが「成仏」です。
葬儀とは、実は「死」のセレモニーでじゃなく、「不死」のセレモニーなのです。
そう、人は永遠に生きるために葬儀を行うのです。」
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「「縁」とは人間が社会で生きていく上での前提条件であり、
「絆」とはさまざまな要因によって後から生まれるものです。」
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読んでいてはっとしました。
人は死んだら<仏になる><お釈迦になる><お陀仏>・・・など、色々な不思議な表現があります。
生から死へとモードが変わる時、人から仏へと、人からカミへと、次元転換のような現象が起きるようです。
そんな奇跡的な記念日に、仏やカミとなる「不死」のセレモニーとして「葬」が行われているとしたら、こんなに素敵なことはありません。
・・・・・・
本書では、「0葬」も適時引用しながら、葬儀の歴史が語れます。
初めて知った知識として、以下のようなものがありました。
●中江兆民(1847‐1901年、ジャン=ジャック・ルソーの思想を日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となる)は、
1887年(明治20年)に葬儀無用論を唱えた。
そうは言うものの、生前に親交のあった板垣退助や大石正巳といった自由民権家が、
中江兆民を偲ぶために宗教上の儀式にとらわれない「告別式」を青山会葬場で開いた。
これが一般化した告別式の始まり。
●仏教式の葬儀の方法を生みだしたのは浄土宗ではなく禅宗。
曹洞宗で道元と共に宗租とされる道元禅師から4代目の瑩山禅師(けいざんぜんじ)が、『禅苑清規』という書物をもとに、修行途中の雲水の葬儀の方法を俗人の葬儀に応用する道を開いた。
この二つは初耳で驚きました。
中江兆民のように、<葬儀なんか必要ないわい!>と言った人に、
周りの人が「やれやれ、困ったものだ」と。
ただ、そんな相手の意見も最大限に尊重しつつ、
それでいて残された人たちの哀悼の念を表現して喪に服すため「告別式」が生まれた、という歴史的な事実!
これこそまさに「人に迷惑かけたくない!」と思うものの、そういう強引な発言も含めて<結局は人に迷惑かけてしまう>わけです。
そんな葛藤の狭間から「告別式」がうまれた、というのは歴史の醍醐味でも皮肉でもありますね。
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一条真也『永遠葬』
「儀式と言う形はドラマや演劇にも似ている。
ドラマで「かたち」が与えられると、心はその「かたち」に収まる。」
========================
内的世界と外的世界は照応(correspond)しています。
現実を夢のように、夢を現実のように捉えていくと、
内的世界と外的世界は不思議なコンステレーションを布置していることに気付きます。
目では見えない「こころ」にあるまとまりをもたせるため、
人類は言語として「物語」を生みだし、からだの言語として「演劇」を生みだしたのではないでしょうか。
演劇を見ることで、はたまたお能を見ることで、場全体で色々な物事を共同体験しているのだと思います。
それは、映画などの視覚的な映像表現ではとりこぼしてしまうものなのかもしれません。
実際に演劇やお能などに足を運んでみると、何か自分の心が動いて変化したのを感じます。
(演劇などの個人的感想)
<東京ノーヴィ・レパートリーシアター>
●「古事記 天と地といのちの架け橋」(2014-10-10)
●「ゴドーを待ちながら」(2014-02-25)
●『Idiot~ドストエフスキー白痴より~』(2013-10-08)
●ブレヒト『コーカサスの白墨の輪』(2013-06-13)
<宮城聰(みやぎ・さとし)さん SPAC 静岡県舞台芸術センター芸術総監督>
●SPAC『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』(2014-09-24)
<美輪明宏さん>
●美輪明宏「黒蜥蜴」(2013-04-30)
<ベルリンフィル マリス・ヤンソンス指揮>
●ベルリンフィルの衝撃(2012-06-12)
<演出:蜷川幸雄 脚本:フランク・ギャラティ、原作:村上春樹>
●舞台版「海辺のカフカ」(2012-05-04)
<望月龍平シアターカンパニー>
●音楽劇「君よ 生きて」(2015-01-27)
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一条真也『永遠葬』
「「迷惑」の背景には「面倒」という本音が潜んでいる。
葬儀や墓のことを家族で話し合うのが面倒なのかもしれない。」
