ワニなつノート

通級と「わたしのものがたり」 (A)


通級と「わたしのものがたり」 (A)



21日に、今年最初の就学相談会がありました。
2歳から6歳までの子どもたちにまた出会うことができました。
今回は珍しく、気管切開をしている子どもも二人いました。
「気管切開」をしているというだけで、
すでに「特別支援学校」へと勧められているようです。
アンケートには、「いろんな所や人に相談しても、
答はいつも、支援学校か支援学級へ…というものでした」
とありました。
でも、二人のご両親は、普通学級に行かせたいと
強く願っているようなので楽しみです。

私たちは、いつ誰がきても、
答えは「普通学級へ!」しかありませんから。


さて、今回の相談会が終わって、
頭に残っているのが「通級」と「猶予」のことです。

いつもは、「普通学級か特別支援学級か…」で
迷っている人へ向けて、話すことにエネルギーを使っているので、
「猶予」については一言二言で流してきました。

でも、今回は、「迷っている」と言いつつも、
できることなら「子どもは一緒がいい」ということを
迷っている人はいない感じでした。
むしろ、そのことは「当たり前」で、
その上で「猶予」も「通級」も、という発想を、
強く感じました。

いま、こうして書きながら、
その違和感が分かってきました。

「通級」「猶予」も「みんなと一緒」の内にあるもの、
という感覚に、私が違和感を感じているようです。

これも、特別支援教育による、「効果」の一つでしょうか。
そうだとすれば、「分ける」ことへの、
抵抗感を薄める文科省の作戦は、
私が考えてきたよりずっと巧妙だということになります。

それを考えるために、
しばらく、思いつくままにメモを重ねてみます。

★     ★     ★

「通級」を、多くの人は、「利用する」と考えます。
「個別指導」を、「恵まれた教育環境」と考えます。
それは、「集団指導」では
「手が回らず、放っておかれること」を、
「最悪の教育環境」と考えているからでしょう。

でも、本当にそうでしょうか。
そこにある、「共通理解」・「基準」は、
その人の、どんな「経験」からのものでしょう。

確かなことは、それが
「障害児としての自分の経験でない」ということです。

多くの人は、「障害児としての学校体験」をしたことがないのに、
どうして同じような「理解」「解釈」をするのでしょう。

「通級」を求められる子どもの苦労を経験したこともなく、
「分けられた」経験もないのに、
どうして、それが「この子のためによいこと」だと、
信じることができるのでしょう?

私は、「通級」ついて考えようとすると、
いつもいくつかの声が聞こえてきます。

「いっしょがいいならなぜわけた」

「お兄ちゃんの時はだまされたから」

(つづく)
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