ハイデガー「存在と時間」上・下
(12)のつづき
ただ、私は木田元氏の感想ではなく、ハイデガー本人の言葉として、
「世界を〈存在=生成=自然〉の存在概念によって、〈存在=現前性
=被制作性〉による人間中心主義的文化をくつがえそうと企てた」と
いうような言質を得たかったので、さらに、ハイデガーの本「技術と
は何だろうか」(講談社学術文庫)を取り寄せて読むことにした。彼の書
籍は主に講演を書き残したものがほとんどで、それでも全集は実に10
0巻を超えるほどの浩瀚なもので、とても全てを読むわけにはいかない
が、おそらく〈企て〉に近いことが書かれていると思われる後期の本を
選んだ。近代文明の限界を訴える私にとっては、ハイデガーが「人間を
本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、おそ
らくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生きて
生成するものと見るような自然観を復権することによって、明らかにゆ
きづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそ
うと企てていた」(木田元「ハイデガーの思想」)ことを、どうしても自
分の目で確かめたかった。何故かと言えば、これも木田元氏の本からだ
が、「では、この形而上学の時代、存在忘却の時代に、われわれはなに
をなしうるのか。失われた存在を追想しつつ待つことだけ、と後期のハ
イデガーは考えていたようである。」(同書) それでは、ハイデガーはい
ったい何を待つことだけだと考えていたのだろうか? たぶんそれは人間
中心主義的文化の限界に違いない。だとすれば、それは環境問題が限界
に達した今この時を措いてほかにない、と思うからです。
(つづく)