■
瞑想を習慣的にしているわけではないのですが、【瞑想状態】には興味があります。
瞑想は適切な指導者の元で行うことが大事なようです。危険な面もあるようで。
瞑想を霊的に変な場所で行うと、脳や意識に「すき間」「空白」が作られるので、そこに何かが挿入されてしまうことがあるようです。
例えて言えば、「海辺のカフカ」に出てくるナカタさんのような状態だと思います。
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村上春樹「海辺のカフカ」
『空っぽということは、空き家と同じなのです。
鍵がかかっていない空き家と同じなのです。
入るつもりになれば、なんだって誰だって、自由にそこに入ってこられます。
ナカタはそれがとても恐ろしいのです。』
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(→ちなみに、以前見に行った舞台版「海辺のカフカ」の感想も書いたことがあります。⇒舞台版「海辺のカフカ」(2012-05-04))
「カルマ・ヨーガ」は、日常生活そのものを修行の場ととらえ、見返りを要求しない無私の奉仕精神で日々を生活すること(『バガヴァッド・ギーター』より)
禅での生活(掃除、食、呼吸・・・の一つ一つの動作を丁寧に行うこと)も同じようなもの。
これは誰にでもできるし、ある意味誰もが無意識にさせられているかもしれない。
人生全てが修行。瞑想状態にならざるをえない場面も多数あったりして。
この日常はつらいことや大変なこともたくさんあって、それを「修行」と捉えれば無限に修行の課題が溢れているわけですが・・・(^^;
・・・・・・・・・・・・・・・・・
■
本題。
「瞑想」というとあまりに宗教的な用語になるので、瞑想(meditation)ではなくMindfulness(マインドフルネス→気づき)と言う言葉を使うこともあるようですね。
自分がなぜ「瞑想」状態に興味があるかと言うと、「集中」という状態に興味があるからなのです。
漫然と本を読んだり勉強しても頭に入らないけれど、「集中」して本を読んだり勉強すると記憶として定着する。
このことが不思議でたまりませんでした。だから、学門の極意は「集中」であると感じたのです。
普段の心臓の仕事での経験として、極限まで意識を「集中」していく時に、まるで無念無想のような状況(静かな湖畔のような)になっていく瞬間があります。
その瞬間にものすごく意識が清明となり、時間の感覚が伸び縮みする(1分の時間が10分くらいに伸びる)時をよく経験するからです。
これは、交通事故などでの臨死体験時(Near-death experiences ; NDEs)に時間がスローモーションに流れる、ということと似ています。
ふだん、僕らの脳みそは勝手にいろんなことを考えています。「考えよう」という意識を持たなくても、脳は勝手に活動している。
自分は「脳の自動現象(オートメーション)」と呼んでいます。
たとえば「何も考えずに静かに目をつぶったままにしてください」と言って数分程度黙想してもらうと、たいていの人は自分の意志で止めることのできない思考が無限に湧いているのを感じます。「考えない、考えない・・・」と考えてしまいますし、湧いてくる思考の海を冷静に観察すると、驚くことが多いです。どれだけ内的エネルギーが浪費されているのか、と。
それは、たいてい「過去」の後悔であったり、「未来」への不安や恐れ・・・など、「過去」や「未来」などの時間に関係する事柄であることが多いわけです。
このことは、「時間」というのは「脳」が生み出す概念にすぎない、とも言えるかもしれません。
いづれにせよ、そういう「脳の自動現象」は、おそらく相当量の内的エネルギーを使用しているのではないかと危惧するわけです。
どんなにご飯を食べて「外的エネルギー」を摂取してもどうにも疲れている人が多いように見受けられるのは、この「内的エネルギー」の消費や不足が原因なのではないかと思うのです。
たいていの不安や心配ごとは、そういう「内的エネルギーの欠乏・枯渇」から来ているのかもしれません。
なぜなら、「未来」は未知で不確定でありほとんどの領域はどうすることもできませんし、過去は既知で確定なのでどうすることもできません。
脳の中で思考を反復させたところで未来や過去が変化するわけではなく、変化させうるのは「現在」という一点でしかないと思うのです(そのことは間接的にも未来を変え得るということは言えますが、それは過去を思い出してしか言うことができないことに注意すべきです。)。
未確定の未来や確定の過去を、自分の思い通りにしようとすると、それは脳の中で虚像や虚構のストーリーを作り出すことにも通じますし、それは自作自演で自分が自分をだます、という妙な状態になっていくからです。
■
そういうことを考えています。
自分は、自分が生みだす脳の錯覚や虚構に注意を払うようにしています。別の言葉では「偏見」や「思い込み」と言われるものです。
未確定の未来、確定の過去、それはかなりの程度の虚構(虚像)を含んでいるので、その中に取り込まれないように注意すべきだと思いますし、虚構よりも実像である「今」にこそ敬意と注意を払う。そのことが「集中」にもつながるのでなかろうか、と思うわけです。
何かに集中していくことは、「今」という現在の瞬間を生きることと似ていると思います。
それは、子供が無邪気に外で遊んでいる時や、僕らが気の許せる友人と楽しく会話をする時。「時間を忘れて熱中する時」に体感する瞬間です。
「無我夢中」とはよく言ったもので、「我ego」を無くし「夢」のような無時間にいる状態です。
そんなとき、脳内の無統御の思考の荒れた海は静寂となります。集中状態は瞑想状態とかなり接近するのではないかと思うことが多く、そういう意味で、いろんな形で追求されていた「瞑想Meditation」という状態には興味があるわけです。
ただ、瞑想というと、暗い中で修行服を着て、ロウソクを立てて、座禅して・・・という極めて宗教的なイメージが伴うこともあります。
自分もそういう偏見や先入観を持っている人間の一人ではあるわけですが、正しい理解には「偏見」や「先入観」というのは障害になることが多いもの。
「見ざる言わざる聞かざる」の像は、「見なかったことにする、言わないことにする、聞かなかったことにする」という、人間の意識の状態を示していると理解されるのが一般的ですが、「僕らは本当のことを見ていない、本当のことを言っていない、本当のことを聞いていない」・・・とも言われるように、僕らがいかに虚構で偏見に満ちた世界に生きているかを指摘する意味合いもあるようです。
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Wikipideaで「瞑想」を学習。
瞑想(めいそう、Meditation,メディテーション )とは、何かに心を集中させること。
単に心身の静寂を取り戻すために行う日常的なものから、絶対者(神)をありありと体感したり、究極の智慧を得るようなものまで、広い範囲に用いられる言葉です。
瞑想法には、一つの対象を定めた上でその対象に集中を高めていく手法と、対象を定めずに心に去来する現象を一心に観察する手法に分けることができます。
