甲野善紀さんの「古武術からの発想」PHP文庫(2003/02)を読んだ。
----------------------------------
<内容(「BOOK」データベースより)>
現代人の常識を覆す独特の「身体論」が、スポーツ界をはじめ、各方面から注目を集めている。
その術理の探究はさらに進み、さらなる発見にも至っている。
本書は、「『小よく大を制す』武術の復活」「相手の予測を外す無住心剣術」のような技の新たな展開や、
古武術を通して見える日本の教育や科学への疑問などを、架空の人物との対話形式で著者が語り尽くす。
人間が秘める未知の可能性を示唆する一冊。
----------------------------------
■
なんとなしに机の前に置いてあって、軽い気持ちで読み始めたら引き込まれた。
甲野善紀さんは古武術を研究されている方で、古武術の範疇だけではなくて身体運用法一般の研究をされている。
特定の弟子もとらず組織化もせず、自由に研究し自由に指導している。
その姿勢にはとても尊敬できる。その道では有名な方です。
本を読んで初めて知ったエピソードに共感した。
甲野さんは東京農大の畜産学科に通われていて、ひよこの雌雄選別作業を見た。
「雄のひよこが生きたままバケツに放り込まれて、人間の足で踏み潰されて殺される。」
そこで、こういう現実を目の当たりにした。
この衝撃的な現場が、『人間にとって自然とは何か』と考え、ひいては普通の道を外れて古武術へと至ったきっかけになったと、書かれていた。
メス鶏しか卵を産めないので、雄のひよこは不必要とされてすぐに殺される現場だったらしい。
こういう経済や効率重視の世界、そしてそのことを何とも思わない光景に愕然としたということだろう。
このエピソードには、自分も共感を覚えた。
自分も広い範囲での生命を扱っている仕事をしている。
生命よりも経済や効率を優先させて「でも、そういう社会だからしょうがないでしょ。」と説明されることがある。
ある種のあきらめで、ある種の投げやりな姿勢と共に。
そのことが万遍なくむしばみつつある現状には、自分も途方もない無力感を感じることがある。
確かにどうしようもない・・。
ただ、これは時代の病のようなもの。僕らの世代は正面から引き受け、その問題点とゆがみをはっきりと見据え、その上で未来を構想していかないといけないんだろう。
これは、震災に伴う原発の問題を考えるときも同じようなことを感じた。
■
村上春樹さんのカタルーニャ国際賞スピーチでもそういう発言があったのを思い出す。
==================
○「我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。」
○「原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。」
○「我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhunanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。」
==================
■
読書というものは、書き手への強い共感や愛情や敬意がなければ、深く読み込むのは難しい。
読書のコツは、書き手を好きになることに尽きると思う。
好きになれないとき、読書は単なる「情報の記憶」になる。
甲野さんも、村上春樹さんも、波長が近いものを感じる。だからこそ書き手を好きになり読める。そこには深い共感が伴う。
読書とは本来そういうものだと思う。
基本は書き手を好きになること。好意や敬意を持つこと。
そこが基礎にないと、書き手の思いがこちら側へ伝わら通路はできない。
書き手側の誠実な姿勢はもちろん必要だけれど、読み手側の誠実な姿勢も読書には求められるんだと思う。
本の中に随所に出てくるけれど、甲野さんは整体の創始者である野口晴哉先生へ、深い尊敬の念がある。
