今日・3月14日は、吉本興業の創業者・吉本 せいの1950(昭和25)年の忌日。
”海千山千の芸人たちを細腕一本でまとめあげ、笑いの王国・吉本興業を築きあげた1人の女、吉本せい。
せいの夫・泰三は船場の店をつぶしてしまう程の芸人道楽。好きこそものの上手なれと寄席を始めるが、場末の席でもあり、客は不入り。そんな寄席の経営を軌道に乗せたのはせいの機知と工夫と人情深い人柄だった。夫の死後、寄席の経営は、せいの細腕1本にかかってくる。時として、心を鬼にして、時として女としての幸せも捨て、笑う門には福が来ると信じ、笑いと夢を商う女興行師として、せいは、吉本の隆盛を築きあげてゆく。”・・・これは、矢野誠一原作の「女興行師・吉本せい」を舞台化した「桜月記-女興行師 吉本せい-」を1991(平成3)年3月に、東京・帝国劇場にて公演した際のチラシに書かれている文面である。主演はあの若き日の林芙美子を描いた「放浪記」を演じて有名な森光子である。冒頭の画像は私のコレクションよりその時の帝劇のチラシである。
吉本せいを演じたものとしては、他に三益愛子が主演 した 芸術座公演「花のれん」(1958年、菊田一夫演出) 、淡島千景主演の東宝映画「花のれん」(1959年、豊田四郎監督) 、宮本信子 主演のテレビ東京スペシャルドラマ「花のれん」(1995年)や、眞野あずさ の NHK朝の連続テレビ小説第33作目「心はいつもラムネ色」(1984年 - 1985年、役名は「福本桁乃」) などがある。
このように、舞台でも演じられている吉本 せいが、今隆盛を極めている吉本興業の創業者であることは広く知られている。経歴等は、フリー百科事典Wikipedia吉本興業の沿革のところに詳しく書かれているのでそこを見られると良い。
Wikipediaではなく、私の蔵書・アサヒクロニクル「週間20世紀」に、彼女のことについて簡単に紹介している記事があったが、そこには、以下のように記載されていた。
”吉本 せいは、1889(明治22)年12月5日 、明石で商家の三女として生まれる。18歳で吉本吉兵衛に嫁いだが、芸人道楽と折柄の不況で財を失った夫に協力して、1912(明治45or大正1)年、天満天神裏の端席・第2文芸館を借り、寄席の経営に乗り出す。買収に次ぐ買収で寄席のチェーン店化に成功。1924(大正13)年に夫が39歳で急逝した後は、林正之助、林弘高の実弟2人を配下に采配を揮い、1932(昭和7)年には、吉本興業合名会社を設立。京阪神はもとより東京にも進出する。月給製による芸人の専属制、安来節や漫才などえ、女興行師から近代的総合演芸プロデューサーへ変貌を遂げ、今日のレジャー産業の先駆け的役割を果たした。公共事業に対する功績が認められ、1934(昭和9)年に大阪府から勅諚紺綬褒章(以下参考に記載の※中野文庫 - 褒章条例参照)がおくられた。1938(昭和13)年に大阪市民のシンボルだった新世界の通天閣を買収したが1943(唱和18)年に焼失。鉄骨を軍に献納した。一代で名を成した女経営者としての矜持(きょうじ=自信と誇り。自信や誇りを持って、堂々と振る舞うこと。)だった。1950(昭和25)年3月14日死去。・・・と。
・アサヒクロニクル「週間20世紀」では、明石で商家の三女として生まれ、18歳で吉本吉兵衛に嫁いだとしているが、Wikipediaでは、吉本 せい(本名吉本勢)は1889(明治22)年12月5日生まれ、大阪府出身。20歳の時に、大阪の荒物問屋「箸吉(はしよし)」の息子吉本吉兵衛(本名:吉次郎。通称泰三)と結婚。・・とある。年令と、出身地が違うのはなぜか???又、Wikipediaでは、せいの弟・林 正之助のところには、”兵庫県明石市生まれで大阪府大阪市北区出身。米穀商を営んでいた林豊次郎の長男として出生”と、微妙な書き方をしている。これについて他を調べてみると、以下参考に記載の落語の歴史 その 1 寄席の始まりでは、1992(平成4)年8月1日吉本興業㈱から発行された「吉本八十年の歩み」53ページに、”吉本せいが1934(昭和9)年2月11日・紀元節に、大阪府知事からみさおの硬い女性=節婦(せっぷ)として木盃を授与されたときの新聞記事が掲載されています。
「忍苦数十年の結晶 東洋の興行王へ 篤行の人 吉本せい女史 」
と題されたその記事を抜粋してみましょう。
