2013年4月21日から1泊のツアーに参加して、『瀬戸内アートをめぐる旅』に出かけてきた。
京都から新幹線で岡山に出て、そこからローカル線に乗り継ぎ、宇野港からチャーターした船で3島を巡る旅である。
参加してみて感じたことは、『アートを巡る旅』と銘打っているが、そこで使われている《アート》という言葉に違和感があり、《何か違っているのでは》ということだった。
まず最初に訪問したのは『直島』である。安藤忠雄が設計したという『地中美術館』を訪ねる。建物の方は『地中』という発想が面白く、それなりに良かった。しかし、実をいえば敷地が『国定公園内』でそうするしかなかったという。
問題は中身である。展示してある絵画といえば『モネ』の5作品のみである。モネは好みではない。とくに『睡蓮』に関する連作は退屈だ。《それ5点だけを納めるのに、あれだけの建物空間が必要なのか!》と思ってしまう。
ここの美術館は、そもそも不親切である。案内板がほとんどなく、パンフレットやハンドブックを見ても、見取り図というか館内の部屋や通路、主な作品の場所を示す『配置図』がないのである。おかげで迷路のような通路をあっちに行ったり、こっちに戻ったりするが場所の感覚がつかめない。
それに何処に行っても長い列が通路の半分をふさいでいて、その先何があるか分からない。係員に聴いても『~の展示室があり、こちらに並んで頂いています。』というだけで、どのくらい待てばいいのか分からない。
列の横をすり抜け、たまたま入ったのが先程の『モネ』の部屋である。ここは靴を脱いで入室する《周到ぶり》である。しかし、モネなど興味がないから、モノの5分で《鑑賞》を終了。事前に調べておかなったのもいけないが、他に絵画の展示物はないのかと館内を探し回ったが、結局これだけだった。
しかたないので、2つある待ち行列の一方の最後尾につく。20分も待たされたろうか。
ようやく入った先が、何か《神殿》のような作り。階段状の部屋の中央に大きな球体は配置されており、周りの壁に金箔を施したアクセントは20数個。それだけ。
次の部屋に入るのにも同様に待たされ、再び靴を脱いで入った部屋は、長方形の青い光を放つスクリーンがあるだけで、振り向くとオレンジの入口の枠。
あと2つの《作品》というのも天井が青く輝く部屋と壁に映しだされた矩形の影。ここもそれだけ。
ここの入場料がなんと、2000円。わかっていたら入場しないのだが、旅行費用込みでは、どうにもならない。
これより値は張るが、鳴門の『大塚国際美術館』の方がどんなに価値あるか。(ちなみに、『大塚国際美術館』の作品は、近づいて手で触れることも可能!なんといっても【陶板画】だし。)
『喫茶ルーム』の先にあるテラスに出て、瀬戸内の風景を見て気分を取りなおした後、次の目的地に向かう。
『本村地区家プロジェクト』と銘打った《アート》群は「廃屋」を利用した《作品》で、集落の中に散在している。
5、6か所あり、共通チケットを購入し、順繰りに回るが、どれも《奇抜さ》だけが目に付き、どう考えても瀬戸内の自然や地元の生活に溶け込んでいない。しかも、ご丁寧に係員が、「写真撮影は禁止です。」と断りを入れてくれる。
何か物足りなさを感じる。
途中で観た、直島町役場の建物の方がずっと目を見張ったが、皮肉だろうか。
『直島』はこれで終わりである。専属のチャーター船で宿泊地の『小豆島』にむかう。
宿は『オリビアンホテル』というところで、夕陽がきれいなそうな。海の見える窓側に席を取って、バイキングと飲み放題のアルコールをたんまり胃袋に収める。
『地中海美術館』からの『高松・屋島の眺め』とは反対側の海の風景が広がる。向かいは、岡山県の『牛窓』だそうだ。
翌22日の午前は、島内観光。『中山千枚田』の周辺と『オリーブ園』へ訪問する。
『千枚田』の方は、規模からしても、映画『ルオマの初恋』で見た雲南省『ハニ族の棚田』には及びもつかないが、すぐわきに『中山農村歌舞伎』の館があって、こちらの方が趣があった。
『瀬戸内国際芸術祭』は前日で終了していて、作品の公開は終了したはずだったが、向かいの谷合いにある《竹のアート》は見ることが出来るという。しかも、無料で。時間があったので行ってみたが、この前後に見た《アート群》の中では、《縛り》もなく、ここが一番だった。
中に入ってみると、外から刺す光と竹の網目のなすハーモニーが美しく、ゆっくり休めて、気持も洗われる。しかも、他の何処とも違って『撮影自由』で、旅の記念を持ち帰れ、あとで何度も思い出し楽しめるのがいい。
『オリーブ園』で昼食の後、三たび船に乗り、『犬島』に渡る。
『犬島』には、精錬所の遺構とその一部を利用した美術館がある。それと『直島』と同様に、『家プロジェクト』の展示があり、それらがセットで観光スポットとなっている。
混雑を避けるため、皆とは逆に『家プロジェクト』の方から廻ったが、『直島』のそれと大差はない。ただ、『コンタクトレンズ』という作品だけは面白いと思った。
この『精錬所美術館』というのも、《怪しい》内容で、入るなり《お化け屋敷》のような暗い迷路のような通路がつづき、最後は訳のわからない廃墟のような空間に導かれ、三島由紀夫のモチーフを使った展示物で終わり。
こんなのなら別に、美術館など無くても、そのまま遺構を見せるだけでいいのでは、と思う。
3島を全部見て回ってから気が付いたのだが、3島にはすべて『ベネッセ』の息が掛っていて、その土俵の上で今回のツアーが組まれていたのだった。
《アートという看板》をつけることにより、なにか特別なモノ-《畑で取れる作物とは違うんだという優越感》を誇示しているような。
《奇抜なモノ》を提示すれば、それが《アート》だと言わんばかりの《趣向》にちょっと違和感をを感じた。
地元との結びつきはどうなのか。
たいした産業のない離れ小島に『芸術』という息吹を与え、島に元気を取り戻し、人を引き寄せ、経済が潤うなら、『ベネッセさん、いいことをしてくれた!』と拍手喝采を与えるのだが、何か違う。
自然はきれいで美しかったが、果たして、作り出す作品が『その土地の風土』や『地元の人の心』と共有できているのか疑問を感じる。やれ『作品に手を触れるな』とか、たいしたモノではないのに『写真撮影は禁止』とかもったいを付けすぎている。
もう1度、これらの島を訪ねてみたいとは思わない。
『ベネッセ』の独りよがりのように思えてならない。
範疇が少し違うが、スペインのバルセロナの街中や『グエル公園』で見学したガウディの建築や造形物は、これとは全く対照的だ。見て、触れて、使ってと生活の中に密着している。《芸術作品だから撮影禁止》などという事はあり得ない。
『芸術』は、美意識を通じて人間に生きる感動を与えるもので、そこには実生活に根差したものがあるはずだ。トリックや奇抜なアイデアでは、1回きりの《驚き》はあっても、そこに『生きる喜びや躍動する感情』は生まれないし、継続した力にはなりえない。
このことを妻に確認してみたら、やはり同意見だった。
京都に帰ったら、『ゴッホ展』に行こう! お目当ての絵は出展されていないが、ずっと芸術を堪能できる。
『瀬戸内の島々とアートめぐりの旅』-直島と小豆島、犬島を訪ねる