今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

映画俳優・藤田 進(「姿三四郎」で有名)の忌日

2009-03-23 | 人物
今日・3月23日は藤田 進(映画俳優)の1990(平成2)年の忌日。
藤田 進は、昭和期を代表スターの1人であった。・・・と言っても、もう知っている人も少なくなっているだろうし、私も年代的に懐かしい俳優の1人であるが、彼の経歴それと戦前の映画等については有名なものを覗き余り知っているわけではない。
彼が映画俳優となるまでの経歴につき、「Wikipedia」を見ると、1912(明治45)年1月8日福岡県久留米市生れ。1929(昭和4)年に、南筑中学校(現・久留米市立南筑高等学校)を卒業後、上京し、大学を受験するが、失敗し、その帰途京都に立ち寄った際、市川右太衛門プロダクションで古海卓二の助監督を務める郷里の先輩を訪ねた際、俳優になるよう勧められ、1930(昭和5)年、市川右太衛門プロに入り、エキストラで出演したのが、俳優になるきっかけであったそうだ。その後、1931(昭和6)年に東亜キネマに入るも芽が出ず、翌1932(昭和7)に兵役につき、第12師団の砲兵隊に入隊、対馬や横須賀での兵役を勤めたのち除隊。1934(昭和9)年に、マキノ正博の京都映音(以下参考の「※松竹京都映画撮影所」参照)に録音係として入社したのを経て、1939(昭和14)年、再び俳優を志し東宝に入社。当初は大部屋俳優だったが、1940(昭和15)年に「妻の場合」(前編・後編)で入江たか子高田稔と共演し、素朴で真摯な二枚目俳優として注目を受け、その後は立て続けに主役に起用されるようになったようだ。
そして、1943(昭和18)年、黒澤明に見いだされ、同監督の監督デビュー作品「姿三四郎」の主演を務め、その名は、黒澤と共に広く知れ渡ることとなる。
この頃からの名の知れた映画なら、戦前のものでも、戦後、TVなどで放映されたのでよく知っている。
1937(昭和12)年7月7日に始まった日中戦争(支那事変)によって、日本の満州事変以来の軍国主義的膨張を警戒する英米仏と日中戦争の長期化は欧米の対中軍事支援によるとする日本の関係は急速に悪化、アメリカ合衆国が航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限するなど、日本の締め上げが図られたことから、1940(昭和15)年に、日独伊三国軍事同盟を締結し、日本は、12月1日の御前会議で、難航していた日米交渉の打ち切りと日米開戦を決定、択捉島からハワイ真珠湾へ向けて出撃、太平洋戦争に突入していった。開戦当初は勇ましかった日本軍も、1942(昭和17)年6月5日ミッドウェー海戦(~7日)で敗北後、以後は米側が圧倒してくる事となる。
そして、日本軍が、1943(昭和18)年2月ガダルカナル島から撤退を始めるなど、戦局が険しくなるなか、3月25日、東宝で「姿三四郎」が公開された。この映画は、富田常雄の小説を原作とした映画である。明治の中期、柔術を志していた三四郎だったが、矢野正五郎と出会い、柔道の素晴らしさを知り矢野の弟子となり、厳しい修行のおかげでみるみる力をつけるが、いつしか慢心を生むことにもなり、他流試合を申し込まれ、得意の必殺技「山嵐」で投げ飛ばした相手を死なせてしまうことも・・。しかし、師匠の教えのもと修行し、1人前になっていくというものである。
はじめ画家を志し、二科展にも入選したことのある、黒澤は、活動弁士でもあった兄の影響から、1936(昭和)年、画業に見切りをつけて26歳でP.C.L映画製作所(現在の東宝)に入社社し、山本嘉次郎に師事して映画を学ぶが戦時統制が強化されてゆくなか、演出の機会がなく、脚本に専念していた。そんな黒澤の満を持してのデビュー作がこの「姿三四郎」であった。
ラストの三四郎と桧垣源之助の右京ヶ原での死闘が見せ場。強風の吹き荒れるなかで、三四郎が民謡「田原坂」唄う。この熊本の民謡は西南戦争時の激戦を歌ったもので日露戦争当時に士気高揚のため作られたものである。歌を知らない人は、以下を参照されると良い。