同女史は大阪市北区天神橋筋四丁目三十一番地、故林豊次郎氏三女として生まれ、明治四十年十二月年十九歳にして東区本町橋東詰吉本吉次郎氏に嫁した。当時吉本家は貿易商を営んで、相当裕福であったが、時恰も稼業は日露戦役直後の新文化の勃興に伴なう財界の波動に店務沈滞に傾きつつあった。女史の苦心一方ならず、日夜家事に励み舅姑に仕え夫を助け一家家運の挽回に当たった。しかし、意の如くならねば遂に意を決し夫を動かして稼業の一転を企て、資金五百円を以って大正二年四月天満裏に寄席を設け、興行を始めた。これが今日の大をなす素地で、自来営々万難を廃して百折不撓次第に人気を集め、ここに吉本興業部の名乗りを揚げ本格的に演劇興行を経営するに至り、しかも、精励、孝順は舅姑の心を和らげ、一家和楽の世界を造った。”・・・と、又、グランド花月ホームページの花花寄席連載上方落語の歴史その33吉本せい】には、”せいは、1889(明治22)年12月5日、林豊次郎の三女として生まれ、米穀商の看板娘として店を切り盛りしていたとき吉次郎と出会い、2人が正式に籍を入れたのは、3年後の1910(明治43)年4月8日のことであった”とある。・・・これらを見る限り、せいが吉次郎に見初められ結婚したのは、数え19歳、籍を入れたのが22歳ということになるが、出生については、明石なのか大阪なのか良くわからない。又、資金五百円を以って大正二年四月天満裏に寄席を設け、興行を始めた・・とあるが、これは、第二文芸館を地所建物ごと買ったのではなく、文藝館の席主・長田為三郎より経営権を買ったものであること、それに、せいの方から夫を動かして・・と主体的に寄席の世界に飛び込んだように書いてあるのが面白と指摘している。
吉本せいをモデルにした山崎豊子の小説「花のれん」では、この時期に吉本の経営の采配を揮っていたのはせいであり、夫の吉兵衛は道楽者で経営には全く興味がなかったかのように書かれているが、その後の、矢野誠一による評伝「女興行師 吉本せい」によれば、吉本興行部主人として実質的に経営を指揮していたのは吉兵衛であり、せいはむしろ内助の功に徹していたという風に書かれている。
偉大な人物であることに変りがないが、その事業を継いだ人達の書く私史や小説などには、それなりに、色々、事実よりも良く書くことは、他の歴史でも同じことである。
兎に角、第2文芸館を借りた後、寄席の経営に乗り出し、買収に次ぐ買収で寄席のチェーン店化に成功してゆくが、そこらあたりのことは、前に、このブログ「天満天神繁盛亭」開館日 で詳しく書いたので、詳しくはそこで見てください。
1924(大正13)年に吉兵衛が急性心筋梗塞で死去した後は、若き未亡人せいが経営を背負う事になる。しかし吉兵衛存命中に、せいは実弟の林正之助を吉本興行部総監督として迎え入れており、吉兵衛死後には、正之助の実弟となる林弘高も招いて、既に吉本が進出していた東京・横浜地区の仕事を一任。ここに創業家の吉本家に加え、せいの実家である林家が吉本の経営陣に登場してくることになる。この2人の活躍で、大正時代には大阪だけでも20あまりの寄席を経営し、京都、神戸、名古屋、横浜、東京等にも展開するようになる。1932(昭和7)年に吉本興業合名会社を設立、1948(昭和23)年、吉本興業株式会社に改組後、せいは会長に退き、初代の社長には林正之助が就任し、さらに、企業を発展させてゆく。吉本興業㈱へ改組の2年後の1950(昭和25)年の今日せいは死亡した。
しかし、歴史的に興行の世界では、ヤクザとの関わりも多いものだが、吉本せい、林正之助とヤクザの結びつきも、周知の事実で、小説などでは書かれない醜聞も少なくはない。
地上げもしていたようだし(いっときは通天閣まで買収)、山口組などのヤクザとも連携していたようで、芸人の引き抜きにあたってはかなりヤクザの脅しもあったとう。又、吉本興業の東京進出にも蔭ではヤクザが動いたともいう。山口組の田岡一雄は美空ひばり等の興行を仕切っていた事で知られる神戸芸能社を率いており、同じ関西の吉本興業との関係は当然すぎて、当時は誰も問題視しなかった。1968(昭和43)年1月11日には、林正之助が山口組と結託してレコード会社乗っ取り容疑で兵庫県警に逮捕されたこともある。
吉本興業のことについてなら、吉本興業の大番頭として有名だった木村政雄が常務時代に書いた一冊『笑いの経済学』についての読書感想を書いた以下参考に記載のブログ「松岡正剛の千夜千冊『笑いの経済学』木村政雄」などもみられるとよい。
ま~、兎に角、いろいろ内紛もあるようだが、金儲けというか営業面に関しては、色々学べる面も多くあり、たいしたものだと思うよ。
参考:
グランド花月ホームページ
http://www.yoshimoto.co.jp/ngk/
花のれん - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD26079/
【PDF】落語の歴史 その 1 寄席の始まり
http://www.kcc.zaq.ne.jp/hakua/rekisisennzenn.pdf
吉本興業 - 日本最古の芸能プロダクション | R25
