![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/cb/9461502ce488c103872580cdf360a367.jpg)
最近、中国の道教の「タオ(TAO:道)」のことを知った。
それ以降、何かの状況に遭遇するときに、「あ、これがそのタオって状態のことなのかも。」と、ふと頭に浮かぶようになった。
「タオ(TAO:道)」は、道教(中国の土着的信仰)や老子で使われる言葉。
タオを表す「道」という漢字自体が、「しんにょう」が終わりを、「首」が始まりを示しているとされていて、そういう風に「対立しあうものをひとつにまとめること」を表している。
そういう対立しあうものを一つにまとめていくことが、宇宙や人生での根源的な状態であるのだと言う。
→加島祥造さんの「タオ 老子」(ちくま文庫)とかは、口語訳でかなり平易に老子のタオのことを紹介している。
・・・・・・・・
心理学者のユングに、中国の「易」を伝えた宣教師・ヴィルヘルムという人がいる。
その人が話した中国の雨乞い師の有名な逸話があるので、簡単に要約してみる。
たしか、「人間と象徴 -無意識の世界」ユング(著),河合隼雄(翻訳)(河出書房新社)に書いてあった気がする。 (違う本かもしれない)
■TAO(タオ)
『日照りが続き、村は困窮していた。
最後の望みとして、村人は雨乞い師の老人を呼んだ。
その老人は、村に来るとすぐに「静かな小屋」を求めた。
そして、その家にひとり閉じこもった。
三日は何も起きなかった。住民は待った。
老人はひとり、誰にも会わず静かな小屋にたたずみ、出てこなかった。
すると四日目には、雪など降らない季節にもかかわらず外は大雨、大吹雪となり、村は助かった。
その後、村人は聞いた。
「どのように雪を降らせたのか」。
老人は答えた。
「私は雪を降らせていない。私は関係ない。」
「では三日間、小屋の中で何をしていのか」
「それなら説明できる。
私は別の地方からやってきたのだが、そこでは万事が秩序立っていた。
ところが、この村は秩序から外れていたのが分かった。
この村全体がタオの中になかったため、
私までタオ(道)の中にいないという状態になってしまった。
私は三日の間、私がタオ(道)へと帰った。
そして、自然に雨がやってくるまで待っていなければならなかったのだ。』
■エス
話は変わる。
<こうしたいと思ったのにできなかった>
<あんなこと言うはずじゃなかったのに言ってしまった>・・・
すべては自分であって、自分のはずなのに、自分を別の場所から突き動かす領域というものを感じるときがある。
その場所を、「それ(It)」としか表現できない場所やエネルギーという意味で、精神医学や心理学では「それ(It)」の意味がある「エスEs」と呼ぶことがある。英語圏では、ラテン語の「イドId」(これも、「それ(It)」というだけのの意味)というコトバを使うこともある。
ちなみに、ミスチルの曲の「【es】~Theme of es~」っていう歌を思い出してしまうけれど、この歌も不可思議なエスの働きを歌にしたもの。
****************************
【es】~Theme of es~
作詩・作曲:桜井和寿
Ah 長いレールの上を歩む旅路だ
風に吹かれ バランスとりながら
Ah “答え”なんてどこにも見当たらないけど
それでいいさ 流れるまま進もう
手にしたものを失う怖さに
縛られるぐらいなら勲章などいらない
何が起こっても変じゃないそんな時代さ覚悟はできてる
よろこびに触れたくて明日へ 僕を走らせる「es」
Ah 自分の弱さをまだ認められずに
恋にすがり 傷つけるたび思う
「愛とはつまり幻想なんだよ」と
言い切っちまった方がラクになれるかもなんてね
甘えや嫉妬やズルさを抱えながら誰もが生きてる
それでも人が好きだよそして あなたを愛してる
Oh なんてヒューマン
裸になってさ 君と向き合っていたい
栄冠も成功も地位も名誉も
たいしてさ 意味ないじゃん
今ここにいる自分をきっと誰もが信じてたいのさ
過ぎた日々に別れ告げて君は歩き出す
何が起きても変じゃないそんな時代さ覚悟はできてる
