今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

映画俳優・藤田 進(「姿三四郎」で有名)の忌日

2009-03-23 | 人物
今日・3月23日は藤田 進(映画俳優)の1990(平成2)年の忌日。
藤田 進は、昭和期を代表スターの1人であった。・・・と言っても、もう知っている人も少なくなっているだろうし、私も年代的に懐かしい俳優の1人であるが、彼の経歴それと戦前の映画等については有名なものを覗き余り知っているわけではない。
彼が映画俳優となるまでの経歴につき、「Wikipedia」を見ると、1912(明治45)年1月8日福岡県久留米市生れ。1929(昭和4)年に、南筑中学校(現・久留米市立南筑高等学校)を卒業後、上京し、大学を受験するが、失敗し、その帰途京都に立ち寄った際、市川右太衛門プロダクションで古海卓二の助監督を務める郷里の先輩を訪ねた際、俳優になるよう勧められ、1930(昭和5)年、市川右太衛門プロに入り、エキストラで出演したのが、俳優になるきっかけであったそうだ。その後、1931(昭和6)年に東亜キネマに入るも芽が出ず、翌1932(昭和7)に兵役につき、第12師団の砲兵隊に入隊、対馬や横須賀での兵役を勤めたのち除隊。1934(昭和9)年に、マキノ正博の京都映音(以下参考の「※松竹京都映画撮影所」参照)に録音係として入社したのを経て、1939(昭和14)年、再び俳優を志し東宝に入社。当初は大部屋俳優だったが、1940(昭和15)年に「妻の場合」(前編・後編)で入江たか子高田稔と共演し、素朴で真摯な二枚目俳優として注目を受け、その後は立て続けに主役に起用されるようになったようだ。
そして、1943(昭和18)年、黒澤明に見いだされ、同監督の監督デビュー作品「姿三四郎」の主演を務め、その名は、黒澤と共に広く知れ渡ることとなる。
この頃からの名の知れた映画なら、戦前のものでも、戦後、TVなどで放映されたのでよく知っている。
1937(昭和12)年7月7日に始まった日中戦争(支那事変)によって、日本の満州事変以来の軍国主義的膨張を警戒する英米仏と日中戦争の長期化は欧米の対中軍事支援によるとする日本の関係は急速に悪化、アメリカ合衆国が航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限するなど、日本の締め上げが図られたことから、1940(昭和15)年に、日独伊三国軍事同盟を締結し、日本は、12月1日の御前会議で、難航していた日米交渉の打ち切りと日米開戦を決定、択捉島からハワイ真珠湾へ向けて出撃、太平洋戦争に突入していった。開戦当初は勇ましかった日本軍も、1942(昭和17)年6月5日ミッドウェー海戦(~7日)で敗北後、以後は米側が圧倒してくる事となる。
そして、日本軍が、1943(昭和18)年2月ガダルカナル島から撤退を始めるなど、戦局が険しくなるなか、3月25日、東宝で「姿三四郎」が公開された。この映画は、富田常雄の小説を原作とした映画である。明治の中期、柔術を志していた三四郎だったが、矢野正五郎と出会い、柔道の素晴らしさを知り矢野の弟子となり、厳しい修行のおかげでみるみる力をつけるが、いつしか慢心を生むことにもなり、他流試合を申し込まれ、得意の必殺技「山嵐」で投げ飛ばした相手を死なせてしまうことも・・。しかし、師匠の教えのもと修行し、1人前になっていくというものである。
はじめ画家を志し、二科展にも入選したことのある、黒澤は、活動弁士でもあった兄の影響から、1936(昭和)年、画業に見切りをつけて26歳でP.C.L映画製作所(現在の東宝)に入社社し、山本嘉次郎に師事して映画を学ぶが戦時統制が強化されてゆくなか、演出の機会がなく、脚本に専念していた。そんな黒澤の満を持してのデビュー作がこの「姿三四郎」であった。
ラストの三四郎と桧垣源之助の右京ヶ原での死闘が見せ場。強風の吹き荒れるなかで、三四郎が民謡「田原坂」唄う。この熊本の民謡は西南戦争時の激戦を歌ったもので日露戦争当時に士気高揚のため作られたものである。歌を知らない人は、以下を参照されると良い。
田原坂(熊本民謡)
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tabaruzaka.html
この作品では、主役の三四郎役藤田以外に、矢野正五郎役の(大河内傳次郎)、村井半助に志村喬、桧垣源之助は月形龍之介、村井の娘小夜役には轟由紀子と、当時の豪華キャストが配置されている。
この物語の姿三四郎のモデルは会津生まれ、明治中期の実在の柔道家で講道館四天王の1人である西郷四郎と言われている。藤田のあの朴訥(ぼくとつ)とした話し方と武骨な感じは、当時の柔道に打ち込む三四郎を演じるのにぴったりはまっていたようだ。
