【 2020年10月27日 】 京都佛立ミュージアム
知人からいただいたチラシを手に、快晴の下、上京区の元職場近くの「佛立ミュージアム」を訪ねる。2年間もこんな近くに勤務していながら、その施設の存在を知らなかった。
展示会の内容は「チラシ」に書いてあるように(下に解説部分の文字を拡大掲示した)『戦後日本に占領群が調査に訪れた際に従軍カメラマンとして随行してきた若きジョー・オダネルさんが、公式記録とは別に個人的に撮影したフィルムをアメリカに持ち帰り、公開せずに、忌まわしい記憶と共にトランクにしまい込んでいたものを、43年ぶりに開封したモノを、今回初めて日本で展示することになったというものだ。
会場の建物は立派なもので、「佛立ミュージアム」の母体となっているという『本門仏立宗」という名前も初めて聞くし、その本山である「宥清寺」というお寺も元職場のすぐ裏に有ったにもかかわらず、全く気が付かずにいた。お寺の前もミュージアムの前も何度も通っていたはずだが、気に留まることはなかった。その場所でどうしてこの展示会が開催されているのかと思いながら、中に入る。
(会場内は撮影禁止だったため、様子を紹介できないのが残念!)
【 カタログ冊子より抜粋 】
立派なホールに整然と区画され立ち並んだパネルに写真と解説文が添えられいる。30点以上は掲示されていただろうか。ジョー・オダネルは佐世保に上陸した後、神戸や広島・長崎を回って個人カメラ(日本に上陸後、写真屋でそこの主人に請われ、タバコと交換して手に入れたと書いている。)に街の廃墟や原爆で火傷を負った人々の姿を収めている。やはり一番のショットは、上の「死んだ弟を背負い直立不動で立つ少年の姿」だ。
占領軍の公式記録にはもっと膨大な量の写真が取られ、どこかに厳重に保管され、あるものは原爆の威力を確認するため、放射能その他の原爆の後遺症などの研究のため管理されているのだろうが、私たちの目に触れることはできない。
また、土門拳の「ヒロシマ」などでも、原爆被災者の目をそむけたくなるような悲惨な様子をより多く知るることはできる。しかし、この展示会でしか感じられないものが2つあった。1つには勝者と敗者の落差である。そこまでヘリ下った歓待をするかという態度ーそれまでの「鬼畜米英」に対しての180度転換できる姿勢との違和感と、一般人があれだけ食料に窮乏していた時期に「あるところにはあったのだ」という驚き。もう一つは、自分に危害が加えられる恐れのない人間は「人の気持ちを慮れるー人にやさしく接する感情が持てる」ということー裏を返せば、自分がいつ死んでもおかしくない状況下では「人はどんなにでも野蛮に、残虐になれる」ということ、この2つを強く感じた。
「戦争は人を狂わす!」
【トランク】と言えば、以前『メキシカン・スーツケース』というドキュメントがあった。戦場カメラマンのロバート・キャパが撮った未公開フィルムを収めたスーツケースがメキシコで発見されたという内容だった。その中には、相方のゲルダ・タローと共に撮った「スペイン内乱」の貴重なフィルムが収められていて、興奮して見に行ったことを思い出した。
〇 〇 〇
展示の半分近くは、宗門の広報のための展示に充てられていたが、意義ある展示会だった。入場無料で丁寧な説明も受けて感謝の気持ちも含め、カタログ冊子を1000円で購入した。100ページを超えるボリュームでDVDの画像データもついている。施設の運営母体のことを尋ねると、ちかくに本山「宥清寺」がある「本門佛立宗」が中心だという。近くだから行ってみることにする。隣が「子供文化会館」で、ここは施設の催し物で何度も利用させてもらったが、そういえばそこの窓越しに立派な本堂の屋根があるの見させてもらった記憶がある。
この半年余り、コロナ禍の影響で街中を妻と散策するなどということはほとんどなかった。せっかく、外に出てきたのだから近所をぶらついてみようと、今出川通を横切って「上七軒」界隈を散策する。「上七軒」はかつて仕事で路地裏まで回った地域だ。迷路のような細い路地を縫い異様に歩く。そういえば、ばったり出会った舞子(芸子?)の写真も足らせてもらった。
【 上七軒の裏通り 】
「上七軒」まで来たら、近くに《イケメンの仏像群》でかつて魅了された『千本釈迦堂」がある。引き寄せられるようにそちらに足が運ぶ。
拝観しようと思ったが、時はすでに午後4時半を回っていた。閉門が5時というから30分もない。あきらめて次回に回すことにする。
上七軒からバスに乗り、途中ジムで汗を流した後、外食の夕食を取り、家に戻る。
【 この展示会は、上記のチラシの書いてある通り、11月25日まで開催されているので、近くの人はぜひ見にいって下さい 】
『メキシカン・スーツケース』-のマイブログ
『舞子はレディ』-上七軒の街並みと本物の舞子がみられるマイブログ
知人からいただいたチラシを手に、快晴の下、上京区の元職場近くの「佛立ミュージアム」を訪ねる。2年間もこんな近くに勤務していながら、その施設の存在を知らなかった。
展示会の内容は「チラシ」に書いてあるように(下に解説部分の文字を拡大掲示した)『戦後日本に占領群が調査に訪れた際に従軍カメラマンとして随行してきた若きジョー・オダネルさんが、公式記録とは別に個人的に撮影したフィルムをアメリカに持ち帰り、公開せずに、忌まわしい記憶と共にトランクにしまい込んでいたものを、43年ぶりに開封したモノを、今回初めて日本で展示することになったというものだ。
会場の建物は立派なもので、「佛立ミュージアム」の母体となっているという『本門仏立宗」という名前も初めて聞くし、その本山である「宥清寺」というお寺も元職場のすぐ裏に有ったにもかかわらず、全く気が付かずにいた。お寺の前もミュージアムの前も何度も通っていたはずだが、気に留まることはなかった。その場所でどうしてこの展示会が開催されているのかと思いながら、中に入る。
(会場内は撮影禁止だったため、様子を紹介できないのが残念!)
