葉室頼昭さんの「神道 見えないものの力」春秋社(1999/11)を読んだ。
===============
<内容(「BOOK」データベースより)>
“神道”のこころに目覚め生きることの大切さを説く著者が、いま、“生きること”と、“いのちを伝えること”の真実を、すべての日本人に、縦横自在に語る、注目の人生の書。
<内容(「MARC」データベースより)>
自然の動物は、見えざる導きによる知恵をちゃんと感じて生きている…。
「神道」のこころに目覚め生きることの大切さを説き、「生きること」と「いのちを伝えること」の真実をすべての日本人に語る。
===============
去年、伊勢神宮に初めて行きました。(⇒『伊勢』(2010-03-03))
その空間の圧倒的な清浄さ、清々しさ、天空に突き抜けるような気の流れ・・・現地に行って感じることはとても多く、行ってみてよかったと思ったものです。
日本人が無意識に信仰している神道をちゃんと勉強しなければとは思ったものです。
初詣ででも、神社に無意識に行く。
それはすでに、無意識層に沈殿した原初の信仰の営みのようなものだと思うのです。
高校生の時、神道の考え方が戦争で使われたのを知って、「どうも宗教はイヤだなぁ」という偏見がありました。
ただ、あれは「国家神道」で、軍部が戦争を合理化するために無理やりこしらえて悪用された考え方なんですよね。
このことは、井沢元彦さんの「逆説の日本史」シリーズ(←まだ鎌倉時代辺りで中座してる)、「仏教・神道・儒教集中講座」徳間文庫(2007)とかを、読んでから改めて考えたこと。高校生の時は深く考えもせず、わからなかった。
改めて気づいたこと
・偏見をゼロにして、自分のあたまで考えなおしてみる作業が大事。偏見をなくすには、素直さが大事。
・関連本を数冊読まないと、全体像はわかりづらい。賛成意見も反対意見も含め、色んな意見に耳を傾ける。
・どんなにいい考えでも素晴らしい考え方でも、悪用されることもある。使う人や使い方次第。人間性が大事。
ということでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・
本題。
葉室頼昭さんの「神道 見えないものの力」春秋社(1999/11)は、とてもいい本だった。
作者の葉室さん(1927-2009年)は、もともとは形成外科のお医者さん。その後68歳にして春日大社の宮司に就任された方。
医者をされてただけあって、考え方は合理的で論理的。
その上で「カミ」への揺るぎ無い確信があって、葉室さんから語られる言葉にはうならされることが多かった。
「神」と書くと、一神教「God」のイメージが強い。
でも、神道の「カミ」は意味が違う。
柳父章さんの『「ゴッド」は神か上帝か』岩波現代文庫(2001)という本にもありますが(精読してないので記憶があいまい)、イスラエルで生まれた一神教のGODという概念が中国に移動したとき、それをどういう漢字で表現するのかが議論された。中国語訳の聖書で、GODの訳語がアメリカ人とイギリス人の宣教師で「神」と「上帝」に分かれた。その中国語訳の聖書を輸入した日本ではGODに「神」という漢字をあてた。それぞれの国で言葉のイメージは全然違う。だから、言葉にひきずられないように注意しないといけないようだ。
日本で使われている「神」のニュアンスは、一神教の父なる恐ろしい神ではなくて、すべてを慈悲深く受け入れ、すべてを生み出し育んでくれるようなもの。すべてのものに生命を吹き込むような母なる「かみさま」という感じだと思います。それが転じて、なんでもすごいもの、畏敬すべきのを「かみさま」と呼んぢる。
手塚治虫は漫画のかみさま。松下幸之助は経営のかみさま。すごい人を「カミだ!」と呼ぶようなものでしょうか。
いづれにしても「コトバ」は道具であるので、そこに引きずられすぎてもいけない。
(→例えば、「Nature」と「自然」という言葉に関してもブログに書いたことがある。⇒『オノズカラ(自ら)、シカル(然る)』(2010-07-11))
===========
本居宣長「古事記伝」
『さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしへのみふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其(そ)を祀(まつ)れる社に坐(いま)す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐひ海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり。』
===========
本居宣長も言うように、とにかく人間のレベルをはるかに超えた偉大で崇高なものを日本人は「かみさま(迦微、かみ、カミ)」と呼んだのでしょうね。
・・・・・・・・・
脱線するので本の内容に。
■見る
タイトルに「見えないものの力」とある。
だから、「見る」とはどういうことか、改めて考察してある。
「見る」というのも不思議な現象だ。
「見る」とは、必ずしも目で見ているわけではない。
