観光列車から! 日々利用の乗り物まで

日記代わりに始めました。
まずは先日の小旅行での観光列車から出張利用の乗り物まで。

江津駅 山陰本線

2012-03-08 11:11:11 | JR西日本 山陰本線 日本海

パルプ工場や日本専売公社の貨物輸送でも栄えた江津駅は、島根県江津市江津町にあります。西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅。山陰本線を所属線としており、江津駅を起点とする三江線を加えた2路線が乗り入れる。かつては駅前が市の中心地だったが、郵便局と銀行以外の商業施設は山陰道を400mほど浜田側へ行った道路沿いに移りつつあります。



江津市は島根県の中央部よりやや西寄りに位置し、中央を中国地方一の大河である江の川が流れる、総面積が268.51k㎡のまちです。平均気温が15℃と温暖で、年間降水量1,500mm前後で北九州気候区に属し、積雪はほとんどなく温和な気候とのことです。また、県内の市の中で最も人口が少なく、面積が狭い市でもあります。



駅は駅舎はコンクリートの平屋建て駅舎。単式ホーム1面1線(1番のりば)と島式ホーム1面2線(2番・3番のりば)、合計2面3線のホームを持つ地上駅。1番のりばは駅改札口に直結している。2番・3番のりばへは跨線橋(バリアフリーには対応していない)を渡る。寝台特急「出雲」が浜田駅まで運転され、当駅に停車した関係で、1番のりばと2番のりばが非常に長い。


1番のりばのうち、東側(大田市駅寄り)の嵩上げされていない部分は撤去されたが、西側はそのまま残されている。


以前は3番線の外側に多くの側線が敷設され、広大な構内だった。そこから日本製紙ケミカル江津事業所(旧・日本製紙江津工場)へ専用線が伸びていた。現在これらはすべて撤去されており、発生した空き地の向こうに三江線の0キロポストが取り残されている。また、1番線と2番線の間には中線があったが、これも撤去されている。

浜田鉄道部管理の直営駅であるが、早朝と夜間に無人となる時間帯がある。江津市観光案内が併設。

 



江津駅プラットホーム

ホーム 路線 方向 行先 備考

1 ■山陰本線 上り 出雲市・松江方面

2 ■山陰本線 下り 浜田・益田方面

3 ■三江線 - 石見川本・浜原・三次方面

■山陰本線 下り 浜田・益田方面 一部の列車

3番のりばからは出雲市方面(上り)への発車も可能で、山陰本線の上下共用待避線としての役割も担うが、2008年(平成20年)3月15日改正現在、当駅での待避列車は上下双方とも設定されておらず、山陰本線の列車で3番のりばを使用するのは一部の下り列車(三江線からの直通を含む)のみとなっている。

朝と夜には当駅発着の列車もある。



1920年(大正9年)12月25日 - 国有鉄道山陰本線の浅利駅 - 都野津駅間延伸により、石見江津駅として開業。一般駅。

北陸本線に郷津駅(1969年廃止、読みは「ごうづ」)があったため、石見の国名を付けた。

1930年(昭和5年)4月20日 - 三江北線(後の三江線)が川戸駅まで開業。乗換駅となる。

1957年(昭和32年)- 現在の2代目駅舎が竣工。

1970年(昭和45年)6月1日 - 郷津駅の廃止に伴い江津駅に改称。

1973年(昭和48年)7月10日 - 江津駅待避線で対向の第2002列車を待ち合わせていた下り貨物第876列車(現車17両)の4両目のタンク車のタンク上面が破裂し、塩酸が噴出する事故が発生した。ホームにいた旅客9名、郵政職員5名、駅職員3名、作業員1名の合計18名が負傷した。

1975年(昭和50年)8月31日 - 三江北線が三江線の一部となる。

1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。

1997年(平成9年)3月22日 - 貨物列車の設定廃止(実際には貨物列車は前年秋から運休扱いであった)。

日本製紙江津工場へ向かう、苛性ソーダ(南延岡駅発送)や濃硫酸(幸崎駅発送)が到着していた。

2006年(平成18年)4月1日 - 日本貨物鉄道の駅が廃止され、貨物の取扱いが正式に終了。



電報略号 コウ

駅構造 地上駅

ホーム 2面3線

乗車人員

-統計年度- 429人/日(降車客含まず)

-2009年-

開業年月日 1920年(大正9年)12月25日

乗入路線 2 路線

所属路線 ■山陰本線

キロ程 454.3km(京都起点)

◄浅利 (6.3km)(4.4km) 都野津►

所属路線 ■三江線

キロ程 0.0km(江津起点)

(1.1km) 江津本町►

備考 直営駅

みどりの窓口 有

* 1970年に石見江津駅から改称。



江津は「江の川の港」を意味する地名。戦国時代以前には大陸との交易が行われ、15世紀の朝鮮の歴史書にも江津という地名が記されています。河口の西側を占める中心部の江津町は、江戸時代、三次をはじめとする上流部の産物の積み出し、あるいは塩など上流部で必要とされる物資の搬入のため江の川の舟運が盛んになったのに伴い、北前船の寄港地となり、海運業などが繁栄した。当時、石見地方は天領の石見銀山領、浜田藩領、津和野藩領に三分され、基本的には浜田藩領と石見銀山領の境界は、江の川とされたが、川の左岸でありながら江津町のみが江戸時代のほとんどを石見銀山領に属していました。そのため、石見銀山の幕府代官所の出先の口番所がおかれています。したがって、現在の市域は東半分が旧天領、西半分が旧浜田藩領となる。幕末、第二次長州征伐での浜田藩の敗退に伴い、石見銀山領および浜田藩領を長州藩が数年間支配しました。その名残りとして江津町本町地区の長州藩軍政部の置かれた場所は現在”陣屋”という地名で呼ばれています。


 


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