http://r25.jp/b/wp/a/wp/n/%8Bg%96%7B%8B%BB%8B%C6/i/%93%FA%96%7B%8D%C5%8C%C3%82%CC%8C%7C%94%5C%83v%83%8D%83_%83N%83V%83%87%83%93
米沢彦八 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%B2%A2%E5%BD%A6%E5%85%AB
※中野文庫 - 褒章条例
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/fm14-63.htm
今日のことあれこれと・・・ 「天満天神繁盛亭」開館日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/ed71ecd0f24a3a901f94f0fc9559ee0c
泥沼スキャンダル 吉本にこれから起こる激震
http://news.livedoor.com/article/detail/3116482/
第38回 吉本興業創業者・吉本せいと林正之助
そして、お家騒動勃発!ワテほんまによう言わんわ~ (07.4.20記)
http://episode.kingendaikeizu.net/38.htm
1985(昭和60)年の今日(3月30日)は 歌手・笠置シヅ子の忌日。
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/ce56581b8c51b74f12d30f6b680715a2
松岡正剛の千夜千冊『笑いの経済学』木村政雄
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1123.html
笑いの経済学―吉本興業・感動産業への道
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0012-a/index.html
吉本興業の創業者一族と主導権争いの歴史
http://72.14.235.132/search?q=cache:nnN09El8CQsJ:m-dictionary.ameba.jp/%258Bg%2596%257B%258B%25BB%258B%25C6/16+%E5%90%89%E6%9C%AC%E5%90%89%E5%85%B5%E8%A1%9B&cd=10&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
”海千山千の芸人たちを細腕一本でまとめあげ、笑いの王国・吉本興業を築きあげた1人の女、吉本せい。
せいの夫・泰三は船場の店をつぶしてしまう程の芸人道楽。好きこそものの上手なれと寄席を始めるが、場末の席でもあり、客は不入り。そんな寄席の経営を軌道に乗せたのはせいの機知と工夫と人情深い人柄だった。夫の死後、寄席の経営は、せいの細腕1本にかかってくる。時として、心を鬼にして、時として女としての幸せも捨て、笑う門には福が来ると信じ、笑いと夢を商う女興行師として、せいは、吉本の隆盛を築きあげてゆく。”・・・これは、矢野誠一原作の「女興行師・吉本せい」を舞台化した「桜月記-女興行師 吉本せい-」を1991(平成3)年3月に、東京・帝国劇場にて公演した際のチラシに書かれている文面である。主演はあの若き日の林芙美子を描いた「放浪記」を演じて有名な森光子である。冒頭の画像は私のコレクションよりその時の帝劇のチラシである。
吉本せいを演じたものとしては、他に三益愛子が主演 した 芸術座公演「花のれん」(1958年、菊田一夫演出) 、淡島千景主演の東宝映画「花のれん」(1959年、豊田四郎監督) 、宮本信子 主演のテレビ東京スペシャルドラマ「花のれん」(1995年)や、眞野あずさ の NHK朝の連続テレビ小説第33作目「心はいつもラムネ色」(1984年 - 1985年、役名は「福本桁乃」) などがある。
このように、舞台でも演じられている吉本 せいが、今隆盛を極めている吉本興業の創業者であることは広く知られている。経歴等は、フリー百科事典Wikipedia吉本興業の沿革のところに詳しく書かれているのでそこを見られると良い。
Wikipediaではなく、私の蔵書・アサヒクロニクル「週間20世紀」に、彼女のことについて簡単に紹介している記事があったが、そこには、以下のように記載されていた。
