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【 2019年9月9日 記 】
映画は9月4日に見て、事故は9月5日に横浜で起こった。
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映画は、ブラックジョークのようなセリフも交えて、鉄道運転士の悲哀をユーモラスに描いた娯楽映画だ。モチーフは、主人公の鉄道運転士イリアがその過去のキャリアの中で、30人以上の人を轢殺してしまったという不名誉な記録を持っているという事実と、それらは全て運転士に過失を問われない踏切事故であったということである。
それまでの一般常識でいえば、踏切内での人や車と列車の衝突は列車の方に無条件の優先権があるから運転士が罪に問われることはない。イリアはそうと知りつつ良心の呵責に苦しんでいて、1つの決意をしていた。
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京浜急行の事故の第一報を見てまずは驚いたが、最初に読んだ記事の端に、「業務上過失致死の疑いで運転手から事情聴取」との文字を拾って、どういうことか一瞬目を疑った。《遮断機の下りている踏切に進入したトラックに電車が衝突して、運転手にその罪をとわれたら、あまりにも運転士に酷な話だ》、と。《運転士はいったい何をすればよかったのか》と思ったのが最初の印象だった。
ところが日がたって事故の様子が明らかになるにつれて、周りの状況も報道されていった。大型トラックが狭い路地に入り込んで右往左往した挙句踏切に進入したこと。その間、5分以上あったことと同時に、京急の駅員二人がそれに係わっていたこと。さらに知ったことは、最近の踏切には踏切が下りてから線路上に障害物があったら警告の信号を踏切の手前から点灯させるという仕組みがあるという事だった。それも3つもあって、一番手前のものは踏切から600m以上あって、そこで信号に気が付いて緊急ブレーキをかければ手前で止まれるという事だった。それを見落としたのではないこと言う疑いが運転士にかけられているという事だった。
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娯楽映画と言ってしまえばそれまでだが、「運転士は乗客を安全に目的地に送り届けることが使命」と考えるとフィクションとはいえ、イリヤの運転する列車には全く乗客の存在はない。列車が急停車しようが、素人の運転手に変わろうが、誰も言葉をはさまない。無実といえども、背景にそれを非難するような声もないし管理者の存在も描かれない、全く社会から孤立した出来事なのだ。機関車だけがあって、その後ろは意識を持たない乗客が乗っているのか、正体不明の物体を詰め込んだ車両が連結されているだけなのか、どうでもいいようなものである。それは、あたかも実物大のジオラマの中を走る模型の列車を操作しているか、あるいは運転席に実際の風景が映るような模擬運転シュミレーターを運転するかのような感覚である。
だから、《そのキャリアの中で30人以上を轢殺してしまった》と述懐するが、そこから展開する話に重みがなく、ストーリから説得力や感動を感じない。
現在の運転手は、イリアの時代と違って、より厳しいさまざまな緊張を強いられる環境に置かれていうことだ。
高校時代まで横浜に住んでいたから、京浜急行には慣れ親しんでいた。当時の国鉄や多くの私鉄が採用していた狭軌と違い、東海道新幹線と同じ広軌を全速力で走る電車に快感を覚えたこともあった。しかし、今はやはり安全画だ第一である。
踏切事故を無くすには、やはり立体交差しかないという事だろうか。
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