「あほリズム」
(525)
いまや世界は不安定化している。変化をもたらしたのは
様々な「限界」である。経済成長の限界は資源の枯渇によ
ってではなく、環境への負荷が増大したことによって。ヒ
ューマニズムの限界は人口爆発によって。
生き延びるためには共生ではなく戦わねばならない時代
の始まりだ。
「あほリズム」
(525)
いまや世界は不安定化している。変化をもたらしたのは
様々な「限界」である。経済成長の限界は資源の枯渇によ
ってではなく、環境への負荷が増大したことによって。ヒ
ューマニズムの限界は人口爆発によって。
生き延びるためには共生ではなく戦わねばならない時代
の始まりだ。
「あほリズム」
(524)
最近は政治家ばかりでなく誰もが「ものは言いよう」とばかり
に何でもないことを持って回った言い回しで事実を隠ぺいしたり
、或はことさら都合の良いように解釈したりと、その典型的な例
はわが大本営が「撤退」を「転進」と言い換えたことに尽きるが
、たとえば、いつもの朝を「新しい朝がきた」と言い換えれば、
なるほど「希望の朝だ」と勘違いしてしまうこともあるのだろう
が、ただ、何ひとつ変わらない現実を言葉の言い換えによって新
鮮な感情を与えることは、もちろん生活の中では目くじらを立て
ることではないかもしれないが、それほど好ましいことだとは思
わない。変わらぬ現実に耐え切れなくなって言葉がバブル化する
と事実を見失う。
「あほリズム」
(523)
マスメディアが連呼する「令和初」に一体どれほどの
初々しさがあるというのだろうか?
何か、マスメディアの軽薄化が透けて見える。
ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)
ー⑥ー
さて、形而上学的境涯としての思惟が存在の本質に辿り着くこと
のできない幻想であるならば、理性に従って意味のない生存をさっ
さと終わらせるか、それとも形而上学的境涯を棄てて生成としての
世界へ転身することが迫られる。しかし、形而上学的境涯から生成
の世界への転回は決して生易しいことではない。それは、まさに信
仰に生涯をささげた者が「神の死」を知っても直ぐに信仰を棄てら
れないことと似ている。そこでニーチェは、形而上学的境涯がニヒ
リズムに陥って「没落することがないようにするために芸術をもっ
ている」と言う。つまり形而上学的境涯を「生きる意味がない」と
結論して「さっさと終わらせる」ことができない者は、芸術家的境
涯への転身によってニヒリズムから遁れるしかない。では、形而上
学的境涯よりも《価値がある》という芸術家的境涯とはいったいど
ういう境涯なのか?
ニーチェは生成としての存在の本質は「力への意志」であると言
い、そして「芸術は力への意志のもっとも透明でもっとも熟知の形
態である」と言います。つまり、この世界にとどまる限り、それは
変遷流転する生成の世界であり、その本質は「力への意志」である
とすれば、芸術家の創造的な作業こそが生成の世界、とりわけ「力
への意志」が直載的に反映された行為であると言います。もはやそ
こでは理性による固定化した言葉による認識の「理解」は及ばない
。芸術こそが生成の世界で生きるための価値であるならば、我々は
理性によって世界の本質を確かめることはできない。
そもそも我々が価値を認める近代科学文明社会とは、理性による
科学的認識から生まれた科学技術によって物質文明が発展し、もち
ろん生存のための様々な問題を克服してきたが、しかし、我々にと
って最大の恐怖である「死」から解放されたわけではない。「すべ
ての命はいずれ死ぬ」、そもそもこの受け入れ難い事実を解き明か
そうとして形而上学は始まったが、しかし、科学的認識をもってし
ても存在の本質を解き明かすことはできない。
(つづく)
日本経済新聞より
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47068070X00C19A7FF8000/
「これってもしかしたら経済危機の序章かもしれない」