自分も、野口晴哉先生の著作を読んで感銘を受けたところだった。
ちなみに、野口晴哉先生が提唱していた整体は「人間にある体癖(=体のクセ、体の歪み)を独自の方法(=愉気法、活元)で自己治療し、からだの修正現象がおきることで自然体になる。」というもの。
自分自身で自分の体調を整えていくための体育理論。
野口先生の発言には重みがあり説得力があるけれど、同じように甲野さんの発言にも説得力がある。
自分を実験場にして果てしない<try and error>を繰り返した人だから。
////////////////////////
(甲野善紀さんの「古武術からの発想」PHP文庫(2003/02)から、印象に残ったものを簡単に抜粋します)
■
基本というのは、自分がめざす方向性を指し示してくれる感受性を養うためにあるのだ。
■
(甲野さんの知り合いの科学者が言ったことが紹介される)
「今の科学者は信仰の世界と同じ。事実よりも学説が教典のように優先されている。」
(このことを受けて)
学者の方には、もっと度量を広く、さまざまな在り様を考えていただきたい。
真理や真相を追求するはずの学問が、自分の地位や権威を保つことに興味が向いている。
■
明治の剣聖と言われた山岡鉄舟。その道場の春風館。副食物は、1年中味噌汁に大根の葉を刻んだものか沢庵漬けだけと決まっていた。
パプアニューギニアの人間も芋しか食べないけれど筋骨隆々。
例えば、甲田光雄先生という、西式健康法、断食療法、生菜食健康法などの研究をされている方が紹介されている。
食事と肉体、食事と健康に関しては奥が深く、自分自身の体のことだから自分で研究してみる必要がある。
(→この辺りに関しては、同じく甲野善紀さんの「表の体育 裏の体育―日本の近代化と古の伝承の間に生まれた身体観・鍛練法」PHP文庫(2004/03)に恐ろしく深く追求されているようなので、読んでみようと思う。)
■
教育では、むやみに厳しさを教えなくてもいい。楽しさを教えることが大事だ。
楽しさを教えると興味が引き出されてくる。
熱中すると自信もつき、自然にプライドも育つ。
そのプライドは、自分自身をより厳しい立場へと追い込んでゆく。
そうして、厳しさは自然に学ばれていくものだ。
■
支店が固定されたヒンジ運動ではなく、井桁崩しの原理(井桁術理)。井桁術理の別名は「平行四辺形の原理」。
(長方形が畳まれて平行四辺形に変形していくように動くことから、そう呼ばれている)
固定された支点を作らず「互い違いにずらす」ことで、身体の運用が広がる。
(例えば、相手を倒す方向とは別の方向に働きかけることで崩す。・・・など)
■
古の達人は、現代からは常識はずれのような身体の使い方をして、信じられない身体運用をしていた。
合気道の植芝盛平開祖、鹿島神流の国井道之師範、振武館の黒田鉄山先生の祖父、黒田泰治鉄心斉先生。
体の動きの質そのものが違う。作動のメカニズムが違う。
そのことを謙虚に考える必要がある。
■
現代の身体運用で多いのが「ねじり」の動き。
「ねじり」は「うねり」の変形。鞭の動きと同じだから、確かに力強く速い動きになる。
しなった鞭の先端速度は音速を超えるため、衝撃波の音が出る(時速1000km以上)。
ただ、ねじりの動きは、距離と時間がかかるし気配も出る。そこが限界。
だから、体を「ねじり」(鞭の原理)で動くのではなく、体を割り、それぞれが「群泳する魚が一斉に方向転換するように」総和的に動くのが大事だ。
「体を割る」動きのイメージは、<海の上でタンカーが航行し、その上をトレーラーが動き、その上をバイクが走る。>というような身体の使い方になる。
そうすれば、身体の各部位は速く動かなくとも、トータルとしては速くなる。
だから、武術の達人は、年をとってもトータルの動きが信じられないくらい速い。そして、体に無理をかけない。
怪我をするのは、体の特定の部位に負担がかかっている証拠。それは無理な身体の使い方をしている証拠。
■
もともと、動物である人間は、直立二足歩行の体勢は不安定。