よろこびに触れたくて明日へ 僕を走らせてくれ
僕の中にある「es」
****************************
■
そんな自分の中にあるわけのわからない「エス」のエネルギー。
それは、意識の世界を支える、無意識の世界の中で起きているもう一つの現実。
ちなみに、フロイトは、そういう「エス」のエネルギーを、リビドーとして「性」に関するものとしてに一元的に説明しようとした。
それは精神分析という科学的な学問を打ち立てるために、一元論的ですごい力を持ったけれど、やはり一面的すぎる印象は否めない。
たしかに、フロイトの時代では、ある一定の意義があったことは認めるけれど、ユングのほうが人間の無意識の扱いでは、より柔軟だと思う。ちなみに、ユングは無意識全般を「意識の偏りのバランスを保つための補償作用」ととらえている。
タオの話しに戻る。
タオが伝えようとしているのは、人間のあり方を、意識に偏りすぎた側面だけを考えるのではなくて、無意識も、エスも、自分を突き動かす全てを含んで包み込んだ、「ひとりの人間全体」、そしてその調和の重要性のことを言おうとしていたのだと思う。
「性」や「暴力」も、そんなエスの領域、「向こう側の世界」から来るもので非常に力を持つ。
その力に支配されてしまうと、自分自身の崩壊をすら招きうる凄まじいものなのだと思う。
あらためて、調和(ハーモニー)、均衡(バランス)というのは、色んな面で大事だと思うのです。
⇒「調和」(2010-09-21)
タオのような状況に気づくことは、ひとりの人間が、死ぬまでにやるべき大切な仕事なのだと思う。
そのプロセスを「成長」と呼んだり、そのことが分かった時に、「こども」から「おとな」になったと言うのだろう。
それを早い時期に気付くか、遅い時期に気づくか、死ぬ前に気づくか、死んだ後に気づくか、それは時期の問題にすぎない。
ただ、早く気付けば気付くほど、この世界の素晴らしさも不思議さも、それこそ全体を感じとれるものだと思う。
■
あの雨乞いの不思議な話のように、ひとりの人間が「タオ(道)」と呼ばれる調和のとれた状態にいると、周りのひとやものも、あるべき場所へと向けて変わっていくのだろう。
それは、明恵が重要視した「あるべきようは」という考えも近いんだと思う。
⇒「あるべきようは」(2010-11-05)
ひとりの人間が「タオ(道)」と呼ばれる調和のとれた状態にいると、その場所へとひとも自然に集う。
そして、その周囲の人も自然も森羅万象も、あるべき場所へ向けて変わっていくのだろう。
====================
無為とは、なにもしないことじゃない
誰も、みんな、
産んだり、養ったり、作ったりするさ、
しかし、タオにつながる人は
それを自分のものだと主張しない。
熱心に働いても
その結果を自分のしたことと自慢しない。
頭に立って人々をリードしても、
けっして人を支配しようとはしない。
頭であれこれ作為しないこと、
タオに生かされているのだと知ること、
それが無為ということだよ。
(老子道徳経第十章)
加島祥造「タオ 老子」(ちくま文庫)
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それ以降、何かの状況に遭遇するときに、「あ、これがそのタオって状態のことなのかも。」と、ふと頭に浮かぶようになった。
「タオ(TAO:道)」は、道教(中国の土着的信仰)や老子で使われる言葉。
タオを表す「道」という漢字自体が、「しんにょう」が終わりを、「首」が始まりを示しているとされていて、そういう風に「対立しあうものをひとつにまとめること」を表している。
そういう対立しあうものを一つにまとめていくことが、宇宙や人生での根源的な状態であるのだと言う。
→加島祥造さんの「タオ 老子」(ちくま文庫)とかは、口語訳でかなり平易に老子のタオのことを紹介している。
・・・・・・・・
心理学者のユングに、中国の「易」を伝えた宣教師・ヴィルヘルムという人がいる。
その人が話した中国の雨乞い師の有名な逸話があるので、簡単に要約してみる。
