「二元論」(2)

2020-12-28 00:22:56 | 「二元論」

          「二元論」


           (2)


 そもそも西洋形而上学は「存在とは何か?」と問うことから始ま

り、そこで古代ギリシャの哲学者プラトンは、変遷流転する仮象と

しての存在を《事実存在》として、そして永遠不変である真の存在

こそが《本質存在》であると捉え、それに沿って世界を、遷り変る

仮象の存在でしかない実存の世界と、永遠不変の真の世界としての

「イデアの世界」に二分化し(プラト二ズム)、その後、キリスト教

世界観の下で「イデアの世界」は「神の世界」へと引き継がれ、《

本質存在》の《事実存在》への優位は揺るぐことがなかった。

 ところが、哲学者ニーチェは「私の哲学は逆転したプラト二ズム

である」と言明し、プラトンの「イデア論」から引き継がれた「神

の世界」を「神は死んだ」と諷刺して、存在概念を《事実存在》と

《本質存在》に分ける「二世界論」を逆転させた。しかし、逆転さ

せたからと言って二元論が消滅した訳ではない。そもそも二元論を

もたらすのは我々の存在根拠によるからである。つまり、我々は精

神なのかそれとも物質なのか、或は、本能なのかそれとも理性なの

かの二元性が二元論を生むのである。

 形而上学的境涯、つまり「存在とは何か?」を問うことに生涯

をかけたニーチェにとって最終結論である実存主義思想はもの足

りなかった。「神は死んだ」「この世界が全てだ」では何よりも

精神の居場所がなくて忽ちニヒリズムに陥る。事実存在がすべて

であれば世界は意味を失う。しかしモノが消えても想いは残る。

そこでニーチェは新たな精神をニヒリズムにこそ求めた。超人思

想とは精神主義者ニーチェの実存主義からの転回にほかならない

。永劫回帰説とは「この世限り」の実存思想の全否定である。つ

まり、ニーチェもまた事実存在としての実存と本質存在としての

精神の二元論に逡巡した。形而上学的境涯とは最終結論が出たと

しても形而上学的思惟から離れることができない。

                         (つづく)