だから、人間は不安定さを乱されることを恐れている。
たとえば、凍った雪道を歩く時。丸木橋を歩く時。
手を左右に開いてバランスをとる方が歩きやすい。
普段はバランスが崩れると自動運転装置が働き、バランスを保とうとする。
つまり、体はバランスを崩さないようにバランサーとして働いている。
ただ、体が不安定で安定さを保てば、体の各部位がバランサーとして無意識に働かなくていいいので、そのために動きが格段に速くなる。不安定な安定状態が生まれる。
(→安定している重心 (バランス) をわざと不安定にして、軽い力で動かせるようにする。重いドラム缶を斜めにして転がすようなもの。不安定な状態こそが最も身軽な状態。)
■
人間は無意識のうちに予測をすることで身体を使っている。
目隠しして、暗闇で下に飛び降りることは難しい。
霧の中からボールが飛んでくるととれない。
相手に段ボールの重さを伝えないと、相手はうまく受け取れない。
だから、事前に予測を立てるための時間より速い出来事に、人間は対応できない。そのことは身体の運用において大事なことだ。
たとえば、無住心剣術という流派は、人間が<予測し行動する>という連携の働きにいかに介入するかを深く追求した流派。
■
「気」とは身体を巡るエネルギーでありながら「体内感覚」のようなもの。
「気」という意識で体内感覚を磨き、整える。滞ったり、偏らないようにする。
それは、体に固定的な支点をつくらず、滞った所をつくらないこと。
それでいて、その場でバランスを保ちながら居続けること。
■
(最終章『4:人間存在の深層へ』は特によかった。)
丹田の自覚が大事。
丹田=肚(はら)は、足や背中に骨でつながっていない場所。
臍下数cmの場所を示すことが多いが、ここという特定の場所はない。
(→丹田は臍の周囲ではあるが、いろいろな立場でいろいろな場所の提唱がなされる)
■
肥田式強健術の創始者、肥田春充という人の身体運用術はすごい。
丹田という場所は、体中の力を発現するコントロールセンターになっている。
身体を同時発現を統御している場。
丹田は、内臓のような実体があるわけではない。
抽象的な場所のこと。
丹田は、正中心や聖中心とも言うことがある。
位置だけがあって、幅も長さも厚さもない。
腹の中に力学的で無形な球をイメージしてみる。
肥田春充先生の考えでは、
「運動に金銭を要してはならない。機械を要してはならない。健康はそれ自体を以って、購う(あがなう)べきものである。」
■
整体の創始者、野口晴哉先生の紹介。
野口晴哉先生によると、
『人間の健康と言うのは、もともと自然に備わっているものであり、ことさら増進させたり治療したりするものではない。
人間は生きるために生きるのであって、決して何々のために生きるのではない。』
野口晴哉先生は、危篤状態の病人を見て、死ぬ人と生きる人とを瞬時に直感で見分けることができた。
身体の徴候としては『鳩尾(みぞおち)に「禁点の硬結」という小さなしこりが、死ぬ4日前に現れる』とのこと。
(直観で感じたことを身体的な硬結で確認していたらしい。)
■
野口晴哉先生は、力試しで襲い掛かってくる相手には、肩の関節を自由自在に抜いて対処した。
「呼吸の間隙」を使い、自在に関節を抜いた。
「呼吸の間隙」とは、吸気と呼気の間という簡単なものではなくて、『呼吸をつかさどる意識の間』にうまく入ること。
技だけではなく、野口先生の言葉も同じような間を掴んでいた。
『呼吸をつかさどる意識の間』をうまくとらえて何気なく語りかけることで、話す相手へ言葉が深い影響を与えた。
そのことが、単にお説教をするのと、人間を深く把握している人が助言を与えることで、天と地の違いができる理由。
相手の感受性を理解し、相手が飲み込みやすい形とタイミングで話しかける。
そうすれば、抵抗なく自然に言葉は通る。
武術も同じ。下心なく意図なく相手に伝える。禅の名僧の当意即妙な対応も同じ。
■
武術は、力に力でぶつかることではない。それは効率が悪い。
