最後に教育です。予告通り「オックスフォードからの警鐘」(苅谷剛彦 中公新書ラクレ)を下敷きにします。買った時は英米と日本の大学の比較が興味深かったのですが(違いに着目することによって本質が見え易くなるところがあります)、思ったよりグローバル化を煽る内容ではありませんね。ただ違いを示しているだけのようです(こうしようああしようまで踏み込んでいない)(寧ろ日本はグルーバルを言ってきたがそうはなっていないという内容のようです)。
英米の大学の起源は古く、国家が大学をつくったのではなく、大学が近代国家をつくったということのようです(18p)。まぁこの辺はどうにもならないことですね。日本を大学支配に作り変えたところで、安全保障すらまるで知らない見ないなのですから、滅亡一直線なのは目に見えています。ただ、互いに尊重してくれればいいのですが、そうはなっていないような気もします。政府が御用学者に自分達の言いたいことを言わせるのも疑問ですし、憲法学者に代表される象牙の塔の学者も疑問です。まぁこの辺をどうにかするのも長い時間がかかるのでしょう。学者は学問が何をできるか問い続けて学問的良心を持ってほしいとは思いますね。防衛産業に代表される日本は考えるのもダメみたいな大学によく見られる言い分は学者のとるべき態度ではないと強く思います。原発もそうですが、左派(大学は左派と言われますがどうなんでしょう)の考えるべきではないという態度には閉口させられます。国民にそういう空気があってもしょうがありませんが(ただし非常に間違っており間違いなく言論弾圧は悪そのものです。悪党が日本にはウヨウヨいるんですね)、そこは空気を読まずに正論を吐くの学者の仕事と思うんですがね。勿論逆も然りで、原発推進の動きに論理的に疑義を呈することができなかったから事故もあったということでしょう(反対したとか言っている連中は原発全否定ですから、そもそもああいいうのは学者じゃないと思います)。こうこうこう理由でこういうメリット・デメリットがありますがどうですか?というのが学問的良心でしょう。結論はこうだから俺に従え的な輩が多すぎます(提案はあって勿論いいのですが、都合の悪いことをスルーすることが多く、真摯さのカケラもありません)。物事を考える考えさせる態度じゃないんですね。政治に関する決断は何処まで言っても政治家がやります。企業に関する決断は企業家がします。アホノミクスなどとかぬかしている左派学者がいますが、おまえは学者じゃないって思いますね。紫色の髪の方がどう見てもアホの象徴です。言論の自由を守るべき大学が言論弾圧を主導する(百田氏の講演を潰すのに一橋大学教員が一役買ったことを言っています)のですから、開いた口も塞がりません。大学教員こそが言論弾圧に最も慎重であるべきでしょうに、そういう形跡がないんですね。
英語圏の大学はグローバルな競争に晒されているようです(優秀な学生・教員の取り合いがある)。一方日本を含む非英語圏はそれほどでもありません(33p)。一方義務教育はOECDのPISAがありますが、比較はあっても義務教育を受けている生徒の移動はほとんど有り得ませんから、英語圏でもグローバルな競争は存在しないと言えるようです(32p)。日本としては日本語を英語に変えることはできませんから、良いところは参考にして取り入れるにしても、グローバルな競争に真正面から勝ちに行くというのはほとんど不可能であるはずです。良い悪いでなく内需頼みしか選択肢がない感じですが、その辺は意識してあまりガラパゴスにならないよう交流も必要でしょう。国内で優れていると考えられている論文や学者(特に日本の経験に関する)はこの本に指摘がありますが、海外にアピールされていいのかもしれませんね(「日本にしかできない付加価値研究に焦点を」(39p)。手の内を晒すようですが、違う視点からのフィードバックがあればデメリットよりメリットが大きいと考えられます。