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病や死という現象が起きると、バラバラだった人たちはその人を中心に集まることになります。
つまり、病や死というものが「つなぐ」働きを持つのです。
「つなぐ」働きを面倒だと思えば、インターネットやお金でパパっと済ませたくなりますが、
「つなぐ」働きを正面から受け止めれば、何か新しい関係性が生まれるきっかけになります。
臨床の現場でも、そのことで何十年もいがみあった兄弟や家族が数十年ぶりに出会い、
和解するきっかけになる例を沢山見ています。
一条さんは、葬儀には、社会的な処理、遺体の処理、霊魂の処理、悲しみの処理、という4つの役割があり、葬儀は「死者を弔う心」のあらわれ。葬儀は死者を描いたドラマであり、「老い」と「死」に揺れる魂を安定させる働きを持つ。と書かれています。
こういう人間の内面への、深い層への働きかけは、葬儀の表面や形式だけを見ているとなかなか気付きにくいことだと思います。
また、本書では、鈴木隆泰『葬式仏教正当論』を紹介しながら、ブッダと葬の関係に対して、新しい一石を投じているように感じました。
こちらに関しては、本書を手に取りよく読んで頂くことをお勧めします。
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●「歴史的な存在として」(2015-06-26)
自分もふと浮かんだことをここに書き連ねましたが、私たちは歴史や時間の流れというものから逃れることはできません。
人類にとって最大の謎であり続け、大きな謎として常にインスピレーションを与えて続けてきたことは、「生まれる」「生きている」「死んでいく」というプロセスではなかったでしょうか。
この赤ん坊という生命体は、この放逸で爆発的なな生命エネルギーと共に、果たして何をしにどこからやってきたのだろうか。
そして、人生という豊かな時間を重ねた人間は、死ぬという現象により違う世界に旅立っていく。
人はどこから、なんのためにやってきて、どこへと向かっていくのだろう。
そしてなぜこんな謎に満ちた現象が、何世代も何世代も、途切れることなく太古から延々と続いているのだろうか。
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それは今でも古代でも大きな謎であり問いであったのだと思います。
人類や宇宙の謎そのものを含んだ生や死という現象に対して、人類は「葬」という形で人を弔い、「いのち」をつないできました。
生きている人間より、過去に死んでしまった人の数の方が遥かに多いのです。
その故人たちが受け継いできて手渡そうとした過去の営みには、きっと深い意味があると思います。
そういう謎や問いに引き寄せられるように、観念的ではなく実際的な側面から考察していくように、自分は医療の現場で日々働いています。
本書では、葬の歴史、葬の意義・・・、色んなものを考え直すいいきっかけになりました。
そういうことを改めて考え直してみたい方は、是非お読み頂ければと思います。
・・・・・・・
1945年に日本は終戦を迎え、戦後70年が経ちました。
在宅医療でお年寄りの方と接するたびに、戦争の話を聞きます。
そこで語られるすべてのことは、多くの死者からその方が「いのち」を受け取った「しるし」のようなもの。
その「しるし」はトーチのように、いまこうして生きている次の世代へと、過去と現在と未来とをつなぐように手渡されます。
それは語りでしか表現しえないものです。
毎年8月になると、なにか「いのち」を手渡されているような気がして、いつもソワソワしてしまうのは、気のせいでしょうか。
<参考>
●音楽劇「君よ 生きて」(2015-01-27)
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追記:
一条さんがブログ内で本ブログをご紹介くださいました。
<一条さんのブログより>
■未来医師、『永遠葬』を読む(2015-08-20)
■『唯葬論』に反響続々!(2015-08-10)
■『唯葬論』の途方もない書評ブログが完結!(2015-08-14)
Upした直後に迅速なフォロー有難うございます。
一条さんのブログ更新の量と質とスピードには、はたして何人の一条さん(OR小人コビト)がいるんだろうかと、日々舌を巻いております。
写真もお褒めいただきありがとうございます。普通の1万円くらいのデジカメで撮っているので、いつかいいカメラでも買いたいなと思いつつ、もう10年位足りました。(笑) 福岡は学会発表の一泊弾丸ツアーだったので、次回行きます時はぜひご連絡します。 一条さんも、東京で映画見られるときは、御連絡頂ければ、タイミングさえあえばご一緒させていただきたいです。先日はディズニーのインサイドヘッドを見て、すごく面白かったです。近いうちにお会いしたいです。