そうではなく、相手の力で崩させる。それは合気道も同じ。
こちらが支点を消して気配を消せば、相手は情報をほしがる。
相手は力を抜き、センサーモードにならざるをえない。
その受け身のセンサーモードのときに、相手側から脈絡のない動き(=情報)がドッと入ってくると、全く抵抗できないし対応できない。
それは、相手の確固たる信念にこちらも確固たる信念でぶつかっても埒が明かないのと同じ。
むしろ、こちらは自在に変転して、相手を映す。
それは、相手にうまく情報をあたえ、自分で考えさせ、<買った方が得だ>と自分自身で納得して結論を出させるのが、上手なセールスマン、というのと同じ。
■
人間は欲が深い。
正しい、善い、というものがたくさんあればあるほど、そちらに傾いてしまう。
■
人間は築き上げた世界を壊したくないものだ。人間は本能的に不安定状態を嫌う。
それは身体保全の自然な働きでもあるけれど、その働きは同時に人間の向上という道のフタにもなってしまう。
だから、そういう思いからも自由になる必要がある。
「小成は大成を妨げる最大の要素である。」
■
物事は得るものがあれば失うものがある。
プラス思考もポジティブシンキングも、得るものだけを見ているので絶対的によいとは思わないが、自分自身を掘り下げることさえ失わないのであれば、プラス思考もポジティブシンキングもいいのではないか。
■
野口晴哉先生は、『念ずれば現ず。』と言う。
(七夕でのイベントで、願いことを書くコツを野口晴哉先生が話す)
『・・になりたいではなく、・・・になるという、もう決まったという形で書くことがポイントです。
ただ、みんなは自分の幸せのためだけに願いことをしている。
それも結構ですが、きっと来年からはもっと広い意味での願いごとが出てくるだろうと思う。
そうしたら、世の中が明るくなるきっかけになるのではないかと思います。』
■
「絶望」とは、過去の人間が生み出したあらゆる方法論がどうにもならないという状態を言う。
この状態は、言ってみれば『自分自身でオリジナルな世界を切り開いてゆくしかない。』ということ。
まさに、自分が自分の道を歩いていく求道者としての資格を得られたともいえる。
■
これが「正しい」とは、そう簡単に言えないものだ。
ただ、生きていると決断しないといけないことは現実にはたくさんある。
だから、自分の本心に沿うような、決断の時に参照する「モノサシ」を自分自身で身にるけることが必要だ。
自分にとっての具体的なモノサシは「深く静かな呼吸」をしているかどうかということ。
「深く静かな呼吸」とは、自分の行動決定を自分の本心に照らして、最も納得できた時に『自然に』生じる呼吸のこと。
意識的にする呼吸ではない。
<何が正しいか>と検討する機会や時間を与えずに、他人に価値観を押し付けることほど罪深いことはない。
だから、より自由な立場で自分の生き方を掘り下げて、自分の本心として行動できた時に生まれる「深く静かな呼吸」を、自分の行動決定のモノサシ(基準)にしている。
■
(野口晴哉先生の言葉が紹介される)
『人間は自由を強く要求している。それは不自由さが裡(うち)に潜んでいるということでもある。
戦時中、<特高警察解体>のニュースが流れたとき、急に肩の力が抜け、深く息ができるようになった。
そのとき、無意識のうちに気を張っていたのを自覚した。
すると、戦争の焼け跡が急に明るくなった。
そして、何か体の奥深くからフツフツと新しい力が湧いてきた。
それ以降、「自由」と言うものは、体で感じるものだと考えるようになった。
すべての人が、この深い息を体験し、自分の裡(うち)から湧き出てくる新鮮な力を自覚することを願うようになった。
どんなものでも、その人の深い息を妨げるものは正しくないと思う。
私は、深い息を可能にするために、潜在意識教育や整体操作を用いる。
これが整体指導というものなのです。』
■■■■■■
ということで、この本の紹介は終わりです。
いろいろ学ぶこと、感じることが多かった!