日本では面接や論述をやろうとすると、客観性・公平性を言われ反対が多いようです。一方イギリスでは主観的な評価が大手を振るって通用しています(49p)。報道で政治的中立が言われるのも同じですね。筆者は支持政党を(ブログで)表明していますが、それはアメリカでそうするという話を聞いて、それが良かろうと思って取り入れた結果です。それも随分長くなりましたが、メリットはあってもデメリットは感じません(厳密に言えば、ヒダリーな方々の襲撃を受けている感じですが、屁とも思っていません)。ですが、これは難しい問題です。エコヒイキ・ミウチびいきする輩が日本には多いんでしょう。その結果中立性・公平性が求められている訳で、堂々デモするシミンな方々に限って安倍ガー自民ガーでヘイトして反対する理由を考えるんですね。反対する理由があるから反対するのではなく、嫌いだとか何か都合悪いとかそんな感覚で反対ありきで理屈を捏ねてしまう訳です。その態度こそが確かな野党である訳ですが、そうならないためには、地道に勉強して定見を確立するしかないと思います。例え嫌いでも都合が悪くても自分の論理を崩してしまうことこそ知的な態度とはかけ離れていることに気付かなければなりません。もはや手遅れの方々も多いでしょうが、そういう方々に黙っていただくとか、少なくともコピーを再生産しないでいただくとかそういうことを筆者は考えています。ともかく自分なりの(客観的な)定見さえ積み上げているなら、主観的な判断こそ優れた判断だと筆者は思います。世の中全部数字で割り切れるものではないですからね。割り切れるかもしれませんが、それはAIやコンピュータがやることです。人間には全てを客観で判断することはできません。そもそもAIやコンピュータだって人間が判断せずにはつくれません。人間は自分にある知識を総動員して考えることしかできませんから、個人の考えは全て主観的な判断とも言えます。客観的な判断、公平な判断なるものは、事実上他人の判断であるとも言え、その他人の考えは結局は主観的な判断によっているはずです。考えのパーツそのものに根拠を求めることは重要ですし、いろいろな考えに耳を傾けることも重要だとは思いますが、足して2で割るが客観・公平であると思っている内は、少なくとも主観的な判断ができる英米の連中に認められることはないのだろうと思います。まぁ理系なんかは主観もクソもないので、日本人に向いているのでしょう。だからノーベル賞もとれるし、技術立国もできる。足して2で割るような思考がそもそも認められない合理的な世界ですから、余計なことを考える必要がありません。政府の理系投資もむべなるかなですが、急激な縮小確定の日本でしか通用しないガラパゴス技術でこの先もやっていけるかどうかは知りません。筆者はトヨタみたいに文系でも総合判断で世界で戦えないと危ないぞと思っていますが。特にエリートな皆さんに言いたいことです。大学はそういうことができる優秀な人材を育成しろ。
イギリスなんかは高度人材を集め海外から資金を集めているようです(90p)。こうした大学の経済効果は日本では中々見込めないでしょう。アジアの皆さん方とかもっと日本語でも勉強してくれればいいんですが、ライバルは国際共通語である英語であったり、市場が巨大な中国語であったり(ただし環境悪すぎで人の住むところじゃない)しますから、中々難しいでしょう。まぁこの辺はあまり期待せず地道にやるかそもそもやらないあたりが正解でしょう。日本人は根性ありますしそこがいいところと思いますが、勝てない相手と勝負するのは疑問です。まぁ今更植民地を増やすわけにもいきませんし、得意なことは得意な奴にやらすべきでしょう。オックスフォードなんかはブレグジットにビビったようです(103p)。イギリスの大学はグローバルな市場で生きていますからね(笑)。なんぼ優れたイギリスの大学様もそんなものですよ。人の考えるところに何処まで行っても完璧はありません。ただ、海外の資金や人材のひきつけはもうちょっと考えてもいいのかもしれませんね。海外はそもそもそんなに日本に関心も無いでしょうが、関心があるなら何処に関心があるか調べたり、逆にアジアなど日本にまだ来そうな近場の国々が何に関心があるのか研究して日本もそれをやってみるとか、そういうことから可能性を切り開くことはできるような気はします。