【 カタログ冊子より抜粋 】
立派なホールに整然と区画され立ち並んだパネルに写真と解説文が添えられいる。30点以上は掲示されていただろうか。ジョー・オダネルは佐世保に上陸した後、神戸や広島・長崎を回って個人カメラ(日本に上陸後、写真屋でそこの主人に請われ、タバコと交換して手に入れたと書いている。)に街の廃墟や原爆で火傷を負った人々の姿を収めている。やはり一番のショットは、上の「死んだ弟を背負い直立不動で立つ少年の姿」だ。
占領軍の公式記録にはもっと膨大な量の写真が取られ、どこかに厳重に保管され、あるものは原爆の威力を確認するため、放射能その他の原爆の後遺症などの研究のため管理されているのだろうが、私たちの目に触れることはできない。
また、土門拳の「ヒロシマ」などでも、原爆被災者の目をそむけたくなるような悲惨な様子をより多く知るることはできる。しかし、この展示会でしか感じられないものが2つあった。1つには勝者と敗者の落差である。そこまでヘリ下った歓待をするかという態度ーそれまでの「鬼畜米英」に対しての180度転換できる姿勢との違和感と、一般人があれだけ食料に窮乏していた時期に「あるところにはあったのだ」という驚き。もう一つは、自分に危害が加えられる恐れのない人間は「人の気持ちを慮れるー人にやさしく接する感情が持てる」ということー裏を返せば、自分がいつ死んでもおかしくない状況下では「人はどんなにでも野蛮に、残虐になれる」ということ、この2つを強く感じた。
「戦争は人を狂わす!」
【トランク】と言えば、以前『メキシカン・スーツケース』というドキュメントがあった。戦場カメラマンのロバート・キャパが撮った未公開フィルムを収めたスーツケースがメキシコで発見されたという内容だった。その中には、相方のゲルダ・タローと共に撮った「スペイン内乱」の貴重なフィルムが収められていて、興奮して見に行ったことを思い出した。
〇 〇 〇
展示の半分近くは、宗門の広報のための展示に充てられていたが、意義ある展示会だった。入場無料で丁寧な説明も受けて感謝の気持ちも含め、カタログ冊子を1000円で購入した。100ページを超えるボリュームでDVDの画像データもついている。施設の運営母体のことを尋ねると、ちかくに本山「宥清寺」がある「本門佛立宗」が中心だという。近くだから行ってみることにする。隣が「子供文化会館」で、ここは施設の催し物で何度も利用させてもらったが、そういえばそこの窓越しに立派な本堂の屋根があるの見させてもらった記憶がある。
この半年余り、コロナ禍の影響で街中を妻と散策するなどということはほとんどなかった。せっかく、外に出てきたのだから近所をぶらついてみようと、今出川通を横切って「上七軒」界隈を散策する。「上七軒」はかつて仕事で路地裏まで回った地域だ。迷路のような細い路地を縫い異様に歩く。そういえば、ばったり出会った舞子(芸子?)の写真も足らせてもらった。
【 上七軒の裏通り 】
「上七軒」まで来たら、近くに《イケメンの仏像群》でかつて魅了された『千本釈迦堂」がある。引き寄せられるようにそちらに足が運ぶ。
拝観しようと思ったが、時はすでに午後4時半を回っていた。閉門が5時というから30分もない。あきらめて次回に回すことにする。
上七軒からバスに乗り、途中ジムで汗を流した後、外食の夕食を取り、家に戻る。
【 この展示会は、上記のチラシの書いてある通り、11月25日まで開催されているので、近くの人はぜひ見にいって下さい 】
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