”吉本 せいは、1889(明治22)年12月5日 、明石で商家の三女として生まれる。18歳で吉本吉兵衛に嫁いだが、芸人道楽と折柄の不況で財を失った夫に協力して、1912(明治45or大正1)年、天満天神裏の端席・第2文芸館を借り、寄席の経営に乗り出す。買収に次ぐ買収で寄席のチェーン店化に成功。1924(大正13)年に夫が39歳で急逝した後は、林正之助、林弘高の実弟2人を配下に采配を揮い、1932(昭和7)年には、吉本興業合名会社を設立。京阪神はもとより東京にも進出する。月給製による芸人の専属制、安来節や漫才などえ、女興行師から近代的総合演芸プロデューサーへ変貌を遂げ、今日のレジャー産業の先駆け的役割を果たした。公共事業に対する功績が認められ、1934(昭和9)年に大阪府から勅諚紺綬褒章(以下参考に記載の※中野文庫 - 褒章条例参照)がおくられた。1938(昭和13)年に大阪市民のシンボルだった新世界の通天閣を買収したが1943(唱和18)年に焼失。鉄骨を軍に献納した。一代で名を成した女経営者としての矜持(きょうじ=自信と誇り。自信や誇りを持って、堂々と振る舞うこと。)だった。1950(昭和25)年3月14日死去。・・・と。
・アサヒクロニクル「週間20世紀」では、明石で商家の三女として生まれ、18歳で吉本吉兵衛に嫁いだとしているが、Wikipediaでは、吉本 せい(本名吉本勢)は1889(明治22)年12月5日生まれ、大阪府出身。20歳の時に、大阪の荒物問屋「箸吉(はしよし)」の息子吉本吉兵衛(本名:吉次郎。通称泰三)と結婚。・・とある。年令と、出身地が違うのはなぜか???又、Wikipediaでは、せいの弟・林 正之助のところには、”兵庫県明石市生まれで大阪府大阪市北区出身。米穀商を営んでいた林豊次郎の長男として出生”と、微妙な書き方をしている。これについて他を調べてみると、以下参考に記載の落語の歴史 その 1 寄席の始まりでは、1992(平成4)年8月1日吉本興業㈱から発行された「吉本八十年の歩み」53ページに、”吉本せいが1934(昭和9)年2月11日・紀元節に、大阪府知事からみさおの硬い女性=節婦(せっぷ)として木盃を授与されたときの新聞記事が掲載されています。
「忍苦数十年の結晶 東洋の興行王へ 篤行の人 吉本せい女史 」
と題されたその記事を抜粋してみましょう。
同女史は大阪市北区天神橋筋四丁目三十一番地、故林豊次郎氏三女として生まれ、明治四十年十二月年十九歳にして東区本町橋東詰吉本吉次郎氏に嫁した。当時吉本家は貿易商を営んで、相当裕福であったが、時恰も稼業は日露戦役直後の新文化の勃興に伴なう財界の波動に店務沈滞に傾きつつあった。女史の苦心一方ならず、日夜家事に励み舅姑に仕え夫を助け一家家運の挽回に当たった。しかし、意の如くならねば遂に意を決し夫を動かして稼業の一転を企て、資金五百円を以って大正二年四月天満裏に寄席を設け、興行を始めた。これが今日の大をなす素地で、自来営々万難を廃して百折不撓次第に人気を集め、ここに吉本興業部の名乗りを揚げ本格的に演劇興行を経営するに至り、しかも、精励、孝順は舅姑の心を和らげ、一家和楽の世界を造った。”・・・と、又、グランド花月ホームページの花花寄席連載上方落語の歴史その33吉本せい】には、”せいは、1889(明治22)年12月5日、林豊次郎の三女として生まれ、米穀商の看板娘として店を切り盛りしていたとき吉次郎と出会い、2人が正式に籍を入れたのは、3年後の1910(明治43)年4月8日のことであった”とある。・・・これらを見る限り、せいが吉次郎に見初められ結婚したのは、数え19歳、籍を入れたのが22歳ということになるが、出生については、明石なのか大阪なのか良くわからない。又、資金五百円を以って大正二年四月天満裏に寄席を設け、興行を始めた・・とあるが、これは、第二文芸館を地所建物ごと買ったのではなく、文藝館の席主・長田為三郎より経営権を買ったものであること、それに、せいの方から夫を動かして・・と主体的に寄席の世界に飛び込んだように書いてあるのが面白と指摘している。
吉本せいをモデルにした山崎豊子の小説「花のれん」では、この時期に吉本の経営の采配を揮っていたのはせいであり、夫の吉兵衛は道楽者で経営には全く興味がなかったかのように書かれているが、その後の、矢野誠一による評伝「女興行師 吉本せい」によれば、吉本興行部主人として実質的に経営を指揮していたのは吉兵衛であり、せいはむしろ内助の功に徹していたという風に書かれている。
偉大な人物であることに変りがないが、その事業を継いだ人達の書く私史や小説などには、それなりに、色々、事実よりも良く書くことは、他の歴史でも同じことである。
兎に角、第2文芸館を借りた後、寄席の経営に乗り出し、買収に次ぐ買収で寄席のチェーン店化に成功してゆくが、そこらあたりのことは、前に、このブログ「天満天神繁盛亭」開館日 で詳しく書いたので、詳しくはそこで見てください。
