「あほリズム」
(789)
今年の大晦日は「大すごもり」ですね。
「二元論」
(2)
そもそも西洋形而上学は「存在とは何か?」と問うことから始ま
り、そこで古代ギリシャの哲学者プラトンは、変遷流転する仮象と
しての存在を《事実存在》として、そして永遠不変である真の存在
こそが《本質存在》であると捉え、それに沿って世界を、遷り変る
仮象の存在でしかない実存の世界と、永遠不変の真の世界としての
「イデアの世界」に二分化し(プラト二ズム)、その後、キリスト教
世界観の下で「イデアの世界」は「神の世界」へと引き継がれ、《
本質存在》の《事実存在》への優位は揺るぐことがなかった。
ところが、哲学者ニーチェは「私の哲学は逆転したプラト二ズム
である」と言明し、プラトンの「イデア論」から引き継がれた「神
の世界」を「神は死んだ」と諷刺して、存在概念を《事実存在》と
《本質存在》に分ける「二世界論」を逆転させた。しかし、逆転さ
せたからと言って二元論が消滅した訳ではない。そもそも二元論を
もたらすのは我々の存在根拠によるからである。つまり、我々は精
神なのかそれとも物質なのか、或は、本能なのかそれとも理性なの
かの二元性が二元論を生むのである。
形而上学的境涯、つまり「存在とは何か?」を問うことに生涯
をかけたニーチェにとって最終結論である実存主義思想はもの足
りなかった。「神は死んだ」「この世界が全てだ」では何よりも
精神の居場所がなくて忽ちニヒリズムに陥る。事実存在がすべて
であれば世界は意味を失う。しかしモノが消えても想いは残る。
そこでニーチェは新たな精神をニヒリズムにこそ求めた。超人思
想とは精神主義者ニーチェの実存主義からの転回にほかならない
。永劫回帰説とは「この世限り」の実存思想の全否定である。つ
まり、ニーチェもまた事実存在としての実存と本質存在としての
精神の二元論に逡巡した。形而上学的境涯とは最終結論が出たと
しても形而上学的思惟から離れることができない。
(つづく)