「菅官諤諤」
震災を巡る対応のマズさから再び菅総理の退陣を求める声が囂(
かまびす)しいが、遂には党内からも「菅おろし」の声が上がって、
こんな時にリーダーの交代を求める政治家や国民もまた明確なビジ
ョンを持って言っているとは思えない。つまり、譬え総理大臣を代
えたとしても、目覚ましいリーダーシップを発揮して懸案を片付け
ることが出来る政治家など恐らく居ないだろう。それ程までにこの
震災の被害は大きくて深刻で、しかも原発事故に至っては今なお進
行中で、終息の目処さえ立っていないではないか。もしも、この政
治家なら避難住民を納得させ原発事故の被害を最小限に収めていち
早く復興させることが出来ると断言できる人物が居るなら言っても
らいたい。そもそも震災後の対応に政権によってそれ程の違いが現
れるものだろうか?ただ、自然災害を政治に絡めて政局に転換させ
ることは許されない。つまり、何もかも菅直人の責任なのだろうか
?断っておくが、私は菅内閣の対応を認めていないし、菅総理を支
持してもいない。どちらかと言えば、彼の決断力の無さは変革の時
代に相応しいとは思っていない。しかし、世界中を見渡しても、時
代の変化を読み解いて、強い指導力で国を導いている先進国のリー
ダーが居るだろか?どこの国のリーダーも上り道を求めて迷走して
いるではないか。もしかして我々は山の頂きに立って、更に上り道
を探しているのではないだろうか。しかし、もっと高い処を望むな
ら、高い山に移る為に一度下山しなければならないのではないだろ
うか。ところが、菅直人は、山登りは得意かもしれないが、下山の
仕方は習っていないのだ。国民を無事に下山させることは、無事に
登頂させることよりもはるかに困難である。頂上で立ち尽くす国民
を説得して山から降りる決断が出来ないのだ。それは国民から展望
を奪うことになるからだ。では、高度成長期を駆け上って来た我々
の中で、それでは一体誰が菅直人に代わって、国民に「失うことを
分かち合おう」と呼び掛けることの出来る政治家が居るだろうか?
そもそも政治とは上を目指すことしか出来ないのだ。それは軍隊が
戦うことしか出来ない様に。つまり、リーダーを代えたからと言っ
て、我々が望んでいる政治は行われないのだ。それはこれまでに総
理大臣を取っ替え引っ替えしてきたのに何一つ変えられなかったこ
とからも明らかではないか。そこまでするなら、もう総理大臣の椅
子を「一日総理」として国民に開放してはどうか。ネットオークシ
ョンにでも掛ければ結構な高値を付けて多少は赤字が減るかもしれ
ない。独裁者が現れると危惧しなくても大丈夫、後ろには総理の箸
の上げ下げまで操る官僚が控えているのだから。ところで、我々は
政治には出来ないことまで政治家に求めていないだろうか?果たし
て、政治に経済成長を果たせることなど出来るのだろうか?政治が
原発事故を終息させることが出来るだろうか?もしかして、変えな
ければならないのはリーダーではなくて、寧ろ我々国民の意識の方
ではないのだろうか。
ただ、菅総理大臣が組閣後の記者会見だったか、この内閣を
「奇兵隊」内閣と命名した時のことを思い出さずには居られない。
彼は、慕って止まない高杉晋作に肖(あやかっ)て確かにそう言っ
たのだ。嗚呼、言葉は何と易く裏切るものであるか。もしも、こん
な口先ばかりの奇兵隊であったならば倒幕など果たせず維新は叶わ
ず、アンシャンレジーム(旧体制)も安泰だったに違いない。卑しく
も、高杉の花粉の一粒でも薫陶を受けた者ならば、くしゃみひとつ
で気付くものだが、流行りの花粉症と思い違いをしているのだろう
か、未だ回天に目覚める気配すらないではないか。そこで一句、
「面白きことも無き世に
情け無き世を付け足すは
政治なりけり 無行」
晋作、日本の夜明けはもう来ないかもしれない。
始めに言おうとしたことを、話が逸れて忘れてしまい、また思い出
したので記します。
菅直人は、総理大臣に就任するまではそうは言っても自分の思い
や考えがあったはずで今の様に国民の支持を失う様な事は想像だも
していなかったに違いない。ただ、今から思えば、彼はこの国をど
うする積もりなのか、明確な国家ビジョンを示したという記憶がな
い。ただ、古い政治を終わらせるにしても新しい政治を語らなけ
れば前に進まない。多くの国民はその新しい政治に期待し、また
菅直人もその期待に応え得ると信じて立ったに違いない。ところが
、いざ執政を任されると思い描いていたことが既存の利害と衝突し
て思い通りに事が運ばないことも多いに違いない。そのいい例が、
鳩山元総理が大きな理想を描いて、沖縄県民の悲願だった普天間米
軍基地の県外移設を推し進めようとしたが叶わなかった。つまり、
こうしよう思っても総理を取り巻く官僚や既得権を持った者によっ
て丸め込まれ、国民との繋がりが断たれしまうのだ。つまり、いく
らトップを変えてみても、トップを取り巻く既得権を失いたくない
組織が温存されている限り、白いものも朱に染まってしまうのだ。
我々は改革を阻害する官僚組織こそを変えるべきではないだろうか
。いくらトップを変えても組織そのものが変わらなければ何も変わ
らないのではないだろうか。総理になるまでは改革を叫びながら、
官邸に入った途端に変貌した総理を何人見てきたことか。
(おわり)
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震災を巡る対応のマズさから再び菅総理の退陣を求める声が囂(
