「あほリズム」
(823)
哲学者ハイデガーは主著である「存在と時間」の執筆途中に思想的
「転回」(ケ―レ)を余儀なくされて、筆を置きました。私はまったくの
素人ながら、彼が「存在の意味は時間である」(木田元)と考えたことに
誤りがあるのではないかと思います。私は「現存在は『おのれを時間化
する』」(木田元)までは何とか理解できますが、しかし「存在が時間に
還元される」ことにはどうしても納得できません。
そもそもハイデガーは、まず「存在とは何か?」を問う「人間とは何
者か?」を問いました。何故なら答えが人間が了解できることでなけれ
ば意味がないからです。すると「人間とは時間性である」ということを
了解して、そして、その人間が設定した時間性(テンポラリテート)の場
に「存在」を企投して「存在とは時間である」という「存在了解」を得
ました。しかしそれではあまりにも人間本位に傾かざるを得ないのでは
ないかと思いました。そこで、そもそも「時間とは何か?」と考えまし
たが、何一つ時間についての概念が浮かんできません。それはまるでア
ウグスティヌスの言葉「私はそれについて尋ねられない時、時間が何か
を知っている。尋ねられる時、知らない」(アウグスティヌス『告白』
第11巻第14章)に共感を覚える次第です。しかし「時間」を検索し
てたまたま見つけた本「時間は存在しない」( カルロ・ロヴェッリ) を取
り寄せて、こんどは物理学の方から知ろうと思って読んでいます。
ここまで、もうすこし勉強してからまた記事にします。