観光列車から! 日々利用の乗り物まで

日記代わりに始めました。
まずは先日の小旅行での観光列車から出張利用の乗り物まで。

厚狭駅 山陽本線

2012-09-28 05:50:41 | 瀬戸内海 山陽本線・JR神戸線

厚狭駅は、山陽新幹線と、在来線における当駅の所属線である山陽本線、厚狭駅を起点とする美祢線の3路線の接続駅となっている。山陽新幹線の駅は1999年に開業しており、同新幹線では現在最も新しい駅である。

貨物取扱は1984年(昭和59年)以降行われていないが、山口県内で貨物列車を牽引するディーゼル機関車の拠点となっており、駅構内には幡生機関区厚狭派出が併設されている。


宇部線・小野田線・美祢線の運行管理を行う厚狭CTCセンターが併設され、宇部・小野田地区の列車運行の中枢となっている。なお、山口地域鉄道部の設立に伴い、山陽本線における下関地域鉄道部の管轄駅は当駅から下関側となった。山口県山陽小野田市大字厚狭字沖田にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅。2階建ての堂々としたコンクリート駅舎をもつ地上駅です。駅前広場も広々整備されています。

駅開設時からある北口は厚狭地区の中心市街地となっており、駅前に寝太郎の銅像が立つ。また、日本で初めて角膜移植を行なうための献眼を讃えた碑がある。一方、南側には山陽新幹線停車前は改札や自由通路が設けられていなかったこともあり、市街化はされず基本的には田園風景が広がっていたが、新幹線駅開業後に土地区画整理事業が施行され、2009年度に完了した。駅の東側を厚狭川が流れている。駅南口。落ち着いた色彩の高架駅です

1900年(明治33年)12月3日 - 山陽鉄道が三田尻駅(現在の防府駅)から延伸し、その終着として開業。旅客及び貨物の取扱を開始。
1901年(明治34年)5月27日 - 山陽鉄道が馬関駅(現在の下関駅)まで延伸し、途中駅となる。
1905年(明治38年)9月13日 - 山陽鉄道が大嶺駅までの支線(現在の美祢線)を開業。
1906年(明治39年)12月1日 - 山陽鉄道が国有化され、国有鉄道の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。山陽本線の所属となり、大嶺方面への支線は大嶺線となる。
1924年(大正13年)3月23日 - 線路名称改定。大嶺線が美禰線(1963年より美祢線と表記)に改称される。
1984年(昭和59年)1月21日 - 貨物の取扱を廃止。駅北口の西側に有蓋車用の貨物ホームが設置されていた。
1987年(昭和62年)
3月31日 - 貨物の取扱を再開。但し、将来貨物設備を整備されることに備えたものであり、発着列車の設定は無い。
4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。
1999年(平成11年)3月13日 - 山陽新幹線の停車駅となる。
2005年(平成17年)2月22日 - 山陽新幹線改札口に自動改札機導入。
2009年(平成21年)8月29日 - EX-IC導入に伴い、在来線改札口に簡易IC読取機を設置。
2010年(平成22年)7月15日 - 美祢線が大雨による災害で不通となる。21日から代行バス運転開始。
2011年(平成23年)9月26日 - この日の始発から美祢線全線の運転が再開。

電報略号 アサ
駅構造 高架駅(新幹線)
地上駅(在来線)
ホーム 2面2線(新幹線)
4面5線(在来線)
乗車人員
-統計年度- 1,618人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1900年(明治33年)12月3日
乗入路線 3 路線
所属路線 ■山陽新幹線
キロ程 509.5km(新大阪起点)
東京から1062.1km
◄新山口 (35.1km)(26.6km) 新下関►
所属路線 ■山陽本線
キロ程 494.3km(神戸起点)
◄小野田 (6.3km)(8.3km) 埴生►
所属路線 ■美祢線
キロ程 0.0km(厚狭起点)
(4.2km) 湯ノ峠*►
備考 直営駅
みどりの窓口 有
* この間に鴨ノ庄信号場有(2.0km先)

JR厚狭駅前には寝太郎の銅像が建っている。庄屋の息子である太郎は、ろくに仕事もせず寝続けていたため、周囲からは「寝太郎」と揶揄されていた。三年三月の間寝続けた太郎がある日突然起きだし、父親に千石船と船一杯の草履を造ってくれるよう頼む。父親は他ならぬ息子の願いでもあり千石船と草履を作って与えると、太郎は船をこぎ出していってしまった。数十日して太郎が戻ってくると、船の中の草履はぼろぼろのものになっていた。すると太郎は父親に大きな桶を用意してほしいと頼む。太郎は父親の用意した桶でぼろぼろの草履を洗い始めると、汚れた土の中から砂金が見つかる。実は太郎は佐渡島へ船をこぎ出し、佐渡金山で働いている者の草履を無料で交換していたのだった。

太郎は集めた砂金を原資に堰を作り、灌漑水路を整備して田を開墾し、村の百姓に分け与えた。厚狭地区を流れる厚狭川には、実際に寝太郎の集めた資金により整備したとされる堰があり、「寝太郎堰」と呼ばれている。寝太郎は荒れ地を開墾した地元の英雄として今なおたたえられており、地元では毎年4月29日に「寝太郎祭り」が催されている。大内氏家臣の平賀清恒がモデルとされる。父である平賀玄信が武田晴信に敗れた後、姉の嫁ぎ先である冷泉隆豊を頼り周防で大内氏に仕官。大寧寺の変により厚狭に落ち延び農作を行っていたところ、水不足に苦しむ農民の声に動かされたと言われている。

 


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2 コメント

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Unknown (安芸路マリンビュー)
2012-09-29 22:28:35
厚狭駅に新幹線駅が建設されてから、
10年以上経過しましたが、
なぜ新幹線の駅をここに新設したのだという疑問が、
建設計画が浮上したころから現在にいたるまでくすぶっているほど、
厚狭駅の新幹線の乗降客数は、極端に少ないようで、
また在来線に限った乗降客数も、増えるどころか、
1000人割れしているのではないかと思います。
新幹線駅建設に合わせて、駅南側が区画整理されたものの、
その区域内の世帯数も伸び悩んでいるようです。
山陽線の中でも、山口県内区間は、元来、
広島や岡山県内と比べても列車の本数、乗車率や駅の乗降客数の落差がある割に、
昼間の12~13時前後でも4両連結の列車がそこそこ走っているようですが、
いずれは、そうした列車の3~2両編成への減車が、
検討されてもおかしくないのですが…
返信する
新幹線:利用者 (オーナー)
2012-09-30 19:12:02
二ヶ月に一度のペースで「こだま」を利用する機会がありますが厚狭駅での乗降者はほぼ皆無ですね。
返信する

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