ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)
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さて、形而上学的境涯としての思惟が存在の本質に辿り着くこと
のできない幻想であるならば、理性に従って意味のない生存をさっ
さと終わらせるか、それとも形而上学的境涯を棄てて生成としての
世界へ転身することが迫られる。しかし、形而上学的境涯から生成
の世界への転回は決して生易しいことではない。それは、まさに信
仰に生涯をささげた者が「神の死」を知っても直ぐに信仰を棄てら
れないことと似ている。そこでニーチェは、形而上学的境涯がニヒ
リズムに陥って「没落することがないようにするために芸術をもっ
ている」と言う。つまり形而上学的境涯を「生きる意味がない」と
結論して「さっさと終わらせる」ことができない者は、芸術家的境
涯への転身によってニヒリズムから遁れるしかない。では、形而上
学的境涯よりも《価値がある》という芸術家的境涯とはいったいど
ういう境涯なのか?
ニーチェは生成としての存在の本質は「力への意志」であると言
い、そして「芸術は力への意志のもっとも透明でもっとも熟知の形
態である」と言います。つまり、この世界にとどまる限り、それは
変遷流転する生成の世界であり、その本質は「力への意志」である
とすれば、芸術家の創造的な作業こそが生成の世界、とりわけ「力
への意志」が直載的に反映された行為であると言います。もはやそ
こでは理性による固定化した言葉による認識の「理解」は及ばない
。芸術こそが生成の世界で生きるための価値であるならば、我々は
理性によって世界の本質を確かめることはできない。
そもそも我々が価値を認める近代科学文明社会とは、理性による
科学的認識から生まれた科学技術によって物質文明が発展し、もち
ろん生存のための様々な問題を克服してきたが、しかし、我々にと
って最大の恐怖である「死」から解放されたわけではない。「すべ
ての命はいずれ死ぬ」、そもそもこの受け入れ難い事実を解き明か
そうとして形而上学は始まったが、しかし、科学的認識をもってし
ても存在の本質を解き明かすことはできない。
(つづく)