ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

聖霊降臨後 第3主日

2006年06月26日 | ショートメッセージ
今日の福音書(マルコによる福音書4:35-41)の物語を
あらためて考えてみると、あることに気がつきます。

この出来事の発端は、イエス様が作ったのではないかということです。
イエス様が「向こう岸に渡ろう」などと言いださなければ、
このような事態にならなかったのではないかということです。
弟子にしてみれば、イエス様が「行こう」といったからついてきたのに、
その自分たちが大変な目に遭っているときに眠っているとは、
どういうことなのでしょうか。
弟子たちがイエスに詰め寄るのも当然であると言えます。

私たちも人生の困難にぶつかったときに同じような言葉を発しはしないでしょうか。
なぜ、自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。
いっそのこと生まれない方がよかった。
親に対して「生んでくれと言った覚えはない。」
そんな言葉を投げつけたことがある方もあるでしょう。

ここに、今日の福音書で私たちが見落としてはならない点があるのです。
イエス様の「向こう岸に渡ろう」という言葉によって、全てが始まりました。
私たちの人生の始まりもまた、創造者である神様によってもたらされています。
神様は、私たちをこの世という海原へ押し出され、
気付いたときには、すでに水面を漂う小舟の中です。
そこには、時には突風が吹き、時には波荒れるところです。
しかし、本当に大切なことは、すべて神様が主導権をもって
なされた結果の中にある、ということに気付くことです。
すなわち、すべてのイニシアティブは神様にあるということです。

恐れや不安は確かに避け難く、私たちに訪れます。
しかし、神様はそれらを私たちと共に負ってくださる方なのです。
そして、そこには神にこそ全てのイニシアティブを求めることが出来る
という事実が見えてきます。
イエス様もまた、「向こう岸に渡ろう」と言って、
私たちと一緒に小舟の中に乗り込んでくださるのです。
私たちは、ただ、その言葉に大いなる安らぎを感じ、
嵐をも鎮めるイエス様に「いったい、この方はどなたなのだろう」と、
驚きをもって、ただ、イエス・キリストの声に従う者でありたいと願います。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.6.25週報より》