2014年11月23日(日)
ホテルを出発
伝馬町通りから御幸通りへ
静岡市庁舎
静岡県庁舎
浅間通りへ
着きました。
静岡浅間神社 (しずおかせんげんじんじゃ)
(静岡県静岡市葵区宮ケ崎町102-1)
静岡の地名発祥の地、賤機山(しずはたやま)の南麓に鎮座しています。
六世紀ごろの円墳があります。
神部神社・浅間神社(二社同殿)及び大歳御祖神社の三社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさま)と呼ばれています。
ご由緒
神部神社は第十代崇神天皇の御代、約2100年前に駿河開拓の祖神・駿河の国魂の大神として鎮座され、この地方最古の神社です。
浅間神社は延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮より分祀されました。
大歳御祖神社は応神天皇4年(273)この地方の物流の拠点、商業の中心地であった「安倍の市」の守護神として創祀され、静岡市の地主神です。
朝廷や鎌倉将軍家・今川・武田・織田・豊臣・徳川氏に尊崇厚く、宝物の寄進、社領の安堵など篤く崇敬されました。
中でも徳川家康は幼少の頃今川氏の人質として当社の北方約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬しました。
(弘治元年)1555年、家康14歳の時、当社で元服式を行いました。 そして天正10(1582)年、三川・遠江の大名となっていた家康は、賤機山に築かれていた
武田氏の城塞を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と
同程度の社殿を建造しました。さらに家康が大御所として駿府在城時の慶長12(1607)年には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽を奉納しました。
以来、徳川家康崇敬の神社として歴代将軍の祈願所となり、神職社僧の装束類も幕府から下行されるようになるなど徳川将軍家から手厚く庇護されるようになりました。
寛永11年(1635)家光公上洛の折、社殿の修造を命じ、日光東照宮や浅草寺などを手がけ幕府御用であった大工木原木工允藤原義久を幕府方の棟梁とし
華村長左衛門を地元大工方棟梁として造営が行われました。その後安永と天明の両度、町方の出火により社殿にも延焼しましたが、文化元年(1804)から60年余の歳月と
当時の金額で10万両の巨費を投じて再建されたのが現在の社殿群です。
この造営は徳川幕府直営工事として行われ、寛永年中の造営に携わった華村(花村)家をはじめ大工や塗師方の子孫、また全国より優れた職人が集められた。特に彫刻には
信州諏訪の立川和四郎親子三代や弟子一門が携わり、その功により立川和四郎は幕府より内匠の号を賜っています。
寛永より当社の造営に尽力した職人は、木工・模型・漆器などの工芸品を手がけるようになり、駿河指物・駿河漆器など静岡市の特産工業へと発展しました。
また模型はその後プラモデル産業へと発展し、静岡は全国一のプラモデル産地となっています。
神部神社 (かんべじんじゃ) 御祭神 大己貴命 (おおなむちのみこと)
配祀神 瓊々杵命 栲幡千々姫命 東照宮
浅間神社 (あさまじんじゃ) 御祭神 木之花開耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)
配祀神 瓊々杵命 栲幡千々姫命
楼門
大拝殿
本殿
大歳御祖神社 (おおとしみおやじんじゃ)
御祭神 大歳御祖命 (おおとしみおやのみこと) 配祀神 雷神
拝殿
本殿
末社
麓山神社 (はやまじんじゃ)
階段を百段登ると拝殿があります
御祭神 大山祇命 配祀神 日本武尊
例祭日 4月22日
少彦名神社 (すくなひこなじんじゃ)
御祭神 少彦名命 相殿神 神部神社末社14社の神々
例祭日 1月8日
八千戈神社 (やちほこじんじゃ)
御祭神 八千戈命 相殿神 浅間神社末社九社の神々 大歳御祖神社末社三社の神々 麓山神社末社三社の神々
例祭日 10月15日
玉鉾神社 (たまほこじんじゃ)
御祭神 羽倉東麿・岡部真渕・本居宣長・平田篤胤(国学の四大人)
例祭日 3月29日
境内にある七社を巡る 七社参り というものが出来ます。
社務所で用紙を戴きスタンプの御朱印を集めて回るのですが、無料で出来るので御朱印収集家ではなくても楽しめます。
静岡浅間神社をあとにして
再び浅間通りの商店街を通り駅に向かいます。
商店街の店先に銅像
山田長政像
江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人街の頭領としてに東南アジアで活躍した人物で、駿河国の駿府馬場町
(静岡市葵区馬場町)の出身だそうです。
次回 静岡駅から煙を見に行きます。
つづく
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