「あほリズム」(744)

2020-09-15 07:51:39 | アフォリズム(箴言)ではありません

          「あほリズム」

 

            (744)

 

 最近の株式市場の相場を見ていると、会社の業績に下から支えら

れているというよりも、コロナ禍による実体経済の悪化さえも関係

なしに、投資家たちの「欲望」の横の繋がりだけでまるで積乱雲の

ように高止まりしている。だから、たぶん会社が倒産しても株式だ

けは売買されるに違いない。コロナ禍の最中でも株価が上昇するっ

ていったいどういうわけだ。

 ただ、かつて、スペイン風邪(1918年~1920年)のパンデミ

ックのあとに世界大恐慌(1929年)が起こったことを忘れてはなら

ない、そして時代のサイクルが加速していることも決して忘れてはな

らない。

 上昇した積乱雲はわずかな温度変化で豪雨となって落ちて来る。


ハイデガー「存在と時間」上・下(12)のつづき

2020-09-15 03:29:08 | 「ハイデガーへの回帰」

           ハイデガー「存在と時間」上・下

 

             (12)のつづき

 

 ただ、私は木田元氏の感想ではなく、ハイデガー本人の言葉として、

「世界を〈存在=生成=自然〉の存在概念によって、〈存在=現前性

=被制作性〉による人間中心主義的文化をくつがえそうと企てた」と

いうような言質を得たかったので、さらに、ハイデガーの本「技術と

は何だろうか」(講談社学術文庫)を取り寄せて読むことにした。彼の書

籍は主に講演を書き残したものがほとんどで、それでも全集は実に10

0巻を超えるほどの浩瀚なもので、とても全てを読むわけにはいかない

が、おそらく〈企て〉に近いことが書かれていると思われる後期の本を

選んだ。近代文明の限界を訴える私にとっては、ハイデガーが「人間を

本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、おそ

らくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生きて

生成するものと見るような自然観を復権することによって、明らかにゆ

きづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそ

うと企てていた」(木田元「ハイデガーの思想」)ことを、どうしても自

分の目で確かめたかった。何故かと言えば、これも木田元氏の本からだ

が、「では、この形而上学の時代、存在忘却の時代に、われわれはなに

をなしうるのか。失われた存在を追想しつつ待つことだけ、と後期のハ

イデガーは考えていたようである。」(同書) それでは、ハイデガーはい

ったい何を待つことだけだと考えていたのだろうか? たぶんそれは人間

中心主義的文化の限界に違いない。だとすれば、それは環境問題が限界

に達した今この時を措いてほかにない、と思うからです。

                           (つづく)