前者のような集中する対象としては、(1)「神(GOD、カミ・・・)」等の聖なる存在のイメージ、(2)特定の文字のイメージ、(3)円の凝視、(4) 呼吸に合わせて一心に数を数える、(5)マントラや念仏等の短い音節の繰り返し、(5)呼吸に対する腹部や鼻腔の感覚変化・・・など、いろいろあるようです。
どの場合でも、「現実世界に対する心の持ち様を変化させていく」ことを目的としているとのこと。集中力が養われるに伴い心の変化が起こるとされています。
仏教における瞑想法では、人間の心が多層的な構造を持っていることを踏まえ意識の深層段階へと到達することを目的とした手法が組み立てらています。
大乗仏教では、意識は「八識」に分類されます。その中には末那(マナ)識や阿頼耶(アラヤ)識と呼ばれる深い深層心理のような層があり、そこへ到達するための方法とも言われています。
上座部仏教では、心の変化を九段階に体系化(一般的認識である欲界を超えた後に現れる第一禅定から第九禅定)していて、第一禅定以上の集中力では仏陀の観瞑想の修行を行うことで解脱が可能とされています。
ヒンドゥー教での瞑想法は、アートマン(真我)やブラフマン(宇宙の根本原理)との合一体験を目的とした瞑想が主流です。
仏教やヒンドゥー教での瞑想の究極の到達点は「輪廻転生(生まれ変わり)からの解脱」というすごい場所にセッティングされています。
日本固有のものである神道では、瞑想と言う語は使いませんが、瞑想に相当する行法は存在します。それは禊(ミソギ)と魂振(タマフリ)と呼ばれています。
魂振(タマフリ)は鎮魂の行でもあり、体が律動的に振れる事を霊動(みたまなり)または霊払(みたまふり)と呼びます。動きを止めようとせず、無我の動きに任せる事が肝要とされています。
イスラム教の神秘主義哲学である回教(スーフィズム)でも、さまざまな瞑想が伝えられています。呼吸瞑想、五つの要素(地・水・火・風・霊気)による浄化、自然の瞑想ー偏在する神の体験、音による瞑想・・・などが存在します。
有名なのは、立ってグルグル回りながら行うワーリング瞑想。
スーフィズムにおける「覚醒」とは、聖なる神の意識に目覚めること。神の目を通じて全ての現象を見つめ、神の心によって生きることです。
キリスト教では、俗世から離れて神への祈りを瞑想する修道士がいる。何もない場所で神に関して思いを馳せて祈りを捧げるものを霊操(「霊の体操」)と言います。
インドでは古くから瞑想が行われていたようです。インダス文明の遺跡、モヘンジョダロ(紀元前25世紀)からも、座法を組み瞑想を行う人物の印章が発見されています。
紀元2~3世紀ごろにパタンジャリという人が、サーンキヤ学派の理論にもとづいて瞑想の技法を体系づけました(「ヨーガ・スートラ」)。
その瞑想は「ヨーガ」と呼ばれ、継承者集団はヨーガ学派と呼ばれています。
意識をただ一点に集中させ続けることによって、瞑想の対象と一体となり、究極の智慧そのものとなるとされています。
この状態は三昧(さんまい、ざんまい、サマタ、サマディー)と呼ばれます。
仏教の始祖ブッダ(「目覚めた人」の意味)は、インドの瞑想の技法(ORヨーガ)で究極の智慧を得たとされていますが、ブッダはその瞑想法をより安全かつ体系的なものに発展させたとされています。
大乗仏教の中には「三昧」による一体感を究極の目的としている場合もありますが、上座部仏教では、三昧の完成を修行の最終目的とせずに、三昧に没入できるほどの極めて高い集中力で、今をあるがままに見ることで智慧の完成(悟りの境地)を目指す、とされています。
仏教心理学では、三昧によって得られる境地を、その内的体験によって第一から第九禅定までに体系化していますが、ヴィパッサナー瞑想(ヴィパッサナーvipassanāとは「よく観る」「物事をあるがままに見る」という意味。さまざまな流派がありますがが、共通するのは「今という瞬間に完全に注意を集中する」ということ)によって得られる境地(悟り)は、これらの禅定とは別の体験としています。この点が、仏教と瞑想を基本とする他の宗教との違いとなっているようです。
■
前置きがえらく長くなりましたが、
リック・ハンソン「ブッダの脳 心と脳を変え人生を変える実践的瞑想の科学」草思社(2011/11/22) と言う本を読んだのです。
書評を書く前に「瞑想」とか「ブッダの瞑想」などの前知識が必要かと思い、えらく前置きが長くなりすみません。
なかなか面白い本でした。
作者のリック・ハンソンは神経心理学者で、ご本人も瞑想を長年実践しているようです。自分の体験に基づく主観的な視点と、学者・学問的な客観的な視点とが交差しながらこの本は書かれているように思えました。
瞑想(meditation)に関しては学術的にも色々な研究がされているのですね。
Pubmedという学術論文検索サイトでlong-term meditationで検索すると色々面白い。
●Enhanced brain connectivity in long-term meditation practitioners.
Luders E, Clark K, Narr KL, Toga AW.
Neuroimage. 2011 Aug 15;57(4):1308-16. Epub 2011 Jun 6.
→長期にわたる瞑想と脳の神経細胞の接合が増える
●Global and regional alterations of hippocampal anatomy in long-term meditation practitioners.
Luders E, Thompson PM, Kurth F, Hong JY, Phillips OR, Wang Y, Gutman BA, Chou YY, Narr KL, Toga AW.
Hum Brain Mapp. 2012 Jul 19. doi: 10.1002/hbm.22153. [Epub ahead of print]
→長時間の瞑想と海馬(記憶の場所)の変化
●Genome-wide expression changes in a higher state of consciousness.
Ravnik-Glavač M, Hrašovec S, Bon J, Dreu J, Glavač D.
Conscious Cogn. 2012 Jun 26. [Epub ahead of print]
→瞑想の意識状態は遺伝子の発現も変化させる
●The Psychological Effects of Meditation: A Meta-Analysis.
Sedlmeier P, Eberth J, Schwarz M, Zimmermann D, Haarig F, Jaeger S, Kunze S.
Psychol Bull. 2012 May 14. [Epub ahead of print]
→瞑想者の精神状態に関するメタアナリシス(色んな論文を合わせたもの)
●The effect of meditation on brain structure: cortical thickness mapping and diffusion tensor imaging.
Kang DH, Jo HJ, Jung WH, Kim SH, Jung YH, Choi CH, Lee US, An SC, Jang JH, Kwon JS.
