【 2013年2月13日 】 京都シネマ
今日、2本目の映画はこの映画『東ベルリンから来た女』である。案内のチラシだけを見ると、どこか『灯台守の恋』の構図に似ている。荒れ地を一人の女性が自転車をこいでいくが、背後の『灯台』が『十字架』に代わっている。
背景になっている国や土地柄も政治的状況も全く違い、扱っているテーマも全く別のものなのだが、チラシ以外でもどこか似ている。
不似合いな片田舎の土地に、一人の美しい女性がいて(『灯台守~』では、男がやって来るが、この映画では女性が移って来る)、女性がふたりの男の間を悩みあぐね、彷徨う。
結局、一方の男性と一緒になるのだが、映画ではそれぞれ、その辺をうまく遠回しに表現しているところがにくく、またそれが物語の魅力なのだが。
『東ベルリンから来た女』のテーマは、恋愛ではなく、東ドイツの閉塞的な体制を告発する《政治的課題》、あるいは《人間的自由》に関するものである。
同じ題材を『シュタージ』(国家保安庁=秘密警察のようなもの)の側から描いたものが『善き人のためのソナタ』である。国家とその仕事に忠実な男が、盗聴を続けているうちに、盗聴相手に心を通わせ、疑問をいだく。
この2つの映画を見れば、東独の国民がどのような状況に置かれていたかがよく分かり、ベルリンの壁の崩壊に至る民衆の動向が理解できる。
この映画で、主人公のバラバラの他にもうひとり重要な役割を持った女の子が登場する。《矯正施設》(といっても、実際は強制労働所みたいなものだ)に収容され、そこからの脱出(それは同時に国外に出ることを意味する)を願っている少女ステラだ。
ステラは最後に1つの決断をする。この物語の核心部分である。
変革の時代であっても、人の根本的な感情、価値観というものは簡単に変わるものではない。どのような契機で変わっていくのか、その変化の模様を-その必然性を-いかに自然に描写出来るかが、その『作品の価値』をなす重要なポイントである。
往々にして、それまでの流れにそぐわない《突飛な展開》で意表を突こうとする映画を見るなか、今回のは共感できた。
それとは別に、この映画のラストの場面を観たら、なぜかかなり以前のアメリカ映画『過去を持つ愛情』のラストシーンを思い起こしてしまった。
【富豪の男はその地で得た恋人と、共に豪華客船に乗り込んで夢いっぱいの将来に向かい、今まさに岸壁を離れ船出しようとしたとき、傍らにいるはずの彼女がいない。あわてて辺りを探しても姿がない。
ふと岸壁を観返ると、彼女は、心の迷いをかくすように、こちらを見据えて不動の姿勢で立っていた。
汽笛が鳴り響き、男の声はかき消され、景色は遠ざかっていく・・・。】
『東ベルリンから来た女』-公式サイト