普段の仕事は脳みそや手先を使うことが多い。
だからこそ、甲野さんのように古武術を通して人間の身体全体をトータルに深く広く追及している方からは刺激をうける。
登山も、自分の身体も精神も感受性も総動員しないといけない。だから自分は登山が好きなんだと思う。
立場や役割を捨てて、ひとりの人間として原点に戻ります。
自分の感覚を磨きあげ、自分の感受性を大切にする。
そして、自分の良心や本心と照らし合わせた上で、深く静かな息ができるような決断をすることが大事だ。
「深く静かな呼吸」が似合う生き方をしたいなぁと思います。
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<内容(「BOOK」データベースより)>
現代人の常識を覆す独特の「身体論」が、スポーツ界をはじめ、各方面から注目を集めている。
その術理の探究はさらに進み、さらなる発見にも至っている。
本書は、「『小よく大を制す』武術の復活」「相手の予測を外す無住心剣術」のような技の新たな展開や、
古武術を通して見える日本の教育や科学への疑問などを、架空の人物との対話形式で著者が語り尽くす。
人間が秘める未知の可能性を示唆する一冊。
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■
なんとなしに机の前に置いてあって、軽い気持ちで読み始めたら引き込まれた。
甲野善紀さんは古武術を研究されている方で、古武術の範疇だけではなくて身体運用法一般の研究をされている。
特定の弟子もとらず組織化もせず、自由に研究し自由に指導している。
その姿勢にはとても尊敬できる。その道では有名な方です。
本を読んで初めて知ったエピソードに共感した。
甲野さんは東京農大の畜産学科に通われていて、ひよこの雌雄選別作業を見た。
「雄のひよこが生きたままバケツに放り込まれて、人間の足で踏み潰されて殺される。」
そこで、こういう現実を目の当たりにした。
この衝撃的な現場が、『人間にとって自然とは何か』と考え、ひいては普通の道を外れて古武術へと至ったきっかけになったと、書かれていた。
メス鶏しか卵を産めないので、雄のひよこは不必要とされてすぐに殺される現場だったらしい。
こういう経済や効率重視の世界、そしてそのことを何とも思わない光景に愕然としたということだろう。
このエピソードには、自分も共感を覚えた。
自分も広い範囲での生命を扱っている仕事をしている。
生命よりも経済や効率を優先させて「でも、そういう社会だからしょうがないでしょ。」と説明されることがある。
ある種のあきらめで、ある種の投げやりな姿勢と共に。
そのことが万遍なくむしばみつつある現状には、自分も途方もない無力感を感じることがある。
確かにどうしようもない・・。
ただ、これは時代の病のようなもの。僕らの世代は正面から引き受け、その問題点とゆがみをはっきりと見据え、その上で未来を構想していかないといけないんだろう。
これは、震災に伴う原発の問題を考えるときも同じようなことを感じた。
■
村上春樹さんのカタルーニャ国際賞スピーチでもそういう発言があったのを思い出す。
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○「我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。」
○「原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。」
○「我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhunanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。」
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■
読書というものは、書き手への強い共感や愛情や敬意がなければ、深く読み込むのは難しい。
読書のコツは、書き手を好きになることに尽きると思う。
好きになれないとき、読書は単なる「情報の記憶」になる。
甲野さんも、村上春樹さんも、波長が近いものを感じる。だからこそ書き手を好きになり読める。そこには深い共感が伴う。
読書とは本来そういうものだと思う。
基本は書き手を好きになること。好意や敬意を持つこと。
そこが基礎にないと、書き手の思いがこちら側へ伝わら通路はできない。
書き手側の誠実な姿勢はもちろん必要だけれど、読み手側の誠実な姿勢も読書には求められるんだと思う。
本の中に随所に出てくるけれど、甲野さんは整体の創始者である野口晴哉先生へ、深い尊敬の念がある。