個性的創造的な人材の育成はずっと言われてきたようです(208p)。でも改善はあったかもしれませんが、今ひとつ達成できなかったようにも見えます。ひとつ考えられるのはセンター試験の廃止です。マークシートで塗り塗りすることほど知的じゃない試験もないでしょう。別に筆者が比較的苦手だったから言う訳ではありません。わりと誰でも考えつくことのようですが、実行はされていないようです。大学入試センター試験(ウィキペディア)>2013年10月21日に教育再生実行会議は大学入試センター試験を廃止し新たに大学入学希望者学力評価テスト(仮称)の創設を提言した。「基礎レベル」と「発展レベル」の2段階の試験を設け高校在学中に複数回受験可能とすることを求めている。高校在学中の到達度テストを「基礎レベル」とし基礎的な科目から出題し大学の一般入試には直接利用しないが成績は推薦入試やアドミッション・オフィス入試の参考とする。現行の大学入試センター試験に代わる「発展レベル」のテストは結果を1点刻みの点数で示すのではなく一定幅の段階評価とし、生徒は複数回受けることができるようにし大学ごとの2次試験は面接や論文を重視するよう求めていく。
最後にふたつ、この本とは関係ないのですが、以前予告した何故肉体労働しない?というテーマですが(筆者も得意じゃありませんし志向しませんが)、考えてみましたが教育に原因はないような気がします。皆さん部活動とか結構体動かしてきているんですよね(筆者は申し訳ありませんがほとんどやっていません)。ですから、単純に美味しくないと見られているのでしょう。この辺は経済的な問題でしょうね。
日本では戦前と結び付けられて忌避されがちな道徳教育もそれほど嫌う理由はないのかもしれません。諸外国における道徳教育の状況について(文部科学省)ワザワザ修身!とか言って自分でイメージ的に自爆していないで(それが受けるのは内輪だけです)、日本なりに必要な道徳教育がもっと考えられてもいいのかもしれません。勤労が悪徳ではプロテスタントとは勝負にならないでしょう(プロテスタントの労働倫理)(ウィキペディア)。働き方改革に対する筆者の違和感もその辺です。サービス残業は良くないにしても、倫理として働かなくていいを肯定したくはないですね。別に働けなくなった障害者に働けとかそういうことを言っている訳ではありませんが。障害者に補助を否定はしませんが、その空気が嫌だから文句とか言われてもね。誰が働いて金出して補助しているんだという。そのくらいは我慢してくださいって。
英米の大学の起源は古く、国家が大学をつくったのではなく、大学が近代国家をつくったということのようです(18p)。まぁこの辺はどうにもならないことですね。日本を大学支配に作り変えたところで、安全保障すらまるで知らない見ないなのですから、滅亡一直線なのは目に見えています。ただ、互いに尊重してくれればいいのですが、そうはなっていないような気もします。政府が御用学者に自分達の言いたいことを言わせるのも疑問ですし、憲法学者に代表される象牙の塔の学者も疑問です。まぁこの辺をどうにかするのも長い時間がかかるのでしょう。学者は学問が何をできるか問い続けて学問的良心を持ってほしいとは思いますね。防衛産業に代表される日本は考えるのもダメみたいな大学によく見られる言い分は学者のとるべき態度ではないと強く思います。原発もそうですが、左派(大学は左派と言われますがどうなんでしょう)の考えるべきではないという態度には閉口させられます。国民にそういう空気があってもしょうがありませんが(ただし非常に間違っており間違いなく言論弾圧は悪そのものです。悪党が日本にはウヨウヨいるんですね)、そこは空気を読まずに正論を吐くの学者の仕事と思うんですがね。勿論逆も然りで、原発推進の動きに論理的に疑義を呈することができなかったから事故もあったということでしょう(反対したとか言っている連中は原発全否定ですから、そもそもああいいうのは学者じゃないと思います)。こうこうこう理由でこういうメリット・デメリットがありますがどうですか?というのが学問的良心でしょう。結論はこうだから俺に従え的な輩が多すぎます(提案はあって勿論いいのですが、都合の悪いことをスルーすることが多く、真摯さのカケラもありません)。物事を考える考えさせる態度じゃないんですね。政治に関する決断は何処まで言っても政治家がやります。企業に関する決断は企業家がします。アホノミクスなどとかぬかしている左派学者がいますが、おまえは学者じゃないって思いますね。紫色の髪の方がどう見てもアホの象徴です。言論の自由を守るべき大学が言論弾圧を主導する(百田氏の講演を潰すのに一橋大学教員が一役買ったことを言っています)のですから、開いた口も塞がりません。大学教員こそが言論弾圧に最も慎重であるべきでしょうに、そういう形跡がないんですね。