目は光をキャッチしているだけにすぎなくて、その奥の脳の視覚中枢と言う細胞が「見て」いる。
例えば、茶碗を見るときを考える。
暗闇の中の茶碗は見えない。そこに太陽の光が当たる。
その光の反射具合によって、その物体が茶碗とわかる。
茶碗に当たる光が全反射したら、見えるのは真っ白の光だけで茶碗は見えない。
茶碗に光が当たらないと暗闇。それでも茶碗は見えない。
日常では、太陽の光は全反射せずに乱反射する。
そこで、太陽の光の波動は茶碗の波動へと変わる。それを僕らは「見る」。
茶碗の波動は目に入る。水晶体を通過して網膜で像として結ばれる。
それが視神経を通り、脳細胞に行き、初めて茶碗という存在が「見える」。
見えること。それは当たり前のように思いがちだけど、そうではない。
太陽の光があたった瞬間に、光は茶碗の固有の波動へと変わり、それを見ている。
その過程が「見えないもの」が「見える」ことへの変換。
暗闇の中に光が差し込む。すると、見える。
見えるとき、太陽の光の波動がその物体の波動へと変換されて脳細胞が認識している。
「見える」のは不思議だ。この世界も人体も不思議なものです。
■共生
例えばシカとの共生を考える。
シカを人間に慣れさせようとするのは、共生ではなく家畜化と同じだとのこと。
そうではなく、共生とは人間が向こうの世界に近づくこと。
シカはシカで自然に勝手に生きる。そこに、人間が近付いていく。それが人間と動物の共生。
それは、木や林や森・・・・自然との共生も同じ。
向こう側を人間の都合で、家畜化の考えで自然を回復させようとするのは共生ではない。
自然は自然のままに任せる。そこに、人間が近付いていくことこそが大事。
動物も自然も、向こうの世界をそのまま尊重する。お任せしないといけない。
その共生の中で、全体はバランスをとって調和していく。
そうして人間は生きてきたのだと、書いてあった。
■自力
自分で努力した人だけが、幸せを感じることができる。
病気も自分で直そうとしない人は本当の意味では治らない。
カミサマでも、自分で努力して助かろうと思う人しか助けることができない。
「天は自ら助くる者を助く」(Heaven helps those who help themselves.)
浄土真宗の親鸞の原稿を弟子の唯円が書きつけた歎異抄。
その中で常に議論の対象になるパラドックスを含む言葉がある。
「善人なをもて往生をとぐ、 いはんや悪人をや」(悪人正機)
→「善人でさえ往生できるのだから、悪人はなおさら往生できる」
この意味は、<悪人とは、自分が悪かったと自覚している人のこと。自分は<善人=いい人>だと主張し、自分にも悪はがあると自覚していない人は救えない。>と言っている。
おれは善人だ!と、自分の悪を全く自覚してない人は一番救えない人らしい。
確かにそうかもしれない。
■宇宙の時間
昼の世界と言うのは、単に地球の地表部分だけのことにすぎない。
宇宙は、99.9999・・・%が闇の世界、夜の世界。これが寧ろほんとうの世界。
宇宙の本質である「夜」が分かるようにするために、地球には「昼」という時間がある。
太陽の本質は光。
宇宙の星を見るときを考える。
10億光年遠くの星を見るとき、それは10億年前に星から放たれた光。しかも、その星は今は存在していない。
だから、「光」を通して、存在しないもの(=この場合は星)を見ていることになる。
これは僕らの日常では理解できない感覚だ。
光だけが存在している。
そして、その光りを媒介にして、そこに存在していないものを見ている。
これこそが宇宙の時間の感覚であり、宇宙の「見る」感覚だ。
日常の常識だけにとらわれてはいけない。
宇宙の時間は、人間が感じる「時間」の感覚を超えている。
そして、「命(いのち)」も繰り返しの中に通じていくもの。それはすでに「時間」を超えている概念。
宇宙は150億年前、地球は46億年前、生命は35億年前、ホモ・サピエンス・サピエンス(現生人類)は、20万年前。
その果てしない過程の中で「命(いのち)」は綿々と続く。
「時間」の概念を超えた<不易流行>の中で命が伝わる。
伝統も、時を超えて「変わらずに、そして変えながら」伝えていくというプロセス。
「命」の本質は、そういう風に時間を超えた繰り返しの中にこそある。
■言葉
言葉は現実に表すもの。それは妄想なんかではない。
言葉になると、それは既に形になる。
だから、いいことを言い続ければ、きっとその人にはいい世界が現れる。
悪いことを言い続ければ、きっと悪い世界が展開されていく。
思考を現実化していくのが、コトバだ。
■
死後の世界は、黄泉の国(夜見の国)。
夜見の国は、祖先の国。その世界に行くのが往生ということ。
だから、すべてが無くなるという意味での死は存在しない。
死は単に祖先の国へ帰っていくだけのこと。
そうしていのちは循環する。
祖先は、かみさまそのものだと。
■
人間は生きているというより、生かされている。
だからこそ、感謝が生まれる。
■
年をとっても美しい女性は、神の姿そのまま。神様のこころに従って生きている。
それは、我欲なく素直に生きている人。
■