自分も、野口晴哉先生の著作を読んで感銘を受けたところだった。
ちなみに、野口晴哉先生が提唱していた整体は「人間にある体癖(=体のクセ、体の歪み)を独自の方法(=愉気法、活元)で自己治療し、からだの修正現象がおきることで自然体になる。」というもの。
自分自身で自分の体調を整えていくための体育理論。
野口先生の発言には重みがあり説得力があるけれど、同じように甲野さんの発言にも説得力がある。
自分を実験場にして果てしない<try and error>を繰り返した人だから。
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(甲野善紀さんの「古武術からの発想」PHP文庫(2003/02)から、印象に残ったものを簡単に抜粋します)
■
基本というのは、自分がめざす方向性を指し示してくれる感受性を養うためにあるのだ。
■
(甲野さんの知り合いの科学者が言ったことが紹介される)
「今の科学者は信仰の世界と同じ。事実よりも学説が教典のように優先されている。」
(このことを受けて)
学者の方には、もっと度量を広く、さまざまな在り様を考えていただきたい。
真理や真相を追求するはずの学問が、自分の地位や権威を保つことに興味が向いている。
■
明治の剣聖と言われた山岡鉄舟。その道場の春風館。副食物は、1年中味噌汁に大根の葉を刻んだものか沢庵漬けだけと決まっていた。
パプアニューギニアの人間も芋しか食べないけれど筋骨隆々。
例えば、甲田光雄先生という、西式健康法、断食療法、生菜食健康法などの研究をされている方が紹介されている。
食事と肉体、食事と健康に関しては奥が深く、自分自身の体のことだから自分で研究してみる必要がある。
(→この辺りに関しては、同じく甲野善紀さんの「表の体育 裏の体育―日本の近代化と古の伝承の間に生まれた身体観・鍛練法」PHP文庫(2004/03)に恐ろしく深く追求されているようなので、読んでみようと思う。)
■
教育では、むやみに厳しさを教えなくてもいい。楽しさを教えることが大事だ。
楽しさを教えると興味が引き出されてくる。
熱中すると自信もつき、自然にプライドも育つ。
そのプライドは、自分自身をより厳しい立場へと追い込んでゆく。
そうして、厳しさは自然に学ばれていくものだ。
■
支店が固定されたヒンジ運動ではなく、井桁崩しの原理(井桁術理)。井桁術理の別名は「平行四辺形の原理」。
(長方形が畳まれて平行四辺形に変形していくように動くことから、そう呼ばれている)
固定された支点を作らず「互い違いにずらす」ことで、身体の運用が広がる。
(例えば、相手を倒す方向とは別の方向に働きかけることで崩す。・・・など)
■
古の達人は、現代からは常識はずれのような身体の使い方をして、信じられない身体運用をしていた。
合気道の植芝盛平開祖、鹿島神流の国井道之師範、振武館の黒田鉄山先生の祖父、黒田泰治鉄心斉先生。
体の動きの質そのものが違う。作動のメカニズムが違う。
そのことを謙虚に考える必要がある。
■
現代の身体運用で多いのが「ねじり」の動き。
「ねじり」は「うねり」の変形。鞭の動きと同じだから、確かに力強く速い動きになる。
しなった鞭の先端速度は音速を超えるため、衝撃波の音が出る(時速1000km以上)。
ただ、ねじりの動きは、距離と時間がかかるし気配も出る。そこが限界。
だから、体を「ねじり」(鞭の原理)で動くのではなく、体を割り、それぞれが「群泳する魚が一斉に方向転換するように」総和的に動くのが大事だ。
「体を割る」動きのイメージは、<海の上でタンカーが航行し、その上をトレーラーが動き、その上をバイクが走る。>というような身体の使い方になる。
そうすれば、身体の各部位は速く動かなくとも、トータルとしては速くなる。
だから、武術の達人は、年をとってもトータルの動きが信じられないくらい速い。そして、体に無理をかけない。
怪我をするのは、体の特定の部位に負担がかかっている証拠。それは無理な身体の使い方をしている証拠。
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もともと、動物である人間は、直立二足歩行の体勢は不安定。
だから、人間は不安定さを乱されることを恐れている。
たとえば、凍った雪道を歩く時。丸木橋を歩く時。
手を左右に開いてバランスをとる方が歩きやすい。
普段はバランスが崩れると自動運転装置が働き、バランスを保とうとする。
つまり、体はバランスを崩さないようにバランサーとして働いている。
ただ、体が不安定で安定さを保てば、体の各部位がバランサーとして無意識に働かなくていいいので、そのために動きが格段に速くなる。不安定な安定状態が生まれる。
