【 2017年1月8日 】 T-ジョイ京都
昨年見た『顔のないヒトラーたち』は、戦後ドイツが「ナチス」の行ってきた残虐行為に初めて向き合った『アウシュビッツ裁判』に至る道のりを描いたもので、それまでの「ドイツの戦後史」への認識を新たにするものだった。今回の『アイヒマンを追え』は、『顔のないヒトラーたち』にも登場した「バウアー検事総長」に焦点をあて、彼がいかにナチスの残党を向こうに回し、「アイヒマン」を追い詰めて、裁判の場に引きずり出すまでの過程を描いたものである。
【 励ますバウアー 】
『顔のないヒトラーたち』でも描かれていたが、政府機関の中枢部に《ナチスの残党》が残っていたという事実は、ある意味《意外》だった。だが、考えてみればドイツは、日本同様、敗戦国であり、アメリカを筆頭とする連合国の占領下にあって、《アメリカの都合》が最優先される状況には変わりはないはずで、《戦中の遺物》を温存していたことは当然であったのだ。
【 ナチ残党二人 】
日本では、『731部隊』の《実験データ》や原爆の影響データや研究資料や、他の貴重な機密文書、左翼運動や対共産圏動向の貴重な情報を差し出す代わりに、アメリカから《人脈の確保》と《身の安全》を保証され、「A級戦犯」までもが政界に返り咲くことまでやってのけた。
【 机上のハーケンクロイツ 】
【戦後ドイツとの違いはどこにあるのだろうか】と永い間、疑問に思っていたが、当初-それも10年以上の永い間-はあまり変わらなかったのだ。この映画が、その違いが現れる《歴史の転換点》に焦点を当てたもので、これを見て少しわかったような気がした。
【 悩むバウアー 】
暉峻淑子の本を読んでも、いかに《戦後処理に当たって、日本よりドイツの方が、より真摯に対応したか》-《その成果がこんな形で政策に現れている》ことについては一定分かっても、《何が、いつ、誰によってどういう行動でなされて、日本といかに違ったか》までは書かれていなかった。
前作と共に、この映画をみて、日本とドイツの方向の違いを分ける《歴史の転換点》に居合わせた気分になった。
【 イスラエルで 】
アルゼンチンで身柄を拘束された「アイヒマン」は、ドイツ国内に送還されることはなく、イスラエルで裁判にかけられることになった。その様子を描写したのが、同じく昨年見た映画が『アイヒマン・ショー』であった。
【 若い検事 】
戦後、日本とドイツの歩んできた道が、【どのあたりで違って来たか】-大体の見当はついたが、もうひとつ解らないことがある。
「マルクス」や「ローザ・ルクセンブルク」を生んで育てた国が、どうして(共産党をナチスと同等に置いて?)【共産党を非合法にしているのか】-喧嘩両成敗でもあるまいし、よくわからない。
【 バウアー 】
これら、3つの映画と『ソハの地下水道』『サラの鍵』『黄色い星印の子供たち』や、古くは『アンネの日記』や『サンドイッチの年』、その他多くの映画を見た記憶を辿ると、同じく昨年『帰ってきたヒトラー』を見た時に、当初、《こんな映画もありかな》と思ったが、【やはり軽々しく思え、《冗談》や《笑い》では到底すまされるものではない】と、強く感じた。
『アイヒマンを追え!ナチスが最も畏れた男』-公式サイト