「罪」や「穢れ」は、清らかな体を包み隠すもの。人間の尊い気を枯らすマイナスのエネルギーのこと。
気が枯れるから、「ケガレ」と言う。それは、「我(ego)」を出したときの心の乱れ、精神力の衰えのこと。
罪や穢れが消えると「祓い」というのは、国つ神(地下)のプラスのエネルギーが与えらること。
そういうエネルギーのバランスの問題だ。
健康になるというのも、病気を克服するのではなく、エネルギーの回復のことを言う。
病気や何かを取り除いて除去するというよりも、プラスのエネルギーを受け取り健康になる。
例えば、ありがたいとか感謝という気持ちは我欲を消す働きがある。だからバランスが整う。
日本人の「命」の基本は、カミと祖先を祀ってそれによって生かされるという感謝の生活だ。
■
死んだ人を思い出すということは、死んだ人があの世で生きているということ。
現世のわれわれとつながっているということ。
■
自然と対立するのではなく、自然の変化に順応して生きること。
つまらない仕事はこの世にはない。
単につまらなくする人間がいて、つまらないと思う人間がいるだけ。
・・・・・・・・・・・・
トピック形式で書きましたが、いろいろ思うところが多い本でした。
神道という世界を古から引き継いでいる人たち。
どんな時代に変わろうとも、時代を超えて変わらずに続けていること。まさしく不易流行。
この現実世界での時間の感覚を超えている。それはまさに宇宙の時間なのだろう。
太陽から、地球も自然も人間も、光と熱のエネルギーをもらっている。それはまさしく宇宙の時間を超えてやってきたもの。
そういう存在によって生かされている。
だからこそ、この日常を感謝してつつがなく送りながら、時には宇宙に思いをはせるのも大事なのだろう。それこそがその人のコスモロジーになり、その人の生き様になるのだと思う。
===================
葉室頼昭「神道 見えないものの力」春秋社(1999/11)
『神さまがそこにおられるんだから、それを見ることができるかできないかだけのことでしょう。
見ることができない人は、いないとか、いるとかと言っているだけなんですね。
本当に見たら、何を信じるとか信じないとかではなくて、おられるということが分かる。
そこで感動するわけでしょう。』
『どうしたら見られるかと言ったら、我をなくすこと以外に神を見る方法というものはない。理屈では見られないのです。』
『神さまというのは命です。生きる知恵ですね。形にすれば美です。それもシンプルさの極限の美です。
そこに神の世界というのは見ることができるのです。それを伝えているのが命です。神というのはそういうものでしょう。』
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<内容(「BOOK」データベースより)>
“神道”のこころに目覚め生きることの大切さを説く著者が、いま、“生きること”と、“いのちを伝えること”の真実を、すべての日本人に、縦横自在に語る、注目の人生の書。
<内容(「MARC」データベースより)>
自然の動物は、見えざる導きによる知恵をちゃんと感じて生きている…。
「神道」のこころに目覚め生きることの大切さを説き、「生きること」と「いのちを伝えること」の真実をすべての日本人に語る。
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去年、伊勢神宮に初めて行きました。(⇒『伊勢』(2010-03-03))
その空間の圧倒的な清浄さ、清々しさ、天空に突き抜けるような気の流れ・・・現地に行って感じることはとても多く、行ってみてよかったと思ったものです。
日本人が無意識に信仰している神道をちゃんと勉強しなければとは思ったものです。
初詣ででも、神社に無意識に行く。
それはすでに、無意識層に沈殿した原初の信仰の営みのようなものだと思うのです。
高校生の時、神道の考え方が戦争で使われたのを知って、「どうも宗教はイヤだなぁ」という偏見がありました。
ただ、あれは「国家神道」で、軍部が戦争を合理化するために無理やりこしらえて悪用された考え方なんですよね。
このことは、井沢元彦さんの「逆説の日本史」シリーズ(←まだ鎌倉時代辺りで中座してる)、「仏教・神道・儒教集中講座」徳間文庫(2007)とかを、読んでから改めて考えたこと。高校生の時は深く考えもせず、わからなかった。
改めて気づいたこと
・偏見をゼロにして、自分のあたまで考えなおしてみる作業が大事。偏見をなくすには、素直さが大事。
・関連本を数冊読まないと、全体像はわかりづらい。賛成意見も反対意見も含め、色んな意見に耳を傾ける。
・どんなにいい考えでも素晴らしい考え方でも、悪用されることもある。使う人や使い方次第。人間性が大事。
ということでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・
本題。
葉室頼昭さんの「神道 見えないものの力」春秋社(1999/11)は、とてもいい本だった。
作者の葉室さん(1927-2009年)は、もともとは形成外科のお医者さん。その後68歳にして春日大社の宮司に就任された方。