Soc Cogn Affect Neurosci. 2012 Jun 8. [Epub ahead of print]
→瞑想による皮質の厚みなどの脳の構造変化の効果
●The unique brain anatomy of meditation practitioners: alterations in cortical gyrification.
Luders E, Kurth F, Mayer EA, Toga AW, Narr KL, Gaser C.
Front Hum Neurosci. 2012;6:34. Epub 2012 Feb 29.
→瞑想してる人は皮質の脳回(脳のしわ)が変化している
●Influence of mindfulness practice on cortisol and sleep in long-term and short-term meditators.
Brand S, Holsboer-Trachsler E, Naranjo JR, Schmidt S.
Neuropsychobiology. 2012;65(3):109-18. Epub 2012 Feb 24.
→(この論文は瞑想をmeditationではなくmindfulness practiceを訳してますね)瞑想の長短とcortisol(副腎皮質ホルモンの糖質コルチコイド)や睡眠への影響
●Long-term concentrative meditation and cognitive performance among older adults.
Prakash R, Rastogi P, Dubey I, Abhishek P, Chaudhury S, Small BJ.
Neuropsychol Dev Cogn B Aging Neuropsychol Cogn. 2012 Jul;19(4):479-94.
→瞑想と認知能力
●Cerebral blood flow differences between long-term meditators and non-meditators.
Newberg AB, Wintering N, Waldman MR, Amen D, Khalsa DS, Alavi A.
Conscious Cogn. 2010 Dec;19(4):899-905. Epub 2010 Jun 8.
→瞑想をしてる者としてないものとの脳血流の違い
●Long-term meditators self-induce high-amplitude gamma synchrony during mental practice.
Lutz A, Greischar LL, Rawlings NB, Ricard M, Davidson RJ.
Proc Natl Acad Sci U S A. 2004 Nov 16;101(46):16369-73. Epub 2004 Nov 8.
→長期に瞑想をしてる者は、脳はでの高周波のガンマ線同期を自分で起こす事ができる。
●Effect of meditation on respiratory system, cardiovascular system and lipid profile.
Vyas R, Dikshit N.
Indian J Physiol Pharmacol. 2002 Oct;46(4):487-91.
→瞑想と呼吸機能、心機能、脂質代謝への効果
JAMA(The Journal of the American Medical Association)という有名なPaperにもBoston小児病院から2008年に報告あり
●Mindfulness in medicine.
Ludwig DS, Kabat-Zinn J.
JAMA. 2008 Sep 17;300(11):1350-2.
NEJM(The New England Journal of Medicine)という有名なPaperにもNew York大学から2012年に報告あり
●Zen and the art of pediatric health maintenance.
N Engl J Med. 2012 Jul 12;367(2):103-5.
Klass P.
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学術報告をいろいろ調べてみるだけでなかなかおもしろかったです。
色々と気になってメモした点をいくつか。
以下には、勉強になった箇所を本から引用。
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マービン・L・ミンスキー「脳の主要な活動は自らに変化を生みだす事である。」
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脳は1500gくらいの重量。1000億のニューロンを含む1.1兆個の細胞がある。何かを受け取ると約1000兆の信号が行き来する。
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1000億のニューロンの組み合わせは10の100万乗。この組合わせの数が脳がとりうる状態の概算。宇宙の中の原子の数は10の80乗の過ぎない。
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深い瞑想状態に入ると脳波は強力なガンマ波を生みだす。神経の領域が1秒に30-80回脈動し、心の広い領域を統合する。
----------------------
→脳が作り出せるパターン数だけで「精神と物質と魂(Matter and Mind and Spirit)」の問題が解けるとは全く思いませんが、こうして過ごしている毎秒毎秒にも、脳がとりうるパターンに合わせて組み合わせを変化させていると思うと、不思議なものですね。
インターネットの世界も似たようなものだと思いますが、やはり人間は脳の世界を外部化することで文化や文明をつくる存在なのかもしれません。養老先生が「唯脳論」の著作でおっしゃっていたように。
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苦痛や苦しみは、3つの基本的な生存戦略の副産物として生まれる。
1:分離を生みだす:境界を作る。自分自身と世界に境界を生みだすために、実際にはつながっているものを引き離そうとする。
2:システムを安定させる:内的システムを強固なものにするために、変化し続けているものを安定させようとする。
3:脅威を避けチャンスをものにする:身の危険から避けるために、避けられない痛みから逃げ、はかない快楽にしがみつく。
苦しみは脳によって作り上げられる。脳が苦しみの原因なら、癒しの原因にもなりうる。
すべてがつながっていて、すべてが変わり続けていて、多くの脅威(死や老い)は逃れられない
という状況に苦しめられる。
大半の人にとって、左脳は自分の身体が世界とは異なっている事を明確にする。
右脳は視覚によって知覚した対象の位置を身体座標における位置に変換する。
その結果、「わたしは分離独立している」という基本的仮定におのずと行きつく。
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ブッダが提唱した苦しみから自由になる方法
1:誠実に生きるためにどん欲や憎しみの火を冷ます方法
2:混乱の中でも物事をありのままに観るために、心を安定させて集中させる方法
3:自分を解放する洞察を培う方法
そのためには、Virtue(徳)、Mindfulness(気づき)、Wisdom(知恵)の3つが必要となる。
Mindfulness:脳は注意を受けるものから学ぶ。良い体験を取りこみ、自分自身の一部にする入口となる。
Wisdom(知恵):苦しみの原因とゴールに到る道(何が自分を傷つけ、何が助けてくれるか)を理解し、その理解に基づいて自分を傷つけるものを手放し、助けてくれるものを強化する。
それぞれは、脳の3つの基本的な機能(調整、学習、選択)に支えられる。
脳の学習は新しい回路を形成したり、既存の回路を強化・弱体化することを通して行われる。
価値があると分かればどんな経験でも選択する。
Virtue(徳)はPositiveな傾向を刺激してNegativeな傾向を抑制し、Mindfulness(気づき)は新しい学習に導き(注意が神経回路を形成する)、より安定した集中力の高い意識を育てる。Wisdom(知恵)はより楽しいものを得るためにあまり楽しくないものを手放す。