(→安定している重心 (バランス) をわざと不安定にして、軽い力で動かせるようにする。重いドラム缶を斜めにして転がすようなもの。不安定な状態こそが最も身軽な状態。)
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人間は無意識のうちに予測をすることで身体を使っている。
目隠しして、暗闇で下に飛び降りることは難しい。
霧の中からボールが飛んでくるととれない。
相手に段ボールの重さを伝えないと、相手はうまく受け取れない。
だから、事前に予測を立てるための時間より速い出来事に、人間は対応できない。そのことは身体の運用において大事なことだ。
たとえば、無住心剣術という流派は、人間が<予測し行動する>という連携の働きにいかに介入するかを深く追求した流派。
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「気」とは身体を巡るエネルギーでありながら「体内感覚」のようなもの。
「気」という意識で体内感覚を磨き、整える。滞ったり、偏らないようにする。
それは、体に固定的な支点をつくらず、滞った所をつくらないこと。
それでいて、その場でバランスを保ちながら居続けること。
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(最終章『4:人間存在の深層へ』は特によかった。)
丹田の自覚が大事。
丹田=肚(はら)は、足や背中に骨でつながっていない場所。
臍下数cmの場所を示すことが多いが、ここという特定の場所はない。
(→丹田は臍の周囲ではあるが、いろいろな立場でいろいろな場所の提唱がなされる)
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肥田式強健術の創始者、肥田春充という人の身体運用術はすごい。
丹田という場所は、体中の力を発現するコントロールセンターになっている。
身体を同時発現を統御している場。
丹田は、内臓のような実体があるわけではない。
抽象的な場所のこと。
丹田は、正中心や聖中心とも言うことがある。
位置だけがあって、幅も長さも厚さもない。
腹の中に力学的で無形な球をイメージしてみる。
肥田春充先生の考えでは、
「運動に金銭を要してはならない。機械を要してはならない。健康はそれ自体を以って、購う(あがなう)べきものである。」
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整体の創始者、野口晴哉先生の紹介。
野口晴哉先生によると、
『人間の健康と言うのは、もともと自然に備わっているものであり、ことさら増進させたり治療したりするものではない。
人間は生きるために生きるのであって、決して何々のために生きるのではない。』
野口晴哉先生は、危篤状態の病人を見て、死ぬ人と生きる人とを瞬時に直感で見分けることができた。
身体の徴候としては『鳩尾(みぞおち)に「禁点の硬結」という小さなしこりが、死ぬ4日前に現れる』とのこと。
(直観で感じたことを身体的な硬結で確認していたらしい。)
■
野口晴哉先生は、力試しで襲い掛かってくる相手には、肩の関節を自由自在に抜いて対処した。
「呼吸の間隙」を使い、自在に関節を抜いた。
「呼吸の間隙」とは、吸気と呼気の間という簡単なものではなくて、『呼吸をつかさどる意識の間』にうまく入ること。
技だけではなく、野口先生の言葉も同じような間を掴んでいた。
『呼吸をつかさどる意識の間』をうまくとらえて何気なく語りかけることで、話す相手へ言葉が深い影響を与えた。
そのことが、単にお説教をするのと、人間を深く把握している人が助言を与えることで、天と地の違いができる理由。
相手の感受性を理解し、相手が飲み込みやすい形とタイミングで話しかける。
そうすれば、抵抗なく自然に言葉は通る。
武術も同じ。下心なく意図なく相手に伝える。禅の名僧の当意即妙な対応も同じ。
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武術は、力に力でぶつかることではない。それは効率が悪い。
そうではなく、相手の力で崩させる。それは合気道も同じ。
こちらが支点を消して気配を消せば、相手は情報をほしがる。
相手は力を抜き、センサーモードにならざるをえない。
その受け身のセンサーモードのときに、相手側から脈絡のない動き(=情報)がドッと入ってくると、全く抵抗できないし対応できない。
それは、相手の確固たる信念にこちらも確固たる信念でぶつかっても埒が明かないのと同じ。
むしろ、こちらは自在に変転して、相手を映す。
それは、相手にうまく情報をあたえ、自分で考えさせ、<買った方が得だ>と自分自身で納得して結論を出させるのが、上手なセールスマン、というのと同じ。