たしか、「人間と象徴 -無意識の世界」ユング(著),河合隼雄(翻訳)(河出書房新社)に書いてあった気がする。 (違う本かもしれない)
■TAO(タオ)
『日照りが続き、村は困窮していた。
最後の望みとして、村人は雨乞い師の老人を呼んだ。
その老人は、村に来るとすぐに「静かな小屋」を求めた。
そして、その家にひとり閉じこもった。
三日は何も起きなかった。住民は待った。
老人はひとり、誰にも会わず静かな小屋にたたずみ、出てこなかった。
すると四日目には、雪など降らない季節にもかかわらず外は大雨、大吹雪となり、村は助かった。
その後、村人は聞いた。
「どのように雪を降らせたのか」。
老人は答えた。
「私は雪を降らせていない。私は関係ない。」
「では三日間、小屋の中で何をしていのか」
「それなら説明できる。
私は別の地方からやってきたのだが、そこでは万事が秩序立っていた。
ところが、この村は秩序から外れていたのが分かった。
この村全体がタオの中になかったため、
私までタオ(道)の中にいないという状態になってしまった。
私は三日の間、私がタオ(道)へと帰った。
そして、自然に雨がやってくるまで待っていなければならなかったのだ。』
■エス
話は変わる。
<こうしたいと思ったのにできなかった>
<あんなこと言うはずじゃなかったのに言ってしまった>・・・
すべては自分であって、自分のはずなのに、自分を別の場所から突き動かす領域というものを感じるときがある。
その場所を、「それ(It)」としか表現できない場所やエネルギーという意味で、精神医学や心理学では「それ(It)」の意味がある「エスEs」と呼ぶことがある。英語圏では、ラテン語の「イドId」(これも、「それ(It)」というだけのの意味)というコトバを使うこともある。
ちなみに、ミスチルの曲の「【es】~Theme of es~」っていう歌を思い出してしまうけれど、この歌も不可思議なエスの働きを歌にしたもの。
****************************
【es】~Theme of es~
作詩・作曲:桜井和寿
Ah 長いレールの上を歩む旅路だ
風に吹かれ バランスとりながら
Ah “答え”なんてどこにも見当たらないけど
それでいいさ 流れるまま進もう
手にしたものを失う怖さに
縛られるぐらいなら勲章などいらない
何が起こっても変じゃないそんな時代さ覚悟はできてる
よろこびに触れたくて明日へ 僕を走らせる「es」
Ah 自分の弱さをまだ認められずに
恋にすがり 傷つけるたび思う
「愛とはつまり幻想なんだよ」と
言い切っちまった方がラクになれるかもなんてね
甘えや嫉妬やズルさを抱えながら誰もが生きてる
それでも人が好きだよそして あなたを愛してる
Oh なんてヒューマン
裸になってさ 君と向き合っていたい
栄冠も成功も地位も名誉も
たいしてさ 意味ないじゃん
今ここにいる自分をきっと誰もが信じてたいのさ
過ぎた日々に別れ告げて君は歩き出す
何が起きても変じゃないそんな時代さ覚悟はできてる
よろこびに触れたくて明日へ 僕を走らせてくれ
僕の中にある「es」
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■
そんな自分の中にあるわけのわからない「エス」のエネルギー。
それは、意識の世界を支える、無意識の世界の中で起きているもう一つの現実。
ちなみに、フロイトは、そういう「エス」のエネルギーを、リビドーとして「性」に関するものとしてに一元的に説明しようとした。
それは精神分析という科学的な学問を打ち立てるために、一元論的ですごい力を持ったけれど、やはり一面的すぎる印象は否めない。
たしかに、フロイトの時代では、ある一定の意義があったことは認めるけれど、ユングのほうが人間の無意識の扱いでは、より柔軟だと思う。ちなみに、ユングは無意識全般を「意識の偏りのバランスを保つための補償作用」ととらえている。
タオの話しに戻る。
タオが伝えようとしているのは、人間のあり方を、意識に偏りすぎた側面だけを考えるのではなくて、無意識も、エスも、自分を突き動かす全てを含んで包み込んだ、「ひとりの人間全体」、そしてその調和の重要性のことを言おうとしていたのだと思う。