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→人間は「自分が死にたくない」という基本戦略を無意識にも持っていますが、その司令塔は「自我ego」という存在かと思います。「自我ego」は分離、固定化、幻想産生・・・など色んな特殊技能を持ちますが、それは人間の心理活動の一つにしか過ぎないものですし、そういう「自我ego」が見せる「夢」自体に自覚的でありたいものです。
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心の本来の純粋さを明らかにし、健全な性質を育む。
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楽しいものを掴もうとすることは、ヘビの尻尾をつかむようなもの。遅かれ早かれ、ヘビはあなたにかみつくだろう。
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脳はシュミレーション(白昼夢)を生み出し続けている。そのシュミレーションは、性質上あなたを現在の瞬間から引っ張り出す。しかし、わたしたちが幸福や愛や知恵を見出すのは、現在の瞬間においてだけである。
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ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェ「究極的に幸せかどうかは、精神的苦悩を自覚することの不快感と、それらによって支配されることの不快感のいずれかを選択するかにかかっている」
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痛みは避けられないが、苦しみは選択可能である。
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一部の身体的・精神的苦痛は避けられない。それは人生の第一の矢である。
貪欲、憎悪、妄想という3つの毒。それぞれは中心に渇望を持っている。そのどれかに反応すると、自分自身や他人に第2の矢を投げ始める。
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記憶は感情を伴って蓄積される。記憶を想起する時に、Negativeな感情や思考を思い出すと、そのNegativeな傾向は蓄積され強化される。脳はNegativeな偏見を持っている。
良いものを取り入れることは、あらゆることに幸せな笑顔を振りまくことでもなく、人生の厳しい現実から目をそらすことでもない。あたながいつでも戻っていける幸せや満足や平和の場所を心の中に養うことだ。
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手綱さばきがうまい人のように自分の心を扱わなければいけない。手綱を引きすぎても緩め過ぎても駄目なのだ。
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→体調管理が大事なように、心の管理も重要です。
体調管理に関しては、目に見える形で調子が悪くなりますし、比較的目に見える世界なので早期発見がしやすいです(それでも、今は身体感覚が鈍っているなぁと見かけることも多いわけですが)。ただ、心の世界は明確には目に見えないので、見えない世界のことを軽視していると気付かないうちに色んな物事が進行ししまうことも多い。
そういう心の世界は、その人の無意識な行動や言動に間接的にも表れている事が多いです。
そんなことに意識的でありたいです。意識と無意識は、本来は一つのものだと思います。
それを統合している統一体の分かりやすい側面が3方向あり、その3つの方法のそれぞれを精神と物質と魂(Matter and Mind and Spirit)と言うのだと思います。
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意図は欲望の一つの形態である。欲望そのものは苦しみの源ではない。渇望がそうなのだ。結果に拘泥しない健全な意図を持つことが大事なのだ。
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平常心とは、完璧にバランスのとれた心のゆるぎない状態である。
平常心(Equanimity)は、落ち着いた(even)と心(mind)を意味するラテン語から来ている。
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仏教での「目覚める」ということは、人生に失望する事でも不満を抱くことでもない。見かけの魅力や恐怖を見抜き、いづれによっても惑わされないことを意味する。
時が経つにつれ、平常心は心の奥の静けさへと深まっていく。
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脳はニュートラルな刺激にあまり注意を払わないのが自然なので、それらに注意を払い続けるには意識的に努力しなければいけない。
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平常心は情調(feeling tone)から渇望へ、渇望から執着へ、執着から苦しみへと移っていく心の通常の動きを阻止するブレーカーに似ている。
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ダーウィン「すべて感覚ある生き物は、楽しいという感覚に導かれ、自然淘汰を通して発達した。とりわけ親睦する事や家族を愛する事によって得られる楽しさは強力だった。」
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「わたしたちのハートには2匹の狼が済んでいます。愛の狼と憎しみの狼です。すべては日々わたしたちがどちらに餌をやるかにかかっています。」
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→すべての物事はニュートラル(中立)なものだと思います。そこに人間が「意味」を付与して重みづけしていく。そのことで善と悪、いいと悪い・・・・などが作られていくのだと思います。
だからこそ、このニュートラルな状態を主観や偏見なく見つめ、その上でどういう意味付けをしながら生きて行くのか、その辺は丁寧に生きて行きたいものです。
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禅語「何事も除外しない」
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思いやりは、存在の苦しみに対する関心である。
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効果的なコミュニケーションに大事な点は、相手を変えようとするのではなく、あなたの真実を話す事に焦点を当てる。心の深い層にふれる。事実を明確にする。相手との問題で自分に非があれば、それを素直に認め責任をまっとうする。相手の正当な不満にきっちりと対処する。全体像を入れておく。思いやりと親切心を持って相手と接する。
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シャンティデバ「この世のあらゆる喜びは他人が幸福になることを望むことから生まれる。この世のすべての苦しみは自分だけあ幸せになりたいと望むことから生じる。」
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『慈経』「生きとし生けるものを何一つ除外しないように」
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ブッダが慈愛による解脱と述べているように、愛はそれ自体、深い修行の道なのだ。
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誰かが苦しまないのを願いのが思いやりなら、その人物が幸福になるのを願うのが優しさである。
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ウィリアム・ジェームズ「注意の教育は、卓越した教育となるだろう。」
