「尾崎豊、再び」③

2012-01-18 01:38:07 | インポート



               「尾崎豊、再び」③


 ニューズウイーク日本版のコラム欄に投稿された冷泉彰彦氏の

「尾崎豊の再評価が不要な理由」(2012年1月11日)に対して反

論します。

 如何なる時代の状況であっても、本来「正義」は不偏であらねば   

ならない。今、必死で生きている日本の「大人」に対して、日本の

若者に「反抗せよ」というのは正義ではない、と本当に言えるだろ

うか?それでは、文字通り必死で闘っている戦争の最中に、戦争反

対を唱えることは正義に反するだろうか?かつてそういう者は「非

国民」と呼ばれた。更に、原発事故によって放射能汚染を引き起こ

し、電力不足に必死で対応に追われる国や電力会社に対して、原発

反対を訴えることは正義に反するだろうか?正義は常に権力側にあ

って「反抗」する者たちは不逞の徒である、というのは納得いかな

い。実は、どちらが「正義」かなどというのは言えないのだ。日本

社会が世界に進出しようが撤退しようが、おかしいと思ったことを

何時如何なる状況でも口にすることができる社会にこそ正義が存在

するのではないだろうか?

 尾崎豊を代表とする「反抗カルチャー」が校内に吹き荒れた原因

が教育現場の誤りにあったとすれば、私は、朝日新聞の社説が、今

の「大人」社会の誤りを正すために、若者たちにアンガージュマン

(「当事者意識を持て」)を呼び掛けてもそれほど過っているとは思

えない。「時代は、尾崎のころよりずっとずっと生きづらい。」そ

れにも拘らず、今の若者たちが「服従カルチャー」(儒教文化)に浸

るのは、若者たちの「その先の社会へ」進むというモチベーション

に今の教育が応えているからだと言えるだろうかろうか?否、そも

そも今の若者たちは「その先の社会へ」進むというモチベーション

を抱いているのだろうか?果たして「反抗カルチャー」に促されず

に「その先の社会へ」進む独立心が育まれるのだろうか? 私には、

「若者たちの防御的な成熟」に「その先へ」と進んでゆく可能性な

ど微塵も感じられないのです。私は、新しい時代を生きる若者たち

に、反抗(攻撃)も知らずに「成熟した防御の感覚」など備えてほし

くないのです。何故なら、そんな若者に新しい社会を築くモチベーシ

ョンなど生まれるはずがないと信じるからです。