医者をされてただけあって、考え方は合理的で論理的。
その上で「カミ」への揺るぎ無い確信があって、葉室さんから語られる言葉にはうならされることが多かった。
「神」と書くと、一神教「God」のイメージが強い。
でも、神道の「カミ」は意味が違う。
柳父章さんの『「ゴッド」は神か上帝か』岩波現代文庫(2001)という本にもありますが(精読してないので記憶があいまい)、イスラエルで生まれた一神教のGODという概念が中国に移動したとき、それをどういう漢字で表現するのかが議論された。中国語訳の聖書で、GODの訳語がアメリカ人とイギリス人の宣教師で「神」と「上帝」に分かれた。その中国語訳の聖書を輸入した日本ではGODに「神」という漢字をあてた。それぞれの国で言葉のイメージは全然違う。だから、言葉にひきずられないように注意しないといけないようだ。
日本で使われている「神」のニュアンスは、一神教の父なる恐ろしい神ではなくて、すべてを慈悲深く受け入れ、すべてを生み出し育んでくれるようなもの。すべてのものに生命を吹き込むような母なる「かみさま」という感じだと思います。それが転じて、なんでもすごいもの、畏敬すべきのを「かみさま」と呼んぢる。
手塚治虫は漫画のかみさま。松下幸之助は経営のかみさま。すごい人を「カミだ!」と呼ぶようなものでしょうか。
いづれにしても「コトバ」は道具であるので、そこに引きずられすぎてもいけない。
(→例えば、「Nature」と「自然」という言葉に関してもブログに書いたことがある。⇒『オノズカラ(自ら)、シカル(然る)』(2010-07-11))
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本居宣長「古事記伝」
『さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしへのみふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其(そ)を祀(まつ)れる社に坐(いま)す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐひ海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり。』
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本居宣長も言うように、とにかく人間のレベルをはるかに超えた偉大で崇高なものを日本人は「かみさま(迦微、かみ、カミ)」と呼んだのでしょうね。
・・・・・・・・・
脱線するので本の内容に。
■見る
タイトルに「見えないものの力」とある。
だから、「見る」とはどういうことか、改めて考察してある。
「見る」というのも不思議な現象だ。
「見る」とは、必ずしも目で見ているわけではない。
目は光をキャッチしているだけにすぎなくて、その奥の脳の視覚中枢と言う細胞が「見て」いる。
例えば、茶碗を見るときを考える。
暗闇の中の茶碗は見えない。そこに太陽の光が当たる。
その光の反射具合によって、その物体が茶碗とわかる。
茶碗に当たる光が全反射したら、見えるのは真っ白の光だけで茶碗は見えない。
茶碗に光が当たらないと暗闇。それでも茶碗は見えない。
日常では、太陽の光は全反射せずに乱反射する。
そこで、太陽の光の波動は茶碗の波動へと変わる。それを僕らは「見る」。
茶碗の波動は目に入る。水晶体を通過して網膜で像として結ばれる。
それが視神経を通り、脳細胞に行き、初めて茶碗という存在が「見える」。
見えること。それは当たり前のように思いがちだけど、そうではない。
太陽の光があたった瞬間に、光は茶碗の固有の波動へと変わり、それを見ている。
その過程が「見えないもの」が「見える」ことへの変換。
暗闇の中に光が差し込む。すると、見える。
見えるとき、太陽の光の波動がその物体の波動へと変換されて脳細胞が認識している。
「見える」のは不思議だ。この世界も人体も不思議なものです。
■共生
例えばシカとの共生を考える。
シカを人間に慣れさせようとするのは、共生ではなく家畜化と同じだとのこと。
そうではなく、共生とは人間が向こうの世界に近づくこと。
シカはシカで自然に勝手に生きる。そこに、人間が近付いていく。それが人間と動物の共生。
それは、木や林や森・・・・自然との共生も同じ。
向こう側を人間の都合で、家畜化の考えで自然を回復させようとするのは共生ではない。
自然は自然のままに任せる。そこに、人間が近付いていくことこそが大事。
動物も自然も、向こうの世界をそのまま尊重する。お任せしないといけない。
その共生の中で、全体はバランスをとって調和していく。
そうして人間は生きてきたのだと、書いてあった。
■自力
自分で努力した人だけが、幸せを感じることができる。
病気も自分で直そうとしない人は本当の意味では治らない。
カミサマでも、自分で努力して助かろうと思う人しか助けることができない。
「天は自ら助くる者を助く」(Heaven helps those who help themselves.)