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シャンティデバ「鋭い洞察と穏やかに待つ心が手を結ぶと、苦しい状態から完全に脱する事ができる。」
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私たちが自己を持っているのではなく、「自己になっている(Self-ing)」ということなのだ。バックミンスター・フラーが、そのことを「わたしは動詞であるようだ」と表現した。
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重要なのは過去に起こったことではなく、今あなたがしていることだ。
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過去はすでに起こったこと。過去を想起する以上、記憶とも関連します。
未来はいまだ起きていないこと。確率的な未確定な状態です。
過去は「今」想起し、未来も「今」想起する。過去も未来も、いろんな時間の概念はすべて「今」を起点に生まれているものです。実在しているかのようですが、すべては「今」という瞬間瞬間から生み出されている「概念」にも過ぎないと思います。
ヴィパッサナー瞑想の目的が「今という瞬間に完全に注意を集中する」ということにあるように、自分も毎日毎日を「今という瞬間」にフォーカスを当てながら生活してます。
日々はその積み重ね。そう考えればシンプルです。そういう意味で、瞑想と同じ毎日を生きているとも言えます。
名言でもフレーズでも、どんな素晴らしい言葉があっても、その言葉を唱えることは目的ではありません。それは手段。
「手段」を「目的」と錯覚してはいけません。ゴールや目的はいつまでも果てしない先。蜃気楼のように先の先の先なのです。
「その言葉を生きる」手段として、羅針盤のように扱っていくことが大事なのだと思います。
それは「瞑想」も同じですよね。
言語の響きや身体変容に惑わされることなく、そのことを手段として、それぞれがそれぞれのより良き人生を生きることこそが大切だと思いますね。
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いつものことながら長くなってしまいました・・・。
瞑想を習慣的にしているわけではないのですが、【瞑想状態】には興味があります。
瞑想は適切な指導者の元で行うことが大事なようです。危険な面もあるようで。
瞑想を霊的に変な場所で行うと、脳や意識に「すき間」「空白」が作られるので、そこに何かが挿入されてしまうことがあるようです。
例えて言えば、「海辺のカフカ」に出てくるナカタさんのような状態だと思います。
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村上春樹「海辺のカフカ」
『空っぽということは、空き家と同じなのです。
鍵がかかっていない空き家と同じなのです。
入るつもりになれば、なんだって誰だって、自由にそこに入ってこられます。
ナカタはそれがとても恐ろしいのです。』
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(→ちなみに、以前見に行った舞台版「海辺のカフカ」の感想も書いたことがあります。⇒舞台版「海辺のカフカ」(2012-05-04))
「カルマ・ヨーガ」は、日常生活そのものを修行の場ととらえ、見返りを要求しない無私の奉仕精神で日々を生活すること(『バガヴァッド・ギーター』より)
禅での生活(掃除、食、呼吸・・・の一つ一つの動作を丁寧に行うこと)も同じようなもの。
これは誰にでもできるし、ある意味誰もが無意識にさせられているかもしれない。
人生全てが修行。瞑想状態にならざるをえない場面も多数あったりして。
この日常はつらいことや大変なこともたくさんあって、それを「修行」と捉えれば無限に修行の課題が溢れているわけですが・・・(^^;
・・・・・・・・・・・・・・・・・
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本題。
「瞑想」というとあまりに宗教的な用語になるので、瞑想(meditation)ではなくMindfulness(マインドフルネス→気づき)と言う言葉を使うこともあるようですね。
自分がなぜ「瞑想」状態に興味があるかと言うと、「集中」という状態に興味があるからなのです。
漫然と本を読んだり勉強しても頭に入らないけれど、「集中」して本を読んだり勉強すると記憶として定着する。
このことが不思議でたまりませんでした。だから、学門の極意は「集中」であると感じたのです。
普段の心臓の仕事での経験として、極限まで意識を「集中」していく時に、まるで無念無想のような状況(静かな湖畔のような)になっていく瞬間があります。
その瞬間にものすごく意識が清明となり、時間の感覚が伸び縮みする(1分の時間が10分くらいに伸びる)時をよく経験するからです。
これは、交通事故などでの臨死体験時(Near-death experiences ; NDEs)に時間がスローモーションに流れる、ということと似ています。
ふだん、僕らの脳みそは勝手にいろんなことを考えています。「考えよう」という意識を持たなくても、脳は勝手に活動している。
自分は「脳の自動現象(オートメーション)」と呼んでいます。
たとえば「何も考えずに静かに目をつぶったままにしてください」と言って数分程度黙想してもらうと、たいていの人は自分の意志で止めることのできない思考が無限に湧いているのを感じます。「考えない、考えない・・・」と考えてしまいますし、湧いてくる思考の海を冷静に観察すると、驚くことが多いです。どれだけ内的エネルギーが浪費されているのか、と。
それは、たいてい「過去」の後悔であったり、「未来」への不安や恐れ・・・など、「過去」や「未来」などの時間に関係する事柄であることが多いわけです。
このことは、「時間」というのは「脳」が生み出す概念にすぎない、とも言えるかもしれません。
いづれにせよ、そういう「脳の自動現象」は、おそらく相当量の内的エネルギーを使用しているのではないかと危惧するわけです。
どんなにご飯を食べて「外的エネルギー」を摂取してもどうにも疲れている人が多いように見受けられるのは、この「内的エネルギー」の消費や不足が原因なのではないかと思うのです。
たいていの不安や心配ごとは、そういう「内的エネルギーの欠乏・枯渇」から来ているのかもしれません。
なぜなら、「未来」は未知で不確定でありほとんどの領域はどうすることもできませんし、過去は既知で確定なのでどうすることもできません。
脳の中で思考を反復させたところで未来や過去が変化するわけではなく、変化させうるのは「現在」という一点でしかないと思うのです(そのことは間接的にも未来を変え得るということは言えますが、それは過去を思い出してしか言うことができないことに注意すべきです。)。
未確定の未来や確定の過去を、自分の思い通りにしようとすると、それは脳の中で虚像や虚構のストーリーを作り出すことにも通じますし、それは自作自演で自分が自分をだます、という妙な状態になっていくからです。
■
そういうことを考えています。
自分は、自分が生みだす脳の錯覚や虚構に注意を払うようにしています。別の言葉では「偏見」や「思い込み」と言われるものです。
未確定の未来、確定の過去、それはかなりの程度の虚構(虚像)を含んでいるので、その中に取り込まれないように注意すべきだと思いますし、虚構よりも実像である「今」にこそ敬意と注意を払う。そのことが「集中」にもつながるのでなかろうか、と思うわけです。
何かに集中していくことは、「今」という現在の瞬間を生きることと似ていると思います。
それは、子供が無邪気に外で遊んでいる時や、僕らが気の許せる友人と楽しく会話をする時。「時間を忘れて熱中する時」に体感する瞬間です。
「無我夢中」とはよく言ったもので、「我ego」を無くし「夢」のような無時間にいる状態です。
そんなとき、脳内の無統御の思考の荒れた海は静寂となります。集中状態は瞑想状態とかなり接近するのではないかと思うことが多く、そういう意味で、いろんな形で追求されていた「瞑想Meditation」という状態には興味があるわけです。
ただ、瞑想というと、暗い中で修行服を着て、ロウソクを立てて、座禅して・・・という極めて宗教的なイメージが伴うこともあります。
自分もそういう偏見や先入観を持っている人間の一人ではあるわけですが、正しい理解には「偏見」や「先入観」というのは障害になることが多いもの。
