「技術と芸術」
(2)
いまや時代は科学技術全盛で近代化とは科学技術化と同義語であり
、さらにAI(人工知能)化時代の到来で芸術でさえもAIが使われよ
うとしているが、それを「科学芸術」と呼べなくはないが、果たして
我々は人工知能による作品に精神性を感受することができるのだろう
か?そもそも人格のない集積回路に「精神」が生れるのだろうか?科
学技術は専ら生産性を重んじる経済活動の下で実用的な製品を効率的
に製作するが、芸術には生産性も実用性も皆無である。それでもニー
チェは、真理、つまり科学的認識よりも芸術の方が価値があると説く
が、それはこの世界は変遷流転する生成であり、生成とは「力への意
志」であり、そして、芸術こそが「力への意志」の最も明解に形態化
した創造行為であると言うのだ。そして、「芸術を形而上学的に把握
する場合にのみ意味と正当性をもつのである」[ハイデガー著「ニーチ
ェ」] ここで敢えて「形而上学的」を「精神」と置き換えれば、「精
神」無き芸術は無意味であり正当性をもたないことになり、それは商
業芸術にほかならない。今や商業芸術は、音楽にしろ絵画にしろ文芸
にしても、経済的価値ばかりが求められて、確かにその技巧は優れて
いるかもしれないが、ただ、我々の「精神」には何も届かない。
(つづく)