英語圏の大学はグローバルな競争に晒されているようです(優秀な学生・教員の取り合いがある)。一方日本を含む非英語圏はそれほどでもありません(33p)。一方義務教育はOECDのPISAがありますが、比較はあっても義務教育を受けている生徒の移動はほとんど有り得ませんから、英語圏でもグローバルな競争は存在しないと言えるようです(32p)。日本としては日本語を英語に変えることはできませんから、良いところは参考にして取り入れるにしても、グローバルな競争に真正面から勝ちに行くというのはほとんど不可能であるはずです。良い悪いでなく内需頼みしか選択肢がない感じですが、その辺は意識してあまりガラパゴスにならないよう交流も必要でしょう。国内で優れていると考えられている論文や学者(特に日本の経験に関する)はこの本に指摘がありますが、海外にアピールされていいのかもしれませんね(「日本にしかできない付加価値研究に焦点を」(39p)。手の内を晒すようですが、違う視点からのフィードバックがあればデメリットよりメリットが大きいと考えられます。
日本では面接や論述をやろうとすると、客観性・公平性を言われ反対が多いようです。一方イギリスでは主観的な評価が大手を振るって通用しています(49p)。報道で政治的中立が言われるのも同じですね。筆者は支持政党を(ブログで)表明していますが、それはアメリカでそうするという話を聞いて、それが良かろうと思って取り入れた結果です。それも随分長くなりましたが、メリットはあってもデメリットは感じません(厳密に言えば、ヒダリーな方々の襲撃を受けている感じですが、屁とも思っていません)。ですが、これは難しい問題です。エコヒイキ・ミウチびいきする輩が日本には多いんでしょう。その結果中立性・公平性が求められている訳で、堂々デモするシミンな方々に限って安倍ガー自民ガーでヘイトして反対する理由を考えるんですね。反対する理由があるから反対するのではなく、嫌いだとか何か都合悪いとかそんな感覚で反対ありきで理屈を捏ねてしまう訳です。その態度こそが確かな野党である訳ですが、そうならないためには、地道に勉強して定見を確立するしかないと思います。例え嫌いでも都合が悪くても自分の論理を崩してしまうことこそ知的な態度とはかけ離れていることに気付かなければなりません。もはや手遅れの方々も多いでしょうが、そういう方々に黙っていただくとか、少なくともコピーを再生産しないでいただくとかそういうことを筆者は考えています。ともかく自分なりの(客観的な)定見さえ積み上げているなら、主観的な判断こそ優れた判断だと筆者は思います。世の中全部数字で割り切れるものではないですからね。割り切れるかもしれませんが、それはAIやコンピュータがやることです。人間には全てを客観で判断することはできません。そもそもAIやコンピュータだって人間が判断せずにはつくれません。人間は自分にある知識を総動員して考えることしかできませんから、個人の考えは全て主観的な判断とも言えます。客観的な判断、公平な判断なるものは、事実上他人の判断であるとも言え、その他人の考えは結局は主観的な判断によっているはずです。考えのパーツそのものに根拠を求めることは重要ですし、いろいろな考えに耳を傾けることも重要だとは思いますが、足して2で割るが客観・公平であると思っている内は、少なくとも主観的な判断ができる英米の連中に認められることはないのだろうと思います。まぁ理系なんかは主観もクソもないので、日本人に向いているのでしょう。だからノーベル賞もとれるし、技術立国もできる。足して2で割るような思考がそもそも認められない合理的な世界ですから、余計なことを考える必要がありません。政府の理系投資もむべなるかなですが、急激な縮小確定の日本でしか通用しないガラパゴス技術でこの先もやっていけるかどうかは知りません。筆者はトヨタみたいに文系でも総合判断で世界で戦えないと危ないぞと思っていますが。特にエリートな皆さんに言いたいことです。大学はそういうことができる優秀な人材を育成しろ。
