日常

「風の旅人」38号

2009-10-12 10:07:54 | 
少し話題が遅れましたが、今月の「風の旅人」38号(FIND the ROOT 彼岸と此岸 時の肖像)、あいからず期待を裏切らず素晴らしかった!!

まだ定期購読していない人がいたら、是非買ってほしいです。(ブログ上でかなりしつこく宣伝している気が・・。まだ買ってない人はなかなか頑固な人ですね・・)


この雑誌は、表現の世界では間違いなく極致だと思います。それほど素晴らしい。
写真は本で見るのが理想ですが(紙も上質なものを使っている!)、風の旅人のHPで雰囲気だけでも感じれます。


まず、この号は表紙の牧野美智子さんの写真が素晴らし過ぎる!
思わず息をのむ。
長時間、。写真の彼方を見つめる。表紙の絵の中に自分の意識が吸収し同化していくように。自分の意識できない場所と何かが呼応しているようだ。
言葉や概念で切り取られ分割される前の、不定型な感情や感覚。風景のような場所。


先日も嗅覚や味覚は「言語」とほど遠い神聖で原始的な場所にあるのではないかと話していた。
自分の脳という小宇宙でも、すべては必ずしも言語化できる場所だけではない。嗅覚や味覚が証明している。(「おいしい、まずい」。「いい、くさい」とか・・・どんなに頑張っても言語ではその程度でしか表現できない。)

ものを見るとき、視覚情報を視覚野(ブロードマンの脳地図での、脳の後ろ側にあるとこ)で情報処理する。写真も含めた優れた芸術では、視覚野以外の領域を総動員しながら、同時並行、多層的にとらえ、表現するのだろうとと思う。


言語化できない神聖な場所と外の風景が結びつくと、「言葉にできない」不思議な気がする。
言葉はいろんな手垢がついているし、自分の感覚を適切には表現できない。


すぐれた芸術には、「言葉にできない」側面が間違いなくある。
言語化しにくいことを、言語化しようとすると、何か中心をぐるぐる回転しているような表現になってしまう。
本当に到達したいのはその中心。
芸術はそんな中心(コア)を直接に表現していると思う。


とにかく、この牧野美智子さんの写真は本当に素晴らしいと思った。
何か混沌が分化していく手前の風景だと思う。
混沌が成長して無意識にはいり、それが分化して意識世界にはいり、そしてやっと言葉として認識される。そんな言葉のずっと手前の場所。「二」になる前の「一」の状態とも言えるだろう。

日常的に、いろんな人の観念や思惑がベタベタ張り付いた言葉世界で生きているからこそ、牧野さんのような世界に触れることは大事だ。人間は赤ん坊から成長するが、そういう赤子の原始感覚へ先祖帰りするような感覚に襲われる。



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北義昭さんのエジプトの山の写真も衝撃的。心の奥底。原始的な風景。子供の視線はこちらの心の奥底まで見透かされるようなまっすぐな眼差し。ニュートリノのように全てを突き抜けていく視線。

大西成明さんの動物の写真もすごい。動物園でカワイイって人間の都合で切り取られた動物とは違う。野生の狂気と恐怖。生命のむき出し。野生は僕ら人間にもある。

ゆっくりと静かな時間は、現代ではなかなか探しても見つからない。山とか図書館くらいしかない。 

雑音もなく静かでゆっくりした時間に身を委ねるとき、この動物たちのような領域に僕ら人間もある。
現代社会は無意味に忙しい共同幻想をつくりあげているから、見過ごしている。生命そのものの原始的な形を思い出す。



「縄文のコスモロジー第1回 縄文の人間学」(文:酒井健さん、写真:滋澤雅人)も素晴らしかった。火の国熊本生まれだからなのか、縄文は無性に「血が騒ぐ」ことがある。

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最近、星野之宣の「ヤマタイカ」って漫画で大感動してしまったんですが、この漫画も縄文・卑弥呼・ヤマトの話。面白すぎる!星野先生、最高!  
縄文は火の文化で、火山に神を見出した。それに対して弥生は日の文化、太陽に神を見た。・・・ まあこんな単純な話だけではなくて、民俗学、歴史学、地理学、宗教学、文化人類学・・全ての知識が錯綜して読者の体を共振させて揺さぶる漫画。嗚呼、素晴らしい漫画!星野之宣ワールドは最高。
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酒井健さんの文章、滋澤雅人さんの写真で、色んな豊かな空想にふけらせてもらいました。




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ところで、恵比寿にある東京都写真美術館には写真をよく見に行くのです。
昨日も3つの展示を全部見てきて、特に『コレクション展「旅」 第3部「異邦へ 日本の写真家たちが見つめた異国世界」行った』は、本当に素晴らしかった。
(特に、安本江陽さん、福原信三さんの写真は鳥肌だった!! 夢と現のあわいの世界!! 絶句!)