「見ざる言わざる聞かざる」の像は、「見なかったことにする、言わないことにする、聞かなかったことにする」という、人間の意識の状態を示していると理解されるのが一般的ですが、「僕らは本当のことを見ていない、本当のことを言っていない、本当のことを聞いていない」・・・とも言われるように、僕らがいかに虚構で偏見に満ちた世界に生きているかを指摘する意味合いもあるようです。
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Wikipideaで「瞑想」を学習。
瞑想(めいそう、Meditation,メディテーション )とは、何かに心を集中させること。
単に心身の静寂を取り戻すために行う日常的なものから、絶対者(神)をありありと体感したり、究極の智慧を得るようなものまで、広い範囲に用いられる言葉です。
瞑想法には、一つの対象を定めた上でその対象に集中を高めていく手法と、対象を定めずに心に去来する現象を一心に観察する手法に分けることができます。
前者のような集中する対象としては、(1)「神(GOD、カミ・・・)」等の聖なる存在のイメージ、(2)特定の文字のイメージ、(3)円の凝視、(4) 呼吸に合わせて一心に数を数える、(5)マントラや念仏等の短い音節の繰り返し、(5)呼吸に対する腹部や鼻腔の感覚変化・・・など、いろいろあるようです。
どの場合でも、「現実世界に対する心の持ち様を変化させていく」ことを目的としているとのこと。集中力が養われるに伴い心の変化が起こるとされています。
仏教における瞑想法では、人間の心が多層的な構造を持っていることを踏まえ意識の深層段階へと到達することを目的とした手法が組み立てらています。
大乗仏教では、意識は「八識」に分類されます。その中には末那(マナ)識や阿頼耶(アラヤ)識と呼ばれる深い深層心理のような層があり、そこへ到達するための方法とも言われています。
上座部仏教では、心の変化を九段階に体系化(一般的認識である欲界を超えた後に現れる第一禅定から第九禅定)していて、第一禅定以上の集中力では仏陀の観瞑想の修行を行うことで解脱が可能とされています。
ヒンドゥー教での瞑想法は、アートマン(真我)やブラフマン(宇宙の根本原理)との合一体験を目的とした瞑想が主流です。
仏教やヒンドゥー教での瞑想の究極の到達点は「輪廻転生(生まれ変わり)からの解脱」というすごい場所にセッティングされています。
日本固有のものである神道では、瞑想と言う語は使いませんが、瞑想に相当する行法は存在します。それは禊(ミソギ)と魂振(タマフリ)と呼ばれています。
魂振(タマフリ)は鎮魂の行でもあり、体が律動的に振れる事を霊動(みたまなり)または霊払(みたまふり)と呼びます。動きを止めようとせず、無我の動きに任せる事が肝要とされています。
イスラム教の神秘主義哲学である回教(スーフィズム)でも、さまざまな瞑想が伝えられています。呼吸瞑想、五つの要素(地・水・火・風・霊気)による浄化、自然の瞑想ー偏在する神の体験、音による瞑想・・・などが存在します。
有名なのは、立ってグルグル回りながら行うワーリング瞑想。
スーフィズムにおける「覚醒」とは、聖なる神の意識に目覚めること。神の目を通じて全ての現象を見つめ、神の心によって生きることです。
キリスト教では、俗世から離れて神への祈りを瞑想する修道士がいる。何もない場所で神に関して思いを馳せて祈りを捧げるものを霊操(「霊の体操」)と言います。
インドでは古くから瞑想が行われていたようです。インダス文明の遺跡、モヘンジョダロ(紀元前25世紀)からも、座法を組み瞑想を行う人物の印章が発見されています。
紀元2~3世紀ごろにパタンジャリという人が、サーンキヤ学派の理論にもとづいて瞑想の技法を体系づけました(「ヨーガ・スートラ」)。
その瞑想は「ヨーガ」と呼ばれ、継承者集団はヨーガ学派と呼ばれています。
意識をただ一点に集中させ続けることによって、瞑想の対象と一体となり、究極の智慧そのものとなるとされています。
この状態は三昧(さんまい、ざんまい、サマタ、サマディー)と呼ばれます。
仏教の始祖ブッダ(「目覚めた人」の意味)は、インドの瞑想の技法(ORヨーガ)で究極の智慧を得たとされていますが、ブッダはその瞑想法をより安全かつ体系的なものに発展させたとされています。
大乗仏教の中には「三昧」による一体感を究極の目的としている場合もありますが、上座部仏教では、三昧の完成を修行の最終目的とせずに、三昧に没入できるほどの極めて高い集中力で、今をあるがままに見ることで智慧の完成(悟りの境地)を目指す、とされています。
仏教心理学では、三昧によって得られる境地を、その内的体験によって第一から第九禅定までに体系化していますが、ヴィパッサナー瞑想(ヴィパッサナーvipassanāとは「よく観る」「物事をあるがままに見る」という意味。さまざまな流派がありますがが、共通するのは「今という瞬間に完全に注意を集中する」ということ)によって得られる境地(悟り)は、これらの禅定とは別の体験としています。この点が、仏教と瞑想を基本とする他の宗教との違いとなっているようです。
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前置きがえらく長くなりましたが、
リック・ハンソン「ブッダの脳 心と脳を変え人生を変える実践的瞑想の科学」草思社(2011/11/22) と言う本を読んだのです。
書評を書く前に「瞑想」とか「ブッダの瞑想」などの前知識が必要かと思い、えらく前置きが長くなりすみません。
なかなか面白い本でした。
作者のリック・ハンソンは神経心理学者で、ご本人も瞑想を長年実践しているようです。自分の体験に基づく主観的な視点と、学者・学問的な客観的な視点とが交差しながらこの本は書かれているように思えました。
瞑想(meditation)に関しては学術的にも色々な研究がされているのですね。
Pubmedという学術論文検索サイトでlong-term meditationで検索すると色々面白い。
●Enhanced brain connectivity in long-term meditation practitioners.
Luders E, Clark K, Narr KL, Toga AW.
Neuroimage. 2011 Aug 15;57(4):1308-16. Epub 2011 Jun 6.
→長期にわたる瞑想と脳の神経細胞の接合が増える
●Global and regional alterations of hippocampal anatomy in long-term meditation practitioners.
Luders E, Thompson PM, Kurth F, Hong JY, Phillips OR, Wang Y, Gutman BA, Chou YY, Narr KL, Toga AW.
Hum Brain Mapp. 2012 Jul 19. doi: 10.1002/hbm.22153. [Epub ahead of print]
→長時間の瞑想と海馬(記憶の場所)の変化
●Genome-wide expression changes in a higher state of consciousness.
Ravnik-Glavač M, Hrašovec S, Bon J, Dreu J, Glavač D.
Conscious Cogn. 2012 Jun 26. [Epub ahead of print]
→瞑想の意識状態は遺伝子の発現も変化させる
●The Psychological Effects of Meditation: A Meta-Analysis.
Sedlmeier P, Eberth J, Schwarz M, Zimmermann D, Haarig F, Jaeger S, Kunze S.
Psychol Bull. 2012 May 14. [Epub ahead of print]
→瞑想者の精神状態に関するメタアナリシス(色んな論文を合わせたもの)
●The effect of meditation on brain structure: cortical thickness mapping and diffusion tensor imaging.
Kang DH, Jo HJ, Jung WH, Kim SH, Jung YH, Choi CH, Lee US, An SC, Jang JH, Kwon JS.
