本日の福音書(ヨハネによる福音書10:11-16)の
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」という言葉は
イエス様がご自身についてのべられておられるとても有名な箇所です。
ここでは、イエス様は五字分を「羊飼い」にたとえておられますが、
この「羊」という動物や「羊飼い」という存在は日本人にとっては
あまり馴染みがないものです。
動物学者によれば、羊という動物は自分自身に敵に対する武器を、
いわゆる攻撃だけでなく、防御をするための堅い体やにげるためのスピードを含めて、
何ひとつそれらしい能力を持っていないのだそうです。
そこで、そのような弱いものがお互いに助け合うためには、
群れを作って羊飼いの守ってもらうしかないので、
そうした習性があるのだそうです。
ですから、羊の群れにとって「良い羊飼い」という存在は
生きていく上で必要不可欠なものなのです。
だからこそ、羊は羊飼いの声を聞き分けることが出来るし、
羊飼いの方も多く羊がいても、
その一匹一匹にそれぞれ名前をつけて区別が出来るのです。
イエス様はそのような「羊」に私たちの譬(たと)え、
また、「羊飼い」にご自身を譬えられました。
また、聖書によれば、生きていく上で確かな希望を見失ってさまよう人々を
「飼う者のいない羊」のようだと表しています。
そうした「羊」のような私達に向かって、イエス様が「私は良い羊飼い」と言われ、
「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と、までおっしゃってくださったのです。
だからこそ、イエス・キリストのあの十字架が
「飼う者のいない羊」のような私達を救いの道に至らせ、
永遠の命に生かすための御業(みわざ)だったということが
できるのではないでしょうか。
執事 マタイ金山 昭夫 《2006.5.7週報より》
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」という言葉は
イエス様がご自身についてのべられておられるとても有名な箇所です。
ここでは、イエス様は五字分を「羊飼い」にたとえておられますが、
この「羊」という動物や「羊飼い」という存在は日本人にとっては
あまり馴染みがないものです。
動物学者によれば、羊という動物は自分自身に敵に対する武器を、
いわゆる攻撃だけでなく、防御をするための堅い体やにげるためのスピードを含めて、
何ひとつそれらしい能力を持っていないのだそうです。
そこで、そのような弱いものがお互いに助け合うためには、
群れを作って羊飼いの守ってもらうしかないので、
そうした習性があるのだそうです。
ですから、羊の群れにとって「良い羊飼い」という存在は
生きていく上で必要不可欠なものなのです。
だからこそ、羊は羊飼いの声を聞き分けることが出来るし、
羊飼いの方も多く羊がいても、
その一匹一匹にそれぞれ名前をつけて区別が出来るのです。
イエス様はそのような「羊」に私たちの譬(たと)え、
また、「羊飼い」にご自身を譬えられました。
また、聖書によれば、生きていく上で確かな希望を見失ってさまよう人々を
「飼う者のいない羊」のようだと表しています。
そうした「羊」のような私達に向かって、イエス様が「私は良い羊飼い」と言われ、
「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と、までおっしゃってくださったのです。
だからこそ、イエス・キリストのあの十字架が
「飼う者のいない羊」のような私達を救いの道に至らせ、
永遠の命に生かすための御業(みわざ)だったということが
できるのではないでしょうか。
執事 マタイ金山 昭夫 《2006.5.7週報より》