ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

降臨節第3主日

2008年02月01日 | ショートメッセージ
ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。
そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。
「来るべき方は、あなたでしょうか。
それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
イエスはお答えになった。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、
重い皮膚病を患っている人は清くなり、
耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、
貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである。」
ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。
「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。
しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。
預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、
この人のことだ。はっきり言っておく。
およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。
しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
【マタイによる福音書11章2-11】



福音書をよく読むと、実は洗礼者ヨハネとイエス様が
親戚関係にあったということに気が付きます。
しかも、半年違いの同い年であったようです。
そんなことを考えると、
お互いに幼少の事からよく知り合っていた幼なじみだったのかもしれません。

本日の福音書では、ヨハネが当時のパレスチナの一部を領有していた
ヘロデ・アンティパス王の王妃との婚姻関係の不正を訴え、
王の怒りをかい、投獄されていたときのことを記しています。
獄中のヨハネはここでイエス様に
「私たちの待ち望んでいた方はあなたなのですか?」
と弟子を通じて質問させました。
すると、それに対してのイエス様の答えは、
またしてもイザヤ書のメシア預言の業を自分の行動に重ねてお示しになりました。
いわく、「貧しいものによきしらせを、目の見えない人に視力の回復を・・・」。
こうして、メシアはこうして最も貧しい人たちと共にいるという、
逆説とも思える仕方で正義を示すお方であることが、
イザヤを通してすでに宣言されていること明らかにされたのです。

これは、ルカの福音書の描くクリスマス物語があらわしているものと
全く同じモティーフです。
すなわち、「救い主は、力、権力を持って世を支配されるようなお方ではない。
救い主は、平和、ゆるし、 慈しみによって、
虐げられている人々に喜びを告げる方である」といういことです。

実は、ここでヨハネがこのような質問をしたのは、
本当にイエス様が救い主であるかが判らなかったからではないのだと思います。
自分はすべて判ったうえで、ついに、待ちに待ったお方が現れたということを、
弟子たちに、あるいは弟子たちを通して
すべての人に告げ知らせたかったのかもしれません。
そういった意味では、この洗礼者ヨハネこそ、最初にイエス様を救主、
メシアと認め、確信した人に違いありません。
イエス様の弟子たちでさえ、イエス様の復活の栄光を見るまでは、
イエス様を本当の意味での救い主として認めることはできませんでした。
しかし、このヨハネ唯一人が、
誰よりも早く救い主であるイエス様に気がついていたのではないでしょうか。

司祭 マタイ金山昭夫