T-1は、航空自衛隊の中等練習機。愛称は初鷹(はつたか)。プロペラ機による初等訓練を終えたパイロットが引き続いてジェット機による中等訓練を行うために製作された。第二次世界大戦後初の実用国産飛行機であると同時に、初の国産ジェット練習機でもある。2006年(平成18年)3月に全機が退役した。
内藤子生技師を主務として設計と実機製作に取り掛かったT1F1だが、富士重工業が旧中島飛行機であるとはいえ、航空再開から4年、富士重工設立から3年しか経っておらず、また、第二次世界大戦中に同じく中島飛行機が海軍の発注を受けて開発し量産を進めていた「橘花」を除けば、ジェット機開発の経験など無かった。
試作のための研究と試験には、国内メーカーと国公立の研究所の協力体制がとられ、ライセンス生産をしていたF-86FとT-33Aのノウハウが大きな助けとなった。また、国内の航空研究設備の多くが戦後解散し、機材も分解してしまったため、アメリカ・コーネル大学の風洞設備を借りて遷音速時の空力特性研究を行うなど、研究開発は苦難に満ちたものだった。同時に、米軍のレシプロ練習機T-28Bと英軍の練習機 DH-T55 バンパイアを一機ずつ購入し、操縦特性や構造、装備品、バンパイアで並列複座の得失について徹底的に検証した。
搭載するエンジンは、国内5社共同出資で設立した日本ジェットエンジン社(NJE)が開発中である推力1,200kgの「XJ3」の予定であったが、製作が遅れていることが明らかになり、防衛庁の求める納期に間に合わなくなってしまった。このため富士は、試作1号機に英国ブリストル社製・オーフュースMk.805エンジン(推力1,815kg)を搭載してT1F2とし、試作1号機(82-5801)は1958年(昭和33年)1月16日に初飛行(テストパイロットの高岡1等空佐は終戦直前に「橘花」の初飛行も勤めた)。これを3月25日に防衛庁に納入し、3月13日に初飛行した2号機(82-5802)以降、6号機までが防衛庁での試験に供された。この試験でいくつかの不具合が改良され、T-1Aと名づけられた機体は、1962年(昭和37年)6月までに量産機と試作機あわせて46機が配備された。
1960年(昭和35年)にはNJEの国産ターボジェットエンジン「J3」が完成したので、T1F2の試作1号機(05-5801:元02-5801)のエンジンをJ3に転換して5月17日に初飛行した。J3はNJEから石川島播磨重工業による量産体制に移り、T1F1試作2号機はT-1Aの10号機(05-5810)をJ3に転換したものとなった。これが1962年(昭和37年)まで試験に供され、T-1Aに代わって量産体制に移った。純国産機であるT1F1量産型は、1963年(昭和38年)7月12日の完納式までに20機が納入され、T-1Bとなった。
なお、1962年からF-104J/DJ戦闘機の導入によって教育体制が変わり、米軍の無償供与とライセンス生産効率化によって大量配備され、278機(212機が国産)もの大所帯となったT-33Aが中等練習機に格下げされたため、T-1は総勢66機の導入にとどまった。
主翼は低翼配置で25パーセント翼弦、26度46分の後退翼となっており、中島飛行機時代の艦上偵察機「彩雲」などに使用された中島Kシリーズ層流翼型の発達型である。厚い主翼には十分なタンクスペースが確保されている。新しい後退翼理論を取り入れた水平尾翼は34度15分、垂直尾翼は33度18分の後退角がついており、音速に近づいて衝撃波が発生しても尾翼の効きが残る。やや前方に出たドーサルフィンを持つ垂直尾翼と上反角を持つ水平尾翼の組み合わせにより、良好なスピンリカバリーをもたらしている。
空気流入効率と全面抵抗減少を狙ってエアインテイク(空気取り入れ口)は機首にある。軽量化のために細くした胴体は装備品の搭載にしわ寄せが来てしまい、また体の大きなパイロットには窮屈になってしまった。しかし抵抗が小さいため加速力と上昇力ではT-33A練習機を上回り、操縦性や離着陸特性も数段勝っている。
電子機器は価格を抑えるためにF-86F戦闘機およびT-33Aと同じ既製品を使用している。またキャノピーと射出座席、降着装置はT-33Aと同じ、増槽はF-86Fと同じ120ガロンのものを流用した。A型のオーフュースエンジンは出力が大きく、性能も良いが、その分J3よりも多くの燃料を消費したため、T-1Aは常時増槽を装着して飛行することとなり、これがT-1AとT-1Bの外見上の大きな識別点となった。B型は当初、長距離飛行の場合を除いて増槽は設置しなかったが、後にA型同様、通常装備となった。
射出座席は当初マーチンベーカー製であったが、後にT-33共々安全性を高めた国産型に転換された。この国産射出座席開発に際しては、1966年(昭和41年)から岐阜基地で行われた射出実験の成果が投入されている。実験は岐阜基地の滑走路南で実施。鉄道用レール(新幹線のロングレール採用)とトロッコによるロケットスレッドが用意され、T-1Aの試作4号機(#804)の胴体前部をトロッコに括り付け、F-86の武装であるロケット弾44発(弾頭なし)を推進剤にして、地上滑走を再現した。機体の射出座席には平均的な日本人男性のダミー人形2体(衝撃計測機器付き)が乗せられ、トロッコの低速走行中に空中へ射出、パラシュートで地上へ帰還する試験を7度行った。試験で実用化された射出座席への改修により、ゼロ高度・低速度(地上滑走中)での安全な脱出が可能となった。なお、改修費用は1機あたり500万円(当時)であった。また、#804は試験終了後に復元された。
T-1B型は、1965年(昭和40年)に推力を1400kgに増強したJ3-IHI-7が完成したため、B型全機がこのエンジン(後にはJ3-IHI-7B)に転換し、正式名はT-1B-10となっている。しかし、T-1B全機が改修対象だったため、特に区別する必要も無く、この名称は一般には浸透しなかったようである。
この機体は練習機であるため武装はないが、射撃訓練用に機首右下に12.7 mm機銃1門を装備できた。また有事の際には翼下にサイドワインダー空対空ミサイルや爆弾やガンポッドなどを搭載できるようになっていた。
乗員 - 2 名
全長 - 12.12 m
全幅 - 10.49 m
全高 - 4.08 m
翼面積 - 22.22㎡
空虚重量 - 2,858 kg
エンジン
T-1A:ブリストル オーフュース ターボジェット ×1基
T-1B:IHI J3-IHI-7B ターボジェット 1基
出力
T-1A:1,815 kg
T-1B:1,400 kg
最大速度 - M08.0または503kt/4.572m
巡航速度 - M05.5または340kt/6.096m
失速速度 - 84kt/着陸時、海面上昇率1.981m/㎜
実用上昇限度 - 13.564m
航続距離 - 850 km
離陸/着陸距離 - 離陸853m/着陸1.052m
武装
固定武装無し(12.7 mm機銃1門の装備可)
翼下に対地ロケット弾×4または空対空ミサイル×2装備可
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