田原坂(熊本民謡)
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tabaruzaka.html
この作品では、主役の三四郎役藤田以外に、矢野正五郎役の(大河内傳次郎)、村井半助に志村喬、桧垣源之助は月形龍之介、村井の娘小夜役には轟由紀子と、当時の豪華キャストが配置されている。
この物語の姿三四郎のモデルは会津生まれ、明治中期の実在の柔道家で講道館四天王の1人である西郷四郎と言われている。藤田のあの朴訥(ぼくとつ)とした話し方と武骨な感じは、当時の柔道に打ち込む三四郎を演じるのにぴったりはまっていたようだ。
戦局が推移し、翌1944(昭和19)年にもなると、日劇など全国の大劇場は多数閉鎖され軍需産業などに振り向けられるようになる。そのようななか多くの戦意高揚映画が作成されるようになるが、1944(昭和19)年3月「加藤隼戦闘隊」が公開され大ヒットを記録する。
加藤隼戦闘隊とは、太平洋戦争(大東亜戦争)初期に南方戦線で活躍した加藤建夫陸軍中佐(戦死後、2階級特進で陸軍少将)率いる、大日本帝国陸軍飛行第64戦隊のこと。映画は、マレー・ビルマ両作戦に参加し戦死した加藤建夫中佐の半生をドキュメンタリータッチで描いたもので、藤田がその加藤隊長に扮した。彼はその男性的な風貌からそれ以前にも軍人に扮しているが、この映画に出演してからと言うもの、本物の軍人から敬礼されるほどに“軍人スター」として一目おかれるようになったようだ。軍部も藤田を戦地へ送るよりは軍人スタートして戦意高揚映画に出演させる方が効果的と考えたようであり、彼を招集延期にしたという。普段から丸坊主で通した藤田は軍人役がはまり過ぎただけに、翌年の戦争終結後に、映画関係者から戦犯にされるかもしれないなどといわれ、実際には戦犯などにはならなかったが、戦争に幾分でも加担したかもしれないと考えた藤田は、俳優を辞めることも真剣に考えたという(宮本治雄=映画評論化。朝日クロニクル「週間20世紀」より)。
又、この映画に登場する軍用機は、安易に既存のニュース映画や記録フィルムからの転用拝借などはせずにこの映画のためだけに大半のシーンで実際に、「」戦闘機を始め、現役日本軍機の本物を飛ばし、また敵機役のブリュースターバッファロー戦闘機や、カーチスP-40戦闘機などでさえも、実際の南方戦線で鹵獲(ろかく〔「鹵」はうばう、かすめる意〕敵の軍用品・兵器などをぶんどること。)された本物の連合軍戦闘機が、映画の為に用意され飛ばされるなどリアリズムに徹しており、戦時中の国威掲揚映画という側面はあるものの、戦前中の戦争映画、特撮映画、そして往年の名機達の本物の息吹が感じられる貴重な日本映画の白眉のひとつとして記憶されるものとなっているようだ。なお、この映画の特撮監督は、円谷英二である。なお、「エンジンの音 轟々と・・・」で始まる有名な軍歌「加藤隼戦闘隊」は1940(昭和15年)年)3月に南寧で作られたもので、正式な曲名は「飛行第六十四戦隊歌」だそうである。1941(昭和16)年元日に公開されたニュース映画で広く知れ渡るようになり、映画封切直前の1943(昭和18)年に灰田勝彦の歌でレコード化されたものだという。以下で、その歌とともに、当時の若々しい藤田の画像が見れるよ。
YouTube - 加藤隼戦闘隊
http://www.youtube.com/watch?v=MS12isLjS5w