Soc Cogn Affect Neurosci. 2012 Jun 8. [Epub ahead of print]
→瞑想による皮質の厚みなどの脳の構造変化の効果
●The unique brain anatomy of meditation practitioners: alterations in cortical gyrification.
Luders E, Kurth F, Mayer EA, Toga AW, Narr KL, Gaser C.
Front Hum Neurosci. 2012;6:34. Epub 2012 Feb 29.
→瞑想してる人は皮質の脳回(脳のしわ)が変化している
●Influence of mindfulness practice on cortisol and sleep in long-term and short-term meditators.
Brand S, Holsboer-Trachsler E, Naranjo JR, Schmidt S.
Neuropsychobiology. 2012;65(3):109-18. Epub 2012 Feb 24.
→(この論文は瞑想をmeditationではなくmindfulness practiceを訳してますね)瞑想の長短とcortisol(副腎皮質ホルモンの糖質コルチコイド)や睡眠への影響
●Long-term concentrative meditation and cognitive performance among older adults.
Prakash R, Rastogi P, Dubey I, Abhishek P, Chaudhury S, Small BJ.
Neuropsychol Dev Cogn B Aging Neuropsychol Cogn. 2012 Jul;19(4):479-94.
→瞑想と認知能力
●Cerebral blood flow differences between long-term meditators and non-meditators.
Newberg AB, Wintering N, Waldman MR, Amen D, Khalsa DS, Alavi A.
Conscious Cogn. 2010 Dec;19(4):899-905. Epub 2010 Jun 8.
→瞑想をしてる者としてないものとの脳血流の違い
●Long-term meditators self-induce high-amplitude gamma synchrony during mental practice.
Lutz A, Greischar LL, Rawlings NB, Ricard M, Davidson RJ.
Proc Natl Acad Sci U S A. 2004 Nov 16;101(46):16369-73. Epub 2004 Nov 8.
→長期に瞑想をしてる者は、脳はでの高周波のガンマ線同期を自分で起こす事ができる。
●Effect of meditation on respiratory system, cardiovascular system and lipid profile.
Vyas R, Dikshit N.
Indian J Physiol Pharmacol. 2002 Oct;46(4):487-91.
→瞑想と呼吸機能、心機能、脂質代謝への効果
JAMA(The Journal of the American Medical Association)という有名なPaperにもBoston小児病院から2008年に報告あり
●Mindfulness in medicine.
Ludwig DS, Kabat-Zinn J.
JAMA. 2008 Sep 17;300(11):1350-2.
NEJM(The New England Journal of Medicine)という有名なPaperにもNew York大学から2012年に報告あり
●Zen and the art of pediatric health maintenance.
N Engl J Med. 2012 Jul 12;367(2):103-5.
Klass P.
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学術報告をいろいろ調べてみるだけでなかなかおもしろかったです。
色々と気になってメモした点をいくつか。
以下には、勉強になった箇所を本から引用。
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マービン・L・ミンスキー「脳の主要な活動は自らに変化を生みだす事である。」
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脳は1500gくらいの重量。1000億のニューロンを含む1.1兆個の細胞がある。何かを受け取ると約1000兆の信号が行き来する。
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1000億のニューロンの組み合わせは10の100万乗。この組合わせの数が脳がとりうる状態の概算。宇宙の中の原子の数は10の80乗の過ぎない。
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深い瞑想状態に入ると脳波は強力なガンマ波を生みだす。神経の領域が1秒に30-80回脈動し、心の広い領域を統合する。
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→脳が作り出せるパターン数だけで「精神と物質と魂(Matter and Mind and Spirit)」の問題が解けるとは全く思いませんが、こうして過ごしている毎秒毎秒にも、脳がとりうるパターンに合わせて組み合わせを変化させていると思うと、不思議なものですね。
インターネットの世界も似たようなものだと思いますが、やはり人間は脳の世界を外部化することで文化や文明をつくる存在なのかもしれません。養老先生が「唯脳論」の著作でおっしゃっていたように。
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苦痛や苦しみは、3つの基本的な生存戦略の副産物として生まれる。
1:分離を生みだす:境界を作る。自分自身と世界に境界を生みだすために、実際にはつながっているものを引き離そうとする。
2:システムを安定させる:内的システムを強固なものにするために、変化し続けているものを安定させようとする。
3:脅威を避けチャンスをものにする:身の危険から避けるために、避けられない痛みから逃げ、はかない快楽にしがみつく。
苦しみは脳によって作り上げられる。脳が苦しみの原因なら、癒しの原因にもなりうる。
すべてがつながっていて、すべてが変わり続けていて、多くの脅威(死や老い)は逃れられない
という状況に苦しめられる。
大半の人にとって、左脳は自分の身体が世界とは異なっている事を明確にする。
右脳は視覚によって知覚した対象の位置を身体座標における位置に変換する。
その結果、「わたしは分離独立している」という基本的仮定におのずと行きつく。
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ブッダが提唱した苦しみから自由になる方法
1:誠実に生きるためにどん欲や憎しみの火を冷ます方法
2:混乱の中でも物事をありのままに観るために、心を安定させて集中させる方法
3:自分を解放する洞察を培う方法
そのためには、Virtue(徳)、Mindfulness(気づき)、Wisdom(知恵)の3つが必要となる。
Mindfulness:脳は注意を受けるものから学ぶ。良い体験を取りこみ、自分自身の一部にする入口となる。
Wisdom(知恵):苦しみの原因とゴールに到る道(何が自分を傷つけ、何が助けてくれるか)を理解し、その理解に基づいて自分を傷つけるものを手放し、助けてくれるものを強化する。
それぞれは、脳の3つの基本的な機能(調整、学習、選択)に支えられる。
脳の学習は新しい回路を形成したり、既存の回路を強化・弱体化することを通して行われる。
価値があると分かればどんな経験でも選択する。
Virtue(徳)はPositiveな傾向を刺激してNegativeな傾向を抑制し、Mindfulness(気づき)は新しい学習に導き(注意が神経回路を形成する)、より安定した集中力の高い意識を育てる。Wisdom(知恵)はより楽しいものを得るためにあまり楽しくないものを手放す。
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→人間は「自分が死にたくない」という基本戦略を無意識にも持っていますが、その司令塔は「自我ego」という存在かと思います。「自我ego」は分離、固定化、幻想産生・・・など色んな特殊技能を持ちますが、それは人間の心理活動の一つにしか過ぎないものですし、そういう「自我ego」が見せる「夢」自体に自覚的でありたいものです。
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心の本来の純粋さを明らかにし、健全な性質を育む。
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楽しいものを掴もうとすることは、ヘビの尻尾をつかむようなもの。遅かれ早かれ、ヘビはあなたにかみつくだろう。
