「無題」
(六)―④
「とかくに人の世は住みにくい」などと書けば愚陀仏のパクリにな
ってしまうが、夏目漱石は留学先のロンドンで「自己が主で、他は
賓であるという」自己本位の信念を得た。私の死点からの「死線」
もまた残り少ない蝋身を、預けた社会から自分に戻すことにあった。
それは、幼子が自己を形成した後に社会的自我を求めるのとは真反
対に社会的自我を脱ぎ捨てて個人的自我へ還ることだ、などと考え
ながら足を進めていると、突然、私の前を鮮やかな玉虫色に彩られ
た一羽の雉が路傍の草叢から飛び出してひと鳴きして地道を横切り、
驚いているうちに反対側の草叢へ逃げ込んだ。残念なことに雲雀は
鳴いていなかった。自然の中で生きるものたちは、それぞれがその
姿を違え環境を違え、共に同じ世界の中で生きていても重ならずに
生きているのだ。しかし、我々の文明は彼等からもその世界を奪い、
いよいよその限界に到らんとしている。だが、如何に我々が望んで
も世界中を東京のようにすることはできない。地球内生命は地球と
いう限界を越えて生きることはできないからだ。何れ自然循環性に
依らない我々の文明はその限界から再び自然へと回帰せざるを得な
くなるだろう。自然には様々な生きものがいるように物質には様々
な循環の周期が秘んでいる。近代物質文明の欠陥は経済合理主義の
下でこの循環性を無視したことに尽きる。例えば、放射性廃棄物が
放射能を失うまでの周期というものを、たかだか百年足らずで土に
還る人間が見届けられるはずがない。生命体にとって放射性物質と
いうのはゴミ以外の何ものでもない。近代文明は消費の先のベルト
コンベアーから流れ落ちるゴミが処理できずに堆く積み上げられ、
遂には再生が間に合わなくなり地球環境を悪化させた。我が文明の
世界工場は資源の枯渇によって操業が滞るのではない、何と!ゴミ
が生産の邪魔をするのだ。地球の再生はこの限界からの視線によっ
て自然循環性に則って見直されなければなくなるだろう。その時、
ゴミを再生させる合理性を持ち合わせない経済性は放棄せざるを得
なくなり、替わって本来の合理性、自然合理性、つまり自然循環性
が求められる。ところが、拡散したゴミを回収して再生することは
生産・放棄よりも遥かにコストが掛かることであり、しかも利益を
生まない。やがて、廃棄物放棄の限界が資源利用を制限し、自由資
本主義は終焉を迎えるに違いない。そして、近代文明は開放された
世界から閉じられた世界へと回帰する。これまで世界の限界とは我
々の能力の限界のことだったが、これからは世界そのものが限界な
のだ。私の死点からの死線とは、この地球内生命としての限界から
の視線に他ならない。つまり、世界の終わりから自分を、或いはこ
の文明社会を省みなければならない時がきっと来ると思う。
(つづく)