浄土真宗の親鸞の原稿を弟子の唯円が書きつけた歎異抄。
その中で常に議論の対象になるパラドックスを含む言葉がある。
「善人なをもて往生をとぐ、 いはんや悪人をや」(悪人正機)
→「善人でさえ往生できるのだから、悪人はなおさら往生できる」
この意味は、<悪人とは、自分が悪かったと自覚している人のこと。自分は<善人=いい人>だと主張し、自分にも悪はがあると自覚していない人は救えない。>と言っている。
おれは善人だ!と、自分の悪を全く自覚してない人は一番救えない人らしい。
確かにそうかもしれない。
■宇宙の時間
昼の世界と言うのは、単に地球の地表部分だけのことにすぎない。
宇宙は、99.9999・・・%が闇の世界、夜の世界。これが寧ろほんとうの世界。
宇宙の本質である「夜」が分かるようにするために、地球には「昼」という時間がある。
太陽の本質は光。
宇宙の星を見るときを考える。
10億光年遠くの星を見るとき、それは10億年前に星から放たれた光。しかも、その星は今は存在していない。
だから、「光」を通して、存在しないもの(=この場合は星)を見ていることになる。
これは僕らの日常では理解できない感覚だ。
光だけが存在している。
そして、その光りを媒介にして、そこに存在していないものを見ている。
これこそが宇宙の時間の感覚であり、宇宙の「見る」感覚だ。
日常の常識だけにとらわれてはいけない。
宇宙の時間は、人間が感じる「時間」の感覚を超えている。
そして、「命(いのち)」も繰り返しの中に通じていくもの。それはすでに「時間」を超えている概念。
宇宙は150億年前、地球は46億年前、生命は35億年前、ホモ・サピエンス・サピエンス(現生人類)は、20万年前。
その果てしない過程の中で「命(いのち)」は綿々と続く。
「時間」の概念を超えた<不易流行>の中で命が伝わる。
伝統も、時を超えて「変わらずに、そして変えながら」伝えていくというプロセス。
「命」の本質は、そういう風に時間を超えた繰り返しの中にこそある。
■言葉
言葉は現実に表すもの。それは妄想なんかではない。
言葉になると、それは既に形になる。
だから、いいことを言い続ければ、きっとその人にはいい世界が現れる。
悪いことを言い続ければ、きっと悪い世界が展開されていく。
思考を現実化していくのが、コトバだ。
■
死後の世界は、黄泉の国(夜見の国)。
夜見の国は、祖先の国。その世界に行くのが往生ということ。
だから、すべてが無くなるという意味での死は存在しない。
死は単に祖先の国へ帰っていくだけのこと。
そうしていのちは循環する。
祖先は、かみさまそのものだと。
■
人間は生きているというより、生かされている。
だからこそ、感謝が生まれる。
■
年をとっても美しい女性は、神の姿そのまま。神様のこころに従って生きている。
それは、我欲なく素直に生きている人。
■
「罪」や「穢れ」は、清らかな体を包み隠すもの。人間の尊い気を枯らすマイナスのエネルギーのこと。
気が枯れるから、「ケガレ」と言う。それは、「我(ego)」を出したときの心の乱れ、精神力の衰えのこと。
罪や穢れが消えると「祓い」というのは、国つ神(地下)のプラスのエネルギーが与えらること。
そういうエネルギーのバランスの問題だ。
健康になるというのも、病気を克服するのではなく、エネルギーの回復のことを言う。
病気や何かを取り除いて除去するというよりも、プラスのエネルギーを受け取り健康になる。
例えば、ありがたいとか感謝という気持ちは我欲を消す働きがある。だからバランスが整う。
日本人の「命」の基本は、カミと祖先を祀ってそれによって生かされるという感謝の生活だ。
■
死んだ人を思い出すということは、死んだ人があの世で生きているということ。
現世のわれわれとつながっているということ。
■
自然と対立するのではなく、自然の変化に順応して生きること。
つまらない仕事はこの世にはない。