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脳はシュミレーション(白昼夢)を生み出し続けている。そのシュミレーションは、性質上あなたを現在の瞬間から引っ張り出す。しかし、わたしたちが幸福や愛や知恵を見出すのは、現在の瞬間においてだけである。
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ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェ「究極的に幸せかどうかは、精神的苦悩を自覚することの不快感と、それらによって支配されることの不快感のいずれかを選択するかにかかっている」
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痛みは避けられないが、苦しみは選択可能である。
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一部の身体的・精神的苦痛は避けられない。それは人生の第一の矢である。
貪欲、憎悪、妄想という3つの毒。それぞれは中心に渇望を持っている。そのどれかに反応すると、自分自身や他人に第2の矢を投げ始める。
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記憶は感情を伴って蓄積される。記憶を想起する時に、Negativeな感情や思考を思い出すと、そのNegativeな傾向は蓄積され強化される。脳はNegativeな偏見を持っている。
良いものを取り入れることは、あらゆることに幸せな笑顔を振りまくことでもなく、人生の厳しい現実から目をそらすことでもない。あたながいつでも戻っていける幸せや満足や平和の場所を心の中に養うことだ。
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手綱さばきがうまい人のように自分の心を扱わなければいけない。手綱を引きすぎても緩め過ぎても駄目なのだ。
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→体調管理が大事なように、心の管理も重要です。
体調管理に関しては、目に見える形で調子が悪くなりますし、比較的目に見える世界なので早期発見がしやすいです(それでも、今は身体感覚が鈍っているなぁと見かけることも多いわけですが)。ただ、心の世界は明確には目に見えないので、見えない世界のことを軽視していると気付かないうちに色んな物事が進行ししまうことも多い。
そういう心の世界は、その人の無意識な行動や言動に間接的にも表れている事が多いです。
そんなことに意識的でありたいです。意識と無意識は、本来は一つのものだと思います。
それを統合している統一体の分かりやすい側面が3方向あり、その3つの方法のそれぞれを精神と物質と魂(Matter and Mind and Spirit)と言うのだと思います。
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意図は欲望の一つの形態である。欲望そのものは苦しみの源ではない。渇望がそうなのだ。結果に拘泥しない健全な意図を持つことが大事なのだ。
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平常心とは、完璧にバランスのとれた心のゆるぎない状態である。
平常心(Equanimity)は、落ち着いた(even)と心(mind)を意味するラテン語から来ている。
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仏教での「目覚める」ということは、人生に失望する事でも不満を抱くことでもない。見かけの魅力や恐怖を見抜き、いづれによっても惑わされないことを意味する。
時が経つにつれ、平常心は心の奥の静けさへと深まっていく。
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脳はニュートラルな刺激にあまり注意を払わないのが自然なので、それらに注意を払い続けるには意識的に努力しなければいけない。
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平常心は情調(feeling tone)から渇望へ、渇望から執着へ、執着から苦しみへと移っていく心の通常の動きを阻止するブレーカーに似ている。
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ダーウィン「すべて感覚ある生き物は、楽しいという感覚に導かれ、自然淘汰を通して発達した。とりわけ親睦する事や家族を愛する事によって得られる楽しさは強力だった。」
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「わたしたちのハートには2匹の狼が済んでいます。愛の狼と憎しみの狼です。すべては日々わたしたちがどちらに餌をやるかにかかっています。」
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→すべての物事はニュートラル(中立)なものだと思います。そこに人間が「意味」を付与して重みづけしていく。そのことで善と悪、いいと悪い・・・・などが作られていくのだと思います。
だからこそ、このニュートラルな状態を主観や偏見なく見つめ、その上でどういう意味付けをしながら生きて行くのか、その辺は丁寧に生きて行きたいものです。
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禅語「何事も除外しない」
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思いやりは、存在の苦しみに対する関心である。
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効果的なコミュニケーションに大事な点は、相手を変えようとするのではなく、あなたの真実を話す事に焦点を当てる。心の深い層にふれる。事実を明確にする。相手との問題で自分に非があれば、それを素直に認め責任をまっとうする。相手の正当な不満にきっちりと対処する。全体像を入れておく。思いやりと親切心を持って相手と接する。
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シャンティデバ「この世のあらゆる喜びは他人が幸福になることを望むことから生まれる。この世のすべての苦しみは自分だけあ幸せになりたいと望むことから生じる。」
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『慈経』「生きとし生けるものを何一つ除外しないように」
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ブッダが慈愛による解脱と述べているように、愛はそれ自体、深い修行の道なのだ。
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誰かが苦しまないのを願いのが思いやりなら、その人物が幸福になるのを願うのが優しさである。
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ウィリアム・ジェームズ「注意の教育は、卓越した教育となるだろう。」
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シャンティデバ「鋭い洞察と穏やかに待つ心が手を結ぶと、苦しい状態から完全に脱する事ができる。」
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私たちが自己を持っているのではなく、「自己になっている(Self-ing)」ということなのだ。バックミンスター・フラーが、そのことを「わたしは動詞であるようだ」と表現した。
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重要なのは過去に起こったことではなく、今あなたがしていることだ。
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過去はすでに起こったこと。過去を想起する以上、記憶とも関連します。
未来はいまだ起きていないこと。確率的な未確定な状態です。
過去は「今」想起し、未来も「今」想起する。過去も未来も、いろんな時間の概念はすべて「今」を起点に生まれているものです。実在しているかのようですが、すべては「今」という瞬間瞬間から生み出されている「概念」にも過ぎないと思います。
ヴィパッサナー瞑想の目的が「今という瞬間に完全に注意を集中する」ということにあるように、自分も毎日毎日を「今という瞬間」にフォーカスを当てながら生活してます。
日々はその積み重ね。そう考えればシンプルです。そういう意味で、瞑想と同じ毎日を生きているとも言えます。
名言でもフレーズでも、どんな素晴らしい言葉があっても、その言葉を唱えることは目的ではありません。それは手段。
「手段」を「目的」と錯覚してはいけません。ゴールや目的はいつまでも果てしない先。蜃気楼のように先の先の先なのです。
「その言葉を生きる」手段として、羅針盤のように扱っていくことが大事なのだと思います。
それは「瞑想」も同じですよね。
言語の響きや身体変容に惑わされることなく、そのことを手段として、それぞれがそれぞれのより良き人生を生きることこそが大切だと思いますね。
・・・・・・・・・・・・
いつものことながら長くなってしまいました・・・。