「生成と科学」
科学は真理の追究によってもたらされたが、しかし真理とは絶対
不変であるとすれば、科学は絶対不変の存在である唯一神への信仰
から派生した、いや、一神教の世界からしか派生し得なかったに違
いない。そして、真理とは絶対不変であるとすれば、この世界はす
べてが遷り変わる非真理、つまり仮象の世界でしかない。この世界
が仮象の世界でしかないとすれば、この世界を超えた絶対不変の真
の世界があるに違いない。こうして真理の追求が一神教(キリスト
教)を生み、そしてやがて科学をも発展させた。つまり、真理、神
、科学、これらは世界を固定的にしか捉えられない理性によって生
み出された。しかし、生成の世界とは変遷流転する仮象の世界であ
り、固定化した理性は真理には的中せず、「真理とは幻想である」
(ニーチェ)とすれば、真理の追究によってもたらされた神の世界は
もちろんのこと、科学でさえも幻想ということにならないだろうか
。では、科学が幻想とはいったいどういうことだろうか。生成の世
界は循環して再生されることによって変遷流転するが、科学技術が
産み出した人工の物質は再生されずに自然循環を妨げる。それはさ
ながら流動的な生成の世界に固定化した真理がそぐわなくなること
に似ている。変遷流転する生成の世界の下で、固定的な科学的認識
は一時的には《真理》に的中しても時間的経過の中で次第に《真理》
から外れていく。たとえば、私が石板に「今は2020年1月8日
6時30分です」と刻印しても、《真理》であり得るのは一瞬だけ
でその後は次第に《真理》から遠のいて行く。つまり、われわれは
変遷流転する生成の世界を認識(理性)によって捉えることができな
い。科学とはわれわれの認識(理性)によってもたらされるとすれば
、生成の世界の下では科学的認識もまた《真理らしきもの》に近付
くことができたとしてもいずれそぐわなくなる。
いまや近代科学文明社会はグローバリゼーションによって外部を
失い閉じた世界となった。これまでは開いていた外部(自然環境)に
大量放棄してきた人工物質のゴミは再生されずに閉じられた世界を
汚染し始めている。生成としての世界が循環再生によって永遠性を
維持していたとすれば、循環再生されない科学物質に依存する近代
社会は永遠に続くことはない。つまり、絶対不変の真理の追究から
生れた科学文明は、絶対不変であるが故に永遠に循環する生成の世
界にそぐわなくなり一時的に繁栄したとしてもやがて消滅する《幻
想》でしかない。未来の人類は、なお生き延びていたとしてのこと
だが、今われわれが享受している科学文明社会を営んでいないこと
は明白である。我々の理性はかつては神の世界、そして今では科学
と、いずれも真理の追求から派生した《幻想》を追い求めてきた。
ハイデガーはそれを「存在忘却」と言った。そもそも形而上学の命
題は「存在とは何であるか」を問う学問だったが、神にしろ科学に
しろそれらは本来の命題から逸脱した《幻想》でしかない。《幻想》
でしかないと言うのは、永遠不変に続けられないということである。
分かり易く言えば、限りのある化石燃料を消費して温室効果ガスを
撒き散らしてそんな文明が永遠に続くわけがない。われわれは世界
をバラバラに解体して自分たちの都合の良いように作り変えたが、
それは永遠に循環する生成の世界から外れた一時的な《幻想》でし
かない。つまり、すでに神が、そして、いずれ科学もその価値を失う。
(おわり)
科学は真理の追究によってもたらされたが、しかし真理とは絶対
不変であるとすれば、科学は絶対不変の存在である唯一神への信仰
から派生した、いや、一神教の世界からしか派生し得なかったに違
いない。そして、真理とは絶対不変であるとすれば、この世界はす
べてが遷り変わる非真理、つまり仮象の世界でしかない。この世界
が仮象の世界でしかないとすれば、この世界を超えた絶対不変の真
の世界があるに違いない。こうして真理の追求が一神教(キリスト
教)を生み、そしてやがて科学をも発展させた。つまり、真理、神
、科学、これらは世界を固定的にしか捉えられない理性によって生
み出された。しかし、生成の世界とは変遷流転する仮象の世界であ
り、固定化した理性は真理には的中せず、「真理とは幻想である」
(ニーチェ)とすれば、真理の追究によってもたらされた神の世界は
もちろんのこと、科学でさえも幻想ということにならないだろうか
。では、科学が幻想とはいったいどういうことだろうか。生成の世
界は循環して再生されることによって変遷流転するが、科学技術が
産み出した人工の物質は再生されずに自然循環を妨げる。それはさ
ながら流動的な生成の世界に固定化した真理がそぐわなくなること
に似ている。変遷流転する生成の世界の下で、固定的な科学的認識
は一時的には《真理》に的中しても時間的経過の中で次第に《真理》
から外れていく。たとえば、私が石板に「今は2020年1月8日
6時30分です」と刻印しても、《真理》であり得るのは一瞬だけ
でその後は次第に《真理》から遠のいて行く。つまり、われわれは
変遷流転する生成の世界を認識(理性)によって捉えることができな
い。科学とはわれわれの認識(理性)によってもたらされるとすれば
、生成の世界の下では科学的認識もまた《真理らしきもの》に近付
くことができたとしてもいずれそぐわなくなる。
いまや近代科学文明社会はグローバリゼーションによって外部を
失い閉じた世界となった。これまでは開いていた外部(自然環境)に
大量放棄してきた人工物質のゴミは再生されずに閉じられた世界を
汚染し始めている。生成としての世界が循環再生によって永遠性を
維持していたとすれば、循環再生されない科学物質に依存する近代
社会は永遠に続くことはない。つまり、絶対不変の真理の追究から
生れた科学文明は、絶対不変であるが故に永遠に循環する生成の世
界にそぐわなくなり一時的に繁栄したとしてもやがて消滅する《幻
想》でしかない。未来の人類は、なお生き延びていたとしてのこと
だが、今われわれが享受している科学文明社会を営んでいないこと
は明白である。我々の理性はかつては神の世界、そして今では科学
と、いずれも真理の追求から派生した《幻想》を追い求めてきた。
ハイデガーはそれを「存在忘却」と言った。そもそも形而上学の命
題は「存在とは何であるか」を問う学問だったが、神にしろ科学に
しろそれらは本来の命題から逸脱した《幻想》でしかない。《幻想》
でしかないと言うのは、永遠不変に続けられないということである。
分かり易く言えば、限りのある化石燃料を消費して温室効果ガスを
撒き散らしてそんな文明が永遠に続くわけがない。われわれは世界
をバラバラに解体して自分たちの都合の良いように作り変えたが、
それは永遠に循環する生成の世界から外れた一時的な《幻想》でし
かない。つまり、すでに神が、そして、いずれ科学もその価値を失う。
(おわり)