1924(大正13)年に吉兵衛が急性心筋梗塞で死去した後は、若き未亡人せいが経営を背負う事になる。しかし吉兵衛存命中に、せいは実弟の林正之助を吉本興行部総監督として迎え入れており、吉兵衛死後には、正之助の実弟となる林弘高も招いて、既に吉本が進出していた東京・横浜地区の仕事を一任。ここに創業家の吉本家に加え、せいの実家である林家が吉本の経営陣に登場してくることになる。この2人の活躍で、大正時代には大阪だけでも20あまりの寄席を経営し、京都、神戸、名古屋、横浜、東京等にも展開するようになる。1932(昭和7)年に吉本興業合名会社を設立、1948(昭和23)年、吉本興業株式会社に改組後、せいは会長に退き、初代の社長には林正之助が就任し、さらに、企業を発展させてゆく。吉本興業㈱へ改組の2年後の1950(昭和25)年の今日せいは死亡した。
しかし、歴史的に興行の世界では、ヤクザとの関わりも多いものだが、吉本せい、林正之助とヤクザの結びつきも、周知の事実で、小説などでは書かれない醜聞も少なくはない。
地上げもしていたようだし(いっときは通天閣まで買収)、山口組などのヤクザとも連携していたようで、芸人の引き抜きにあたってはかなりヤクザの脅しもあったとう。又、吉本興業の東京進出にも蔭ではヤクザが動いたともいう。山口組の田岡一雄は美空ひばり等の興行を仕切っていた事で知られる神戸芸能社を率いており、同じ関西の吉本興業との関係は当然すぎて、当時は誰も問題視しなかった。1968(昭和43)年1月11日には、林正之助が山口組と結託してレコード会社乗っ取り容疑で兵庫県警に逮捕されたこともある。
吉本興業のことについてなら、吉本興業の大番頭として有名だった木村政雄が常務時代に書いた一冊『笑いの経済学』についての読書感想を書いた以下参考に記載のブログ「松岡正剛の千夜千冊『笑いの経済学』木村政雄」などもみられるとよい。
ま~、兎に角、いろいろ内紛もあるようだが、金儲けというか営業面に関しては、色々学べる面も多くあり、たいしたものだと思うよ。
参考:
グランド花月ホームページ
http://www.yoshimoto.co.jp/ngk/
花のれん - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD26079/
【PDF】落語の歴史 その 1 寄席の始まり
http://www.kcc.zaq.ne.jp/hakua/rekisisennzenn.pdf
吉本興業 - 日本最古の芸能プロダクション | R25
http://r25.jp/b/wp/a/wp/n/%8Bg%96%7B%8B%BB%8B%C6/i/%93%FA%96%7B%8D%C5%8C%C3%82%CC%8C%7C%94%5C%83v%83%8D%83_%83N%83V%83%87%83%93
米沢彦八 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%B2%A2%E5%BD%A6%E5%85%AB
※中野文庫 - 褒章条例
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/fm14-63.htm
今日のことあれこれと・・・ 「天満天神繁盛亭」開館日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/ed71ecd0f24a3a901f94f0fc9559ee0c
泥沼スキャンダル 吉本にこれから起こる激震
http://news.livedoor.com/article/detail/3116482/
第38回 吉本興業創業者・吉本せいと林正之助
そして、お家騒動勃発!ワテほんまによう言わんわ~ (07.4.20記)
http://episode.kingendaikeizu.net/38.htm
1985(昭和60)年の今日(3月30日)は 歌手・笠置シヅ子の忌日。
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/ce56581b8c51b74f12d30f6b680715a2
松岡正剛の千夜千冊『笑いの経済学』木村政雄
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1123.html
笑いの経済学―吉本興業・感動産業への道
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0012-a/index.html
吉本興業の創業者一族と主導権争いの歴史
http://72.14.235.132/search?q=cache:nnN09El8CQsJ:m-dictionary.ameba.jp/%258Bg%2596%257B%258B%25BB%258B%25C6/16+%E5%90%89%E6%9C%AC%E5%90%89%E5%85%B5%E8%A1%9B&cd=10&hl=ja&ct=clnk&gl=jp