単につまらなくする人間がいて、つまらないと思う人間がいるだけ。
・・・・・・・・・・・・
トピック形式で書きましたが、いろいろ思うところが多い本でした。
神道という世界を古から引き継いでいる人たち。
どんな時代に変わろうとも、時代を超えて変わらずに続けていること。まさしく不易流行。
この現実世界での時間の感覚を超えている。それはまさに宇宙の時間なのだろう。
太陽から、地球も自然も人間も、光と熱のエネルギーをもらっている。それはまさしく宇宙の時間を超えてやってきたもの。
そういう存在によって生かされている。
だからこそ、この日常を感謝してつつがなく送りながら、時には宇宙に思いをはせるのも大事なのだろう。それこそがその人のコスモロジーになり、その人の生き様になるのだと思う。
===================
葉室頼昭「神道 見えないものの力」春秋社(1999/11)
『神さまがそこにおられるんだから、それを見ることができるかできないかだけのことでしょう。
見ることができない人は、いないとか、いるとかと言っているだけなんですね。
本当に見たら、何を信じるとか信じないとかではなくて、おられるということが分かる。
そこで感動するわけでしょう。』
『どうしたら見られるかと言ったら、我をなくすこと以外に神を見る方法というものはない。理屈では見られないのです。』
『神さまというのは命です。生きる知恵ですね。形にすれば美です。それもシンプルさの極限の美です。
そこに神の世界というのは見ることができるのです。それを伝えているのが命です。神というのはそういうものでしょう。』
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親鸞聖人の考えは、逆説に満ちていますが、やはりその時代や文脈を無視すると、言葉だけ独り歩きすることもありそうですね。実際、南無阿弥陀仏と言いさえすれば成仏するから、というへ理屈で、南無阿弥陀仏と唱えながら殺生をする人間もいたようで、そのことも親鸞は歎異抄で嘆いていますね。
最終的には、自分の中にある良心がもっとも大事なような気がします。
どんな人でも、「自分」とは生まれてから死ぬまで、一生付き合っていかないといけない存在ですし、「自分」こそが24時間365日、自分を監視している存在でもありますから。
自分も、常に修行中の身です。精進します。
コメントありがとうございました。
私も葉室さんの本は春秋社から出ている本は5冊といわず読ませていただきました。表紙が雅なところが美しくて好きでした。最初に読ませていただいたのは、いまから8-9年ほど前です。人のご縁や、霊性というものを真摯に考える一つの大きなきっかけとなりました。当時は、元 医師で春日大社の宮司さんという経歴が非常に興味深くて、私自身も通信講座で宮司さんになれないかなー、などと本気で考えておりました。なんとかサイキックなところを克服したかったんです。日々、出口を求めてさまよっていた頃でした。。。
いまとなっては、あのころの経験があるからこそ、今があると思えます^^
自分もすべての著作読みましたが、同じエピソードが何度も出てくるので少しそれは退屈したのですが、そうは言っても、神道を理系が解釈しているような感じですごく分かりやすかった。
<はたらく、とは、はたを楽にすること>というのは常に考えています。自分のためではなくて、その仕事に関わる人を楽にするために、仕事というのはあるのだ、ということ。この視点はよく思い返します。
神道のような、自然と一つである考え方は、自分はとても好きです。 やはり、自分も自然が好きなんですよね。 神社にある大木やご神木をみると、ほんとうに安らかな気持ちになりますし。大抵の聖地は、どこも自然が美しいので好きです。
おまけに「日本よい国」という葉室宮司の絵本の輪読会にも春日大社まで行きました。
よい思い出です。