8月26日福島地裁は、「自殺した個人には、ストレスに対する抵抗力の弱さがあった」とする東電側の主張を退け、「避難生活と自殺には相当の因果関係がある」とする原告の訴えをほぼ認め、東電に賠償を命じた。
この当然すぎる判決に、東電はどんな“詭弁”を使って対抗したか、それを聞いたら無性に腹が立ち、気分が悪くなってきた。
確かに、渡辺さん以外にも多くの犠牲者がいて、不幸にもなくなってしまった人や、困難に耐え必死で生きている人もいる。
しかし、同じような境遇にある被災者が【死】を選択しないで生活している中、自殺をした渡辺はま子さんには、【個体側の脆弱(ぜいじゃく)性】があったという、無味乾燥で生物学的な個別的な要因に帰してしまうのはどうなのか。
自分らの犯した誤りには目をつぶり、責任逃れの主張をしているようにしか思えない。
『現に生きて生活している"多数”の多くの人間はは正常で正しく、死を選択した“少数”の人たちは例外的で異常であり、誤りを自ら犯したもので、救済には価しない』という論法だ。
そこには人間としての感情も、それまで生きてきた生活実感も経緯も、血も涙もない。単に統計的な数字を弄んでいるだけだ。
もう2ヶ月ほど前になるが、『遺言』というドキュメンタリー映画を見た。
福島で牛を丹精こめて育てていた酪農家が、自分の厩舎の壁に「原発さえなければ!」と走り書きのような【遺言】を残して首を吊って死んだ。4時間近くに及ぶ長い映画だったが、ずっと緊張の糸がとぎれることなくみていたが、ここにも、それまでの生活と、今後どうにもならない現実とが描かれていた。
【椅子取りゲームに敗れた少数者】や【災害にたまたま遭った人】を、【個人の能力が劣っていた】からとか【運が悪かった】、【貧乏くじを引いた】で済ますのは簡単だ。そうした災難に遭わなかった人が、遭った人達より必ずしも優れていたわけでも、予備知識があったわけでもない。【ただ運が悪かった】では済ますことのできない【少数者を生み出している大きな原因】が背後にあるのだ。
この原因究明をせずに、上の数字だけの理屈だけがまかり通ったら、よりよき生活のためのあらゆる努力も、危機に対する方策も、人間の英知も尊厳も、何もかも、その意味を失ってしまう。
さらに、それを抜きに問題点の指摘もせず、責任の所在を曖昧にしていたままでは、少数の不幸な人は救われない。それどころか、放っておけば、【少数の不幸】がいつしか【大多数の不幸】になっていく。
【毎日新聞より転載】
【原発ADR】と呼ばれる原発事故にまつわる争議の和解手続きがあるとことを知った。
原発事故に伴う賠償を巡っては、訴訟で争うより、裁判外で解決する和解手続き(原発ADR)を利用するケースが圧倒的に多いらしい。原発ADRでは、判決まで数年かかる訴訟に比べ、和解成立まで平均約半年間と短く、手数料もいらないが、死亡事案であっても東電側の支払額が1000万円を下回る事例が相次いでいるという。というのは、避難時に病死したケースで慰謝料を算定する際、原発事故の影響の度合いを「ほぼ一律に50%」と計算するし、自殺の場合は、原発事故の影響の度合いをさらに低い「10~30%」と算定していたという。
命を金で買えるわけもないのだが、東電側のあまりにも機械的な対応に怒りを覚える一方、今回の判決は、こうした背景を持った事情の上に出されたことを考えると、持つ意味は大きいと感じた。
映画『遺言』-公式サイト