この「加藤隼戦闘隊」のあと、1945(昭和20)年5月に、大ヒットした「姿三四郎」の続編「続姿三四郎」(黒澤監督)が公開されているが、この映画は、前作のラストシーンで決闘に敗れた檜垣源之助の弟、鉄心と源三郎が三四郎の打倒をねらうもので、ラストの決闘シーンは極寒の中、志賀高原で撮影が行なわれた。しかし、黒澤自身は、余りこの映画の製作に意欲的ではなかったといわれる。そして、1945(昭和20)年に黒澤監督の「虎の尾を踏む男達」の撮影中に敗戦を迎える。この映画は、歌舞伎「勧進帳」を題材に作った、黒澤初の時代劇であり、源義経の関所越えの逸話をミュージカル風に描いた独特な映画であるが、武蔵坊弁慶には、大河内傳次郎が、富樫左衛門役を藤田が演じている。しかし、敗戦により、GHQの統制下にあった時代、「主君への忠誠という封建的思想」を扱っているとの理由で上映禁止処分を下したため、当作の初上映はサンフランシスコ講和条約締結後の1952(昭和27)年まで遅れる事となった。
8月に終戦、俳優を辞めようと考えた藤田だが、代わる職業が考えつかぬまま結局俳優を続けることになり、1946(昭和21)年、黒澤の戦後第1作「わが青春に悔いなし」(公開10月29日)に出演した。この映画は、同年2月と8月の2度にわたる東宝ストライキ東宝争議の合間につくられた。主役原節子の演じる八木原幸枝は現実的で意志の強い自己主張にあふれる女性であり、それまでの強い男の蔭で健気に生きる従順なタイプの日本女性とは対照的なヒロインが観客を圧倒した。藤田は、その相手役で、戦時中に自由主義者としての立場を貫いて獄死する青年・野毛隆吉役を熱演、これが彼の戦後の代表作となった。
藤田は、東宝争議で、大河内伝次郎や長谷川一夫と共に「十人の旗の会」に加わり、新東宝映画の設立に参加。このため、東宝に残った黒澤の作品からは離れることとなった。新東宝ではメロドラマからアクション物まで多くの映画に出演した。1957(昭和32)年からはフリーとなり、再び東宝作品を中心に、主に脇役として存在感を見せた。黒澤映画には「隠し砦の三悪人」(1958年)で復帰。これは脇役ながら主演の三船敏郎と戦うことになる田所兵衛という重要な役所であった。その後も黒澤作品には、「用心棒」など3作に出たが、ごく僅かな出演シーンにとどまっている。戦後の作品でも戦争映画の軍人役が多かったが、その威風堂々とした貫禄を買われ、特撮映画にも防衛隊幹部といった役柄で多く出演。テレビの「ウルトラセブン」にも地球防衛軍ヤマオカ長官としてセミレギュラー出演するなど、特撮俳優としても名を知られている。また実業家としても自動車販売店の経営や投資会社の社長になるなど、多彩な活躍をしていたというが、そのことはよく知らない。
(画像はコレクションの絵葉書。左:黒澤監督第1回作品「姿三四郎」右: 「続姿三四郎」のポスターを、絵葉書にしたもの。平成11年沖縄那覇中央郵便局が発行したもの。これらの絵葉書は、私のHPここで案内している)
参考:
藤田進 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E9%80%B2
太平洋戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
田原坂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%9D%82
映画瓦版
http://www.eiga-kawaraban.com/index.html
藤田進 (フジタススム) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/86587/
藤田進-映画
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0310410.htm
黒澤明 (クロサワアキラ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/92720/
※松竹京都映画撮影所
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/makino/aruke/aruke15.html
日本映画 /.戦時下の映画
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/9110/%93%FA%96%7B%89f%89%E6/7/