「意識の連続」
小説家夏目漱石は、明治四十年、東京美術学校文学会の開会式に
依頼されて講演を行ないましたが、朝日新聞の社員であった彼は「
同紙に自説を発表すべしと云う条件で引き受けた」ことから「文芸
の哲学的基礎」と題された講演録が残されていて、その講演の中で
彼はちょっと興味深いことを言っています。
その講演は現象学的な存在論から語り出して、おそらくそれは維
新より堰を切って流れ込んできた西洋哲学の影響だと思うが、彼自
身も講演の中でドイツの哲学者ショウペンハウア―の「生欲の盲動
的意志」という概念を引用していますが、そこで夏目漱石は、世界
や私という存在は私の「意識」が捉えた現象に過ぎないのであって
、「私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではな
くして、ただ意識の連続して行くものに便宜上私と云う名を与えた
のであります。」(同書) つまり、「吾々の生命は意識の連続であ
ります。」そして、われわれはこの「意識の連続」を切断しようと
は思わない、つまり死ぬことを望まない。それは、
「進化論者に云わせるとこの願望も長い間に馴致(じゅんち)発展し
来ったのだと幾分かその発展の順序を示す事ができるかも知れない。
と云うものはそんな傾向をもっておらないようなもの、その傾向に
応じて世の中に処して来なかったものは皆死んでしまったので、今
残っているやつは命の欲しい欲張りばかりになったのだと論ずる事
もできるからであります。御互のように命については極めて執着の
多い、綺麗(きれい)でない、思い切りのわるい連中が、こうしてぴ
んぴんしているような訳かも知れません。これでも多少の説明には
なります。」
かつて始原の人間は生まれて来たことの意味を知っていて、その
ためなら死ぬことなど少しも厭わなかったが、ただ想いを果たすに
はあまりにも寿命が短いことから、そこで長生きすることに執着す
るあまり本来の生きる意味をすっかり忘れ去り、その末裔である我
々は、ただ長く生きるためだけに生きている。