かまびす)しいが、遂には党内からも「菅おろし」の声が上がって、
こんな時にリーダーの交代を求める政治家や国民もまた明確なビジ
ョンを持って言っているとは思えない。つまり、譬え総理大臣を代
えたとしても、目覚ましいリーダーシップを発揮して懸案を片付け
ることが出来る政治家など恐らく居ないだろう。それ程までにこの
震災の被害は大きくて深刻で、しかも原発事故に至っては今なお進
行中で、終息の目処さえ立っていないではないか。もしも、この政
治家なら避難住民を納得させ原発事故の被害を最小限に収めていち
早く復興させることが出来ると断言できる人物が居るなら言っても
らいたい。そもそも震災後の対応に政権によってそれ程の違いが現
れるものだろうか?ただ、自然災害を政治に絡めて政局に転換させ
ることは許されない。つまり、何もかも菅直人の責任なのだろうか
?断っておくが、私は菅内閣の対応を認めていないし、菅総理を支
持してもいない。どちらかと言えば、彼の決断力の無さは変革の時
代に相応しいとは思っていない。しかし、世界中を見渡しても、時
代の変化を読み解いて、強い指導力で国を導いている先進国のリー
ダーが居るだろか?どこの国のリーダーも上り道を求めて迷走して
いるではないか。もしかして我々は山の頂きに立って、更に上り道
を探しているのではないだろうか。しかし、もっと高い処を望むな
ら、高い山に移る為に一度下山しなければならないのではないだろ
うか。ところが、菅直人は、山登りは得意かもしれないが、下山の
仕方は習っていないのだ。国民を無事に下山させることは、無事に
登頂させることよりもはるかに困難である。頂上で立ち尽くす国民
を説得して山から降りる決断が出来ないのだ。それは国民から展望
を奪うことになるからだ。では、高度成長期を駆け上って来た我々
の中で、それでは一体誰が菅直人に代わって、国民に「失うことを
分かち合おう」と呼び掛けることの出来る政治家が居るだろうか?
そもそも政治とは上を目指すことしか出来ないのだ。それは軍隊が
戦うことしか出来ない様に。つまり、リーダーを代えたからと言っ
て、我々が望んでいる政治は行われないのだ。それはこれまでに総
理大臣を取っ替え引っ替えしてきたのに何一つ変えられなかったこ
とからも明らかではないか。そこまでするなら、もう総理大臣の椅
子を「一日総理」として国民に開放してはどうか。ネットオークシ
ョンにでも掛ければ結構な高値を付けて多少は赤字が減るかもしれ
ない。独裁者が現れると危惧しなくても大丈夫、後ろには総理の箸
の上げ下げまで操る官僚が控えているのだから。ところで、我々は
政治には出来ないことまで政治家に求めていないだろうか?果たし
て、政治に経済成長を果たせることなど出来るのだろうか?政治が
原発事故を終息させることが出来るだろうか?もしかして、変えな
ければならないのはリーダーではなくて、寧ろ我々国民の意識の方
ではないのだろうか。
ただ、菅総理大臣が組閣後の記者会見だったか、この内閣を
「奇兵隊」内閣と命名した時のことを思い出さずには居られない。
彼は、慕って止まない高杉晋作に肖(あやかっ)て確かにそう言っ
たのだ。嗚呼、言葉は何と易く裏切るものであるか。もしも、こん
な口先ばかりの奇兵隊であったならば倒幕など果たせず維新は叶わ
ず、アンシャンレジーム(旧体制)も安泰だったに違いない。卑しく
も、高杉の花粉の一粒でも薫陶を受けた者ならば、くしゃみひとつ
で気付くものだが、流行りの花粉症と思い違いをしているのだろう
か、未だ回天に目覚める気配すらないではないか。そこで一句、
「面白きことも無き世に
情け無き世を付け足すは
政治なりけり 無行」
晋作、日本の夜明けはもう来ないかもしれない。
始めに言おうとしたことを、話が逸れて忘れてしまい、また思い出
したので記します。
菅直人は、総理大臣に就任するまではそうは言っても自分の思い
や考えがあったはずで今の様に国民の支持を失う様な事は想像だも
していなかったに違いない。ただ、今から思えば、彼はこの国をど
うする積もりなのか、明確な国家ビジョンを示したという記憶がな
い。ただ、古い政治を終わらせるにしても新しい政治を語らなけ
れば前に進まない。多くの国民はその新しい政治に期待し、また
菅直人もその期待に応え得ると信じて立ったに違いない。ところが
、いざ執政を任されると思い描いていたことが既存の利害と衝突し
て思い通りに事が運ばないことも多いに違いない。そのいい例が、
鳩山元総理が大きな理想を描いて、沖縄県民の悲願だった普天間米
軍基地の県外移設を推し進めようとしたが叶わなかった。つまり、
こうしよう思っても総理を取り巻く官僚や既得権を持った者によっ
て丸め込まれ、国民との繋がりが断たれしまうのだ。つまり、いく
らトップを変えてみても、トップを取り巻く既得権を失いたくない
組織が温存されている限り、白いものも朱に染まってしまうのだ。
我々は改革を阻害する官僚組織こそを変えるべきではないだろうか
。いくらトップを変えても組織そのものが変わらなければ何も変わ
らないのではないだろうか。総理になるまでは改革を叫びながら、
官邸に入った途端に変貌した総理を何人見てきたことか。
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