【 2018年1月4日 】 京都シネマ
モーツァルトといえば、映画『アマデウス』の印象が強烈で、そのイメージを引きずってしまう。
背景のプラハの街も美しく懐かしいし、曲目も、プラハ市立管弦楽団の演奏する「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」は心に響く。映画自体は悪くはないのだが、『アマデウス』が邪魔をする。
この映画の「あらすじ」はどんなだったのかなと思うが、「フィガロの結婚」の話とごちゃごちゃになって、終わってみたらわからなくなってしまった。いずれにしても当時の「伯爵」やら「男爵」にはろくな人間が居なかっということか。(今の世のも、《権力を持った人間》にろくなのは居ない!)
その晩、家に帰り『アマデウス』をあらためて観る。筋書き・話の展開も、キャラクター描写も、挿入曲も、やはり圧倒的だ。
この映画を観たどこかの批評家が「モーツァルトの人格が汚された」みたいなことを言って抗議したと、いつか読んだことがあるが、そんなことは無いと私は思う。
それまでの「教科書的な」モーツァルト像が一変して、生きたモーツァルトが飛び出してきた-そんな【カルチャー・ショック】というか、「そうか、こういうことなのか」という強い衝撃を受けた。《破廉恥》だからといって、モーツァルトの天才的な才能が失われるわけではなく、『神童』のイメージはそのまま残っている。
『サリエリ』の心の描写も素晴らしい。『モーツァルト』の映画というより『サリエリ』の映画だったのかもしれない。
【 映画「アマデウス」でのモーツァルト 】 【 同、 サリエリ 】
何だか、今回の映画のことは放ったらかしになって、『アマデウス』の良さだけを書いたみたいになってしまった。
『プラハのモーツァルト-誘惑のマスカレード』-公式サイト