「新しい価値定立」
オランダの哲学者スピノザ(1632年~ 1677年)はこう言いました。
「未知の事物の認識と確実性に到達するには、認識と確実性において
その未知の事物に先立つほかの事物の認識と確実性によるほかない」
[スピノザ『デカルトの哲学原理』「幾何学的方法で証明された哲学
原理」第一部(公理)より]
つまり、我々が「世界とは何であるか?」と問う時、我々は生まれ
て来る前に《この世界に先立つほかの認識と確実性》を何一つ持ち合
わせていないので、この世界の《認識と確実性》に到達することはで
きない。《認識と確実性》を《真理》と呼べば、我々の《理性》はこ
の世界の《真理》を掌握することができない。そして《真理》を見失
った者はニヒリズムに陥る。ニヒリズムから脱け出すにはニヒリズム
に陥れた《理性》はまったく役に立たない。ニヒリズムから脱け出す
には《非合理性》である《芸術》こそが《価値》がある、とニーチェ
は説く。もしも、それが《論理的》であるとすれば、三島由紀夫が伝
統文化としての《価値》を認めた《天皇》の存在も、《非論理的》で
はあるが、「真理よりも多くの価値がある」のかもしれない。
《芸術》が《感性》によって規定されるとすれば、ここでは《感性》
による《芸術的価値》について考えてみたい。ニーチェ=ハイデガー
によれば、《理性》による形而上学的思惟では存在の本質を捉えるこ
とができずにニヒリズムに陥ると言うのだから、我々に残された価値
は《感性》によるしかないではないか。
ハイデガーによると、「《価値》という言葉は、強調された言葉と
しては、ひとつにはニーチェによって流布するようになった。それで
今では、或る国民の《文化的価値》、或る民族の《生の価値》、《道
徳的価値》、《美的価値》、《宗教的価値》などが話題になっている
。」(ハイデガー「ニーチェ」Ⅰ) つまり、「価値」という言葉はニー
チェによって一般的に使われるようになったと言うのだ。さて、その
ニーチェは、生成としての世界とは「力への意志」であり、「力への
意志」とは《新たな価値定立の原理》であると言う。つまり、生成と
しての「力への意志」は常に《新しい価値定立》を模索しているのだ。
そして、いま我々が探し求めているのは、《理性的価値》を追い求め
て陥ってしまったニヒリズムから我々を救い出してくれる《芸術的価
値の定立》を考えようと思う。
まず、三島由紀夫がその社会的価値を主張する天皇を中心とした日
本の伝統文化は、開闢以来途切れることなく続く日本の歴史的価値で
あることに違いないが、だからと言って天皇国体論が近代社会を繁栄
へと導いた科学文明に取って代わるほどの価値があるかといえば言わ
ずもがなである。そもそも天皇中心の伝統文化とは《みやび》に価値
を置く宮廷(上流)文化であり、文化的価値は常に低きに流れるとすれ
ば、民主主義社会の下で今さら《みやび》文化が甦ることは決してな
い。そして何よりも、現人神としての天皇は、先の戦争でその神とし
ての能力の限界が露わになったことで神格を失った。つまり、天皇を
中心にした伝統文化も政事も近代社会の下ではその価値を失ったのは
明白である。但し、ものごとの浮き沈みは世の習いである。三島由紀
夫は百年後の未来を見据えてこう言う、「日本的非合理の温存のみが、
百年後世界文化に貢献するであらう」と。果たして・・・。
(つづく)