「性」や「暴力」も、そんなエスの領域、「向こう側の世界」から来るもので非常に力を持つ。
その力に支配されてしまうと、自分自身の崩壊をすら招きうる凄まじいものなのだと思う。
あらためて、調和(ハーモニー)、均衡(バランス)というのは、色んな面で大事だと思うのです。
⇒「調和」(2010-09-21)
タオのような状況に気づくことは、ひとりの人間が、死ぬまでにやるべき大切な仕事なのだと思う。
そのプロセスを「成長」と呼んだり、そのことが分かった時に、「こども」から「おとな」になったと言うのだろう。
それを早い時期に気付くか、遅い時期に気づくか、死ぬ前に気づくか、死んだ後に気づくか、それは時期の問題にすぎない。
ただ、早く気付けば気付くほど、この世界の素晴らしさも不思議さも、それこそ全体を感じとれるものだと思う。
■
あの雨乞いの不思議な話のように、ひとりの人間が「タオ(道)」と呼ばれる調和のとれた状態にいると、周りのひとやものも、あるべき場所へと向けて変わっていくのだろう。
それは、明恵が重要視した「あるべきようは」という考えも近いんだと思う。
⇒「あるべきようは」(2010-11-05)
ひとりの人間が「タオ(道)」と呼ばれる調和のとれた状態にいると、その場所へとひとも自然に集う。
そして、その周囲の人も自然も森羅万象も、あるべき場所へ向けて変わっていくのだろう。
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無為とは、なにもしないことじゃない
誰も、みんな、
産んだり、養ったり、作ったりするさ、
しかし、タオにつながる人は
それを自分のものだと主張しない。
熱心に働いても
その結果を自分のしたことと自慢しない。
頭に立って人々をリードしても、
けっして人を支配しようとはしない。
頭であれこれ作為しないこと、
タオに生かされているのだと知ること、
それが無為ということだよ。
(老子道徳経第十章)
加島祥造「タオ 老子」(ちくま文庫)
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昔は老子に憧れていたけれど、下村湖人さんの「論語物語」を読んで、悟っているのだけれど人間臭い孔子の姿に、いいなぁと思いました。また今、老子を読んでみようかな。キリストにしても孔子にしても周りがメモって、経典なり書物なりにしたんだろうけど、いなばさんも、かなり悟りの境地を拓いてきているから、そろそろ周りのみんなで、自分なっりにメモって後世に伝えていかないといけませんね。笑。。
>>>「道」という漢字自体が、「しんにょう」が終わりを、「首」が始まりを示しているとされていて、そういう風に「対立しあうものをひとつにまとめること」を表している
知らなかったです。
私は、道を切り拓いていくときに、向かってくる敵の首をとって、それが道に置いていかれていくから、こういう字になったと、どこかで(確か白川静さん…)読んだ記憶が・・・。色々な解釈があるのだろうね。
esというのは、当たり前だけど、ドイツ語ですね。
そう分かったら、すんなり入ってくる。それにしても、ミスチルはすごいナーーー
加島祥造さんの「タオ 老子」、読みやすいよね。
あまりにも平易な文章なんだけど、そこには深みがある。不思議なものだ。
道端で一言を色紙に書く若者とかいて、その人たちとそんなに違わないような違うような文章なんだけどね。笑
やはり、その人の奥底から溢れる言葉は何か違うものをキャッチするのでしょう。
その尊敬するヴィオラ弾きの友人さんは、たしかに気が合いそう。いつか話す機会があるといいな。
トルストイとかドストエフスキーとか、僕はもともと漫画少年で文学少年ではないので、いまだにまともに読んだことないのだけれど、今はすごく文学や古典に興味が湧いていて、ロシアの文豪はとても興味あります。1年以内に自分も読むと思う。(軽い予言)
車輪の話、知ってます。
「無を以て用と為す(無之以為用)」。
ちょうど自転車の車輪の中のように、何もない空っぽであるのが役にたっているんだとか・・・。
よく読むと、<自己とはドーナツの穴である>っていう話しと実は似てる気がする!