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人間は欲が深い。
正しい、善い、というものがたくさんあればあるほど、そちらに傾いてしまう。
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人間は築き上げた世界を壊したくないものだ。人間は本能的に不安定状態を嫌う。
それは身体保全の自然な働きでもあるけれど、その働きは同時に人間の向上という道のフタにもなってしまう。
だから、そういう思いからも自由になる必要がある。
「小成は大成を妨げる最大の要素である。」
■
物事は得るものがあれば失うものがある。
プラス思考もポジティブシンキングも、得るものだけを見ているので絶対的によいとは思わないが、自分自身を掘り下げることさえ失わないのであれば、プラス思考もポジティブシンキングもいいのではないか。
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野口晴哉先生は、『念ずれば現ず。』と言う。
(七夕でのイベントで、願いことを書くコツを野口晴哉先生が話す)
『・・になりたいではなく、・・・になるという、もう決まったという形で書くことがポイントです。
ただ、みんなは自分の幸せのためだけに願いことをしている。
それも結構ですが、きっと来年からはもっと広い意味での願いごとが出てくるだろうと思う。
そうしたら、世の中が明るくなるきっかけになるのではないかと思います。』
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「絶望」とは、過去の人間が生み出したあらゆる方法論がどうにもならないという状態を言う。
この状態は、言ってみれば『自分自身でオリジナルな世界を切り開いてゆくしかない。』ということ。
まさに、自分が自分の道を歩いていく求道者としての資格を得られたともいえる。
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これが「正しい」とは、そう簡単に言えないものだ。
ただ、生きていると決断しないといけないことは現実にはたくさんある。
だから、自分の本心に沿うような、決断の時に参照する「モノサシ」を自分自身で身にるけることが必要だ。
自分にとっての具体的なモノサシは「深く静かな呼吸」をしているかどうかということ。
「深く静かな呼吸」とは、自分の行動決定を自分の本心に照らして、最も納得できた時に『自然に』生じる呼吸のこと。
意識的にする呼吸ではない。
<何が正しいか>と検討する機会や時間を与えずに、他人に価値観を押し付けることほど罪深いことはない。
だから、より自由な立場で自分の生き方を掘り下げて、自分の本心として行動できた時に生まれる「深く静かな呼吸」を、自分の行動決定のモノサシ(基準)にしている。
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(野口晴哉先生の言葉が紹介される)
『人間は自由を強く要求している。それは不自由さが裡(うち)に潜んでいるということでもある。
戦時中、<特高警察解体>のニュースが流れたとき、急に肩の力が抜け、深く息ができるようになった。
そのとき、無意識のうちに気を張っていたのを自覚した。
すると、戦争の焼け跡が急に明るくなった。
そして、何か体の奥深くからフツフツと新しい力が湧いてきた。
それ以降、「自由」と言うものは、体で感じるものだと考えるようになった。
すべての人が、この深い息を体験し、自分の裡(うち)から湧き出てくる新鮮な力を自覚することを願うようになった。
どんなものでも、その人の深い息を妨げるものは正しくないと思う。
私は、深い息を可能にするために、潜在意識教育や整体操作を用いる。
これが整体指導というものなのです。』
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ということで、この本の紹介は終わりです。
いろいろ学ぶこと、感じることが多かった!
普段の仕事は脳みそや手先を使うことが多い。
だからこそ、甲野さんのように古武術を通して人間の身体全体をトータルに深く広く追及している方からは刺激をうける。
登山も、自分の身体も精神も感受性も総動員しないといけない。だから自分は登山が好きなんだと思う。
立場や役割を捨てて、ひとりの人間として原点に戻ります。
自分の感覚を磨きあげ、自分の感受性を大切にする。
そして、自分の良心や本心と照らし合わせた上で、深く静かな息ができるような決断をすることが大事だ。
「深く静かな呼吸」が似合う生き方をしたいなぁと思います。