ワニなつノート

新・向かい合うもの (その2)


新・向かい合うもの (その2)

《人間は「向かい合うもの」に応じて、
「自分」を意識する仕方が変わる。》


子どもが、生まれてからずっと向かい合うのは、
まずは親であり家族です。

親が自分とどう向かい合うかが、
まずその子どもの「自分」を意識する仕方に影響するのは
あまりに当たり前のことです。

そして、病院、療育センター、保育園、幼稚園、
そこで幼い自分と向かいあった人たちのまなざしに応じて、
子どもの「自分」を意識する仕方は変わります。

生まれた子どもに、病気や障害のあることは、
生まれくる自然のうちです。
でも、子どもが自分を意識する仕方は、
生き物としての「自然」ではなく、
「向かいあうもの」に応じて変わりうるものです。

「わたしはしょうがいじ」と、
一人で自分を意識する子どもはいません。


子どもを「分ける」ということが、
子どもにどんな「自分」と向かい合わせているのか。
そのことが、全く語られないまま、
どうして、こんなにも「特別支援」が進んでいくのだろう?


          


「通級は、子どもの生活全部を分けるわけじゃない。
一日に1時間とか、ほんの《部分》でしかない。
そこで、その子にあった教育が受けられるんだから、
何が問題なのか。

集団のなかで放っておかれる方がかわいそうじゃないか。

虫歯になれば、ふつうの子どもが歯医者にいくのと同じで、
治療や支援が必要な子どもに、
必要なものを提供することは良いことでしょ」

「誰でも病気やケガで入院することだってある。
それを分けるというのはおかしい。
普通の子どもだって手術や治療のために、
「入院」という形で分けられることもある。

それは分けるのが目的じゃないし、
隔離とか差別というのとは違う。
個別指導が必要な子どもに、
必要なものを提供することがなぜいけないのか」


           


「特別支援教育」を良いものと考える人は、
本気でそんなふうに思っているのだろうか?
そんなふうに「良いこと」をしてあげていると信じている大人と、
向かい合っている子どもたちは、
どんなふうに「自分」を意識するのだろうか。


《人間は「向かい合うもの」に応じて、
「自分」を意識する仕方が変わる。》

だとしたら、「特別支援教育」と向かい合う子どもと、
そうでない子どもは、
「自分」を意識する仕方がまったく違うと、
私は思っているのだけれど、
私は何を言いたいのだろう…。
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