イギリスなんかは高度人材を集め海外から資金を集めているようです(90p)。こうした大学の経済効果は日本では中々見込めないでしょう。アジアの皆さん方とかもっと日本語でも勉強してくれればいいんですが、ライバルは国際共通語である英語であったり、市場が巨大な中国語であったり(ただし環境悪すぎで人の住むところじゃない)しますから、中々難しいでしょう。まぁこの辺はあまり期待せず地道にやるかそもそもやらないあたりが正解でしょう。日本人は根性ありますしそこがいいところと思いますが、勝てない相手と勝負するのは疑問です。まぁ今更植民地を増やすわけにもいきませんし、得意なことは得意な奴にやらすべきでしょう。オックスフォードなんかはブレグジットにビビったようです(103p)。イギリスの大学はグローバルな市場で生きていますからね(笑)。なんぼ優れたイギリスの大学様もそんなものですよ。人の考えるところに何処まで行っても完璧はありません。ただ、海外の資金や人材のひきつけはもうちょっと考えてもいいのかもしれませんね。海外はそもそもそんなに日本に関心も無いでしょうが、関心があるなら何処に関心があるか調べたり、逆にアジアなど日本にまだ来そうな近場の国々が何に関心があるのか研究して日本もそれをやってみるとか、そういうことから可能性を切り開くことはできるような気はします。
個性的創造的な人材の育成はずっと言われてきたようです(208p)。でも改善はあったかもしれませんが、今ひとつ達成できなかったようにも見えます。ひとつ考えられるのはセンター試験の廃止です。マークシートで塗り塗りすることほど知的じゃない試験もないでしょう。別に筆者が比較的苦手だったから言う訳ではありません。わりと誰でも考えつくことのようですが、実行はされていないようです。大学入試センター試験(ウィキペディア)>2013年10月21日に教育再生実行会議は大学入試センター試験を廃止し新たに大学入学希望者学力評価テスト(仮称)の創設を提言した。「基礎レベル」と「発展レベル」の2段階の試験を設け高校在学中に複数回受験可能とすることを求めている。高校在学中の到達度テストを「基礎レベル」とし基礎的な科目から出題し大学の一般入試には直接利用しないが成績は推薦入試やアドミッション・オフィス入試の参考とする。現行の大学入試センター試験に代わる「発展レベル」のテストは結果を1点刻みの点数で示すのではなく一定幅の段階評価とし、生徒は複数回受けることができるようにし大学ごとの2次試験は面接や論文を重視するよう求めていく。
最後にふたつ、この本とは関係ないのですが、以前予告した何故肉体労働しない?というテーマですが(筆者も得意じゃありませんし志向しませんが)、考えてみましたが教育に原因はないような気がします。皆さん部活動とか結構体動かしてきているんですよね(筆者は申し訳ありませんがほとんどやっていません)。ですから、単純に美味しくないと見られているのでしょう。この辺は経済的な問題でしょうね。
日本では戦前と結び付けられて忌避されがちな道徳教育もそれほど嫌う理由はないのかもしれません。諸外国における道徳教育の状況について(文部科学省)ワザワザ修身!とか言って自分でイメージ的に自爆していないで(それが受けるのは内輪だけです)、日本なりに必要な道徳教育がもっと考えられてもいいのかもしれません。勤労が悪徳ではプロテスタントとは勝負にならないでしょう(プロテスタントの労働倫理)(ウィキペディア)。働き方改革に対する筆者の違和感もその辺です。サービス残業は良くないにしても、倫理として働かなくていいを肯定したくはないですね。別に働けなくなった障害者に働けとかそういうことを言っている訳ではありませんが。障害者に補助を否定はしませんが、その空気が嫌だから文句とか言われてもね。誰が働いて金出して補助しているんだという。そのくらいは我慢してくださいって。