→「他者との出会い」(2009-04-04)
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言葉を訳すというのは、なかなか簡単ではないことだね。心が動くような文章にするには、その言葉の持つリズムや波や熱に合わせて、手直しが必要なんだろうなぁ。
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そうですね。要は単純な機械的な翻訳ではなくてね。
その翻訳者が、どう書けばいいのかという迷いとか、損なわないように、でも魅力を十分に伝えるために・・とか、ものすごい葛藤や思いがあると、その辺は自然に翻訳物に反映されるが気がするのかも。
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私は、道を切り拓いていくときに、向かってくる敵の首をとって、それが道に置いていかれていくから、こういう字になったと、どこかで(確か白川静さん…)読んだ記憶が・・・。色々な解釈があるのだろうね。
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その話も、有名な話だよねー。
衝撃的だから、だいたい白川先生の紹介とかで、みんながこのエピソードを語るのを見かける気がする。
まあ、後付だったりすることもあると思うけど、その説明を聞いた人が、いかにそのことにリアリティーを感じるかとか、そっちのほうが大事な気もするねぇ。
>>>それにしても、ミスチルはすごいナーーー
いやいや。ほんとにほんとにほんとに、ミスチルは偉大なんですよ。これ、ほんとです。
老子・荘子は面白いですよね。春秋戦国の戦乱の時代に、力とは全く逆の方向を目指している。「大道廃れて仁義あり」と、孔子と対立しているところも興味深い。
トルストイ・ドストエフスキーは私も読み漁りました。読者の人生を変えてしまうほどの内容があります。ロシアの話なので、読むならぜひ冬にストーブをつけずに読んで下さい。
国木田独歩の「美妙」。知りませんでした。
確かに、竹内先生は独歩の引用が多いですよね。実は僕は一冊も読んだことないです。いつか読む機会あればと思ってるんですけど。
美妙の「妙たえ」って言葉はいい言葉ですよね。辞書でも<1 不思議なまでにすぐれているさま。何ともいえないほど美しいさま。2 きわめてじょうずなさま。>とありました。
たしかに、老子・荘子も、その時代で唱えていることに強い意味がありますよね。とくに中国は群雄割拠の国だし、新しい元首ができたら、昔の元首の一族は親戚も女性も子供もすべて皆殺しだし、死者にまで鞭打つ文化だし。そんな戦国の時代に、そのカウンターバランスのように老荘が現れたというところが。
老子のタオは、日本人の「あるがまま」とかにも近い気がするし、竹内先生の「おのずから」に近い気がするし。僕ら日本人は西欧の人よりもなじみやすい感覚の気もします。
日本の場合、あまりにもそれが強くなると、単に流されたり、単に誰かの支配に利用されていたりするので、その辺のバランスは難しいところかもですが。
冬は僕は暖房とかあまり使わず、部屋の中で厚着したり、足が冷えないように寝袋を足だけ突っ込んで生活してたりするので、「トルストイ・ドストエフスキー、冬にストーブをつけずに読んで下さい。」ってのはピッタリですね。寒い・寒い・・・と思いつつ、ロシアのあの荒涼とした風景をイメージしながら、読んでみます。