自分が写真好きになったのは雑誌「風の旅人」のおかげ。出会いとは本当に重要だ。


佐伯さんが選んでくる写真や文章の構成の妙に魅了され、そこから写真の奥深さを知った。だから、恵比寿の東京都写真美術館で写真を見るたび、基準は常に「風の旅人」にあって、この雑誌での感動を基準にして写真を見てしまっている。(今回は、特に安本江陽さんと福原信三さんの写真に共鳴。)


風の旅人も、次号は細江英公さんの写真が出てくるみたい(以前佐伯さんと話したときにそんなことを聞いた気が)。今月号が出たばかりだけど、既に次号へと期待が高まる。


小学生の時の少年ジャンプは、ワクワクと次の号を楽しみにしていた。発売前日はいつもソワソワしていた。

そんな雑誌、僕にとっては「風の旅人」しか今は見当たりません。

2 コメント

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ありがとうございます (michikomakino)
2009-10-19 08:36:27
表紙の写真を気にいってくださり、
ありがとうございます。
うれしいです。

この写真の被写体は、
撮ろうとは意識せず、
目に光って拡大されて写り、
感覚的に気持ち良いところで表れた感じでした。
右脳しか使っていない(日常も?)かもしれません。


患者さんの記事をひとつ拝見しました。
「神様のカルテ」のお医者さまみたいな方なのかな~と思いました。
患者さん一人一人に優しいお医者様や看護師さんって
本当に偉いな~と思います。
お体に気をつけてがんばってくださいね。
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御本人にコメントを頂けるとは! (いなば)
2009-10-19 16:14:33
>>>>>michikomakino様

ご本人様からお返事いただきまして光栄です!!

『風の旅人』は、偶然手にとった縁で創刊号から読んでいます。日本の中でも熱心な読者の一人に入ると自負していますが(笑)、この雑誌で写真の深さを知ったのですよね。

それまでは、登山をしている関係もあり、山とか自然の写真は好きでしたし、見たり自分で撮ったりしていましたが、山写真以外は、勝手に自意識過剰な印象があって、その撮る人の作為性が感じられる芸術<風>写真は嫌だったんです。

ただ、風の旅人の写真は、そういう過剰な『自意識』を抜けた写真が多くて、それで写真の世界に魅せられました。

牧野さんの今回の写真も正しくそうです。
自意識が抜けた領域、それは文章で表現することも勿論可能ですし、優れた文章にはそういう面が多分にありますが(みずから書いた文章ではなく、おのずから書かされた文章ですね)、写真はそういう意識を超えた世界を提示できる、もっとも適切な媒体のような気がしてきました。これも、牧野さん含めた風の旅人の写真群のおかげです。

ちなみに、前号、37号で佐伯さんが書いている『写真の可能性』は圧倒的な文章でした。写真の変遷が、そのまま自己と他者論、近代文明論になっていて、文章を読んでいて久しぶりに鳥肌立ちましたね。


ああいう写真の系譜に、牧野さんの写真が『一隅を照らす』ように位置づけられているんだと感じます。風の旅人に載る写真は、それくらいの大きな力を感じます。


作為、みずから、自意識・・・
この辺を過剰に意識すると、『意識しないように意識する』という、蛇が自分の尻尾を加えてグルグル回る状態になってしまいますし、<意識することを意識しない>状態へと抜けていくのは、奇跡的な瞬間ですよね。そこと写真が結びつくと、すごい写真が勝手に生まれてくるんでしょうね。
前号のエドワード・S・カーティスも本当にすばらしかった。

牧野さんの写真も、カーティスとは全然違う被写体で、同じような領域を撮影していると直感的に感じましたし。



医療自体は、生身の人間相手ですし、ドロドロした面が多くて、なかなか理想と現実の間の葛藤に苦しむことは多いですが、とりあえずはなんとか徒然なるままに仕事しております。

牧野さんの以前のブログも、2009年度は全部読ませて頂きましたが、以前の写真とかなり変わってきてますね。ブログも楽しく読ませていただきます。

このブログは、異常に文字が多くてドライアイになりかけるブログではありますが、時々遊びに来てくださいませ。
牧野さんの個展などあれば、是非見に行かせていただきます。
コメントありがとうございました!
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