戦局が推移し、翌1944(昭和19)年にもなると、日劇など全国の大劇場は多数閉鎖され軍需産業などに振り向けられるようになる。そのようななか多くの戦意高揚映画が作成されるようになるが、1944(昭和19)年3月「加藤隼戦闘隊」が公開され大ヒットを記録する。
加藤隼戦闘隊とは、太平洋戦争(大東亜戦争)初期に南方戦線で活躍した加藤建夫陸軍中佐(戦死後、2階級特進で陸軍少将)率いる、大日本帝国陸軍飛行第64戦隊のこと。映画は、マレー・ビルマ両作戦に参加し戦死した加藤建夫中佐の半生をドキュメンタリータッチで描いたもので、藤田がその加藤隊長に扮した。彼はその男性的な風貌からそれ以前にも軍人に扮しているが、この映画に出演してからと言うもの、本物の軍人から敬礼されるほどに“軍人スター」として一目おかれるようになったようだ。軍部も藤田を戦地へ送るよりは軍人スタートして戦意高揚映画に出演させる方が効果的と考えたようであり、彼を招集延期にしたという。普段から丸坊主で通した藤田は軍人役がはまり過ぎただけに、翌年の戦争終結後に、映画関係者から戦犯にされるかもしれないなどといわれ、実際には戦犯などにはならなかったが、戦争に幾分でも加担したかもしれないと考えた藤田は、俳優を辞めることも真剣に考えたという(宮本治雄=映画評論化。朝日クロニクル「週間20世紀」より)。
又、この映画に登場する軍用機は、安易に既存のニュース映画や記録フィルムからの転用拝借などはせずにこの映画のためだけに大半のシーンで実際に、「」戦闘機を始め、現役日本軍機の本物を飛ばし、また敵機役のブリュースターバッファロー戦闘機や、カーチスP-40戦闘機などでさえも、実際の南方戦線で鹵獲(ろかく〔「鹵」はうばう、かすめる意〕敵の軍用品・兵器などをぶんどること。)された本物の連合軍戦闘機が、映画の為に用意され飛ばされるなどリアリズムに徹しており、戦時中の国威掲揚映画という側面はあるものの、戦前中の戦争映画、特撮映画、そして往年の名機達の本物の息吹が感じられる貴重な日本映画の白眉のひとつとして記憶されるものとなっているようだ。なお、この映画の特撮監督は、円谷英二である。なお、「エンジンの音 轟々と・・・」で始まる有名な軍歌「加藤隼戦闘隊」は1940(昭和15年)年)3月に南寧で作られたもので、正式な曲名は「飛行第六十四戦隊歌」だそうである。1941(昭和16)年元日に公開されたニュース映画で広く知れ渡るようになり、映画封切直前の1943(昭和18)年に灰田勝彦の歌でレコード化されたものだという。以下で、その歌とともに、当時の若々しい藤田の画像が見れるよ。
YouTube - 加藤隼戦闘隊
http://www.youtube.com/watch?v=MS12isLjS5w
この「加藤隼戦闘隊」のあと、1945(昭和20)年5月に、大ヒットした「姿三四郎」の続編「続姿三四郎」(黒澤監督)が公開されているが、この映画は、前作のラストシーンで決闘に敗れた檜垣源之助の弟、鉄心と源三郎が三四郎の打倒をねらうもので、ラストの決闘シーンは極寒の中、志賀高原で撮影が行なわれた。しかし、黒澤自身は、余りこの映画の製作に意欲的ではなかったといわれる。そして、1945(昭和20)年に黒澤監督の「虎の尾を踏む男達」の撮影中に敗戦を迎える。この映画は、歌舞伎「勧進帳」を題材に作った、黒澤初の時代劇であり、源義経の関所越えの逸話をミュージカル風に描いた独特な映画であるが、武蔵坊弁慶には、大河内傳次郎が、富樫左衛門役を藤田が演じている。しかし、敗戦により、GHQの統制下にあった時代、「主君への忠誠という封建的思想」を扱っているとの理由で上映禁止処分を下したため、当作の初上映はサンフランシスコ講和条約締結後の1952(昭和27)年まで遅れる事となった。
8月に終戦、俳優を辞めようと考えた藤田だが、代わる職業が考えつかぬまま結局俳優を続けることになり、1946(昭和21)年、黒澤の戦後第1作「わが青春に悔いなし」(公開10月29日)に出演した。この映画は、同年2月と8月の2度にわたる東宝ストライキ東宝争議の合間につくられた。主役原節子の演じる八木原幸枝は現実的で意志の強い自己主張にあふれる女性であり、それまでの強い男の蔭で健気に生きる従順なタイプの日本女性とは対照的なヒロインが観客を圧倒した。藤田は、その相手役で、戦時中に自由主義者としての立場を貫いて獄死する青年・野毛隆吉役を熱演、これが彼の戦後の代表作となった。
藤田は、東宝争議で、大河内伝次郎や長谷川一夫と共に「十人の旗の会」に加わり、新東宝映画の設立に参加。このため、東宝に残った黒澤の作品からは離れることとなった。新東宝ではメロドラマからアクション物まで多くの映画に出演した。1957(昭和32)年からはフリーとなり、再び東宝作品を中心に、主に脇役として存在感を見せた。黒澤映画には「隠し砦の三悪人」(1958年)で復帰。これは脇役ながら主演の三船敏郎と戦うことになる田所兵衛という重要な役所であった。その後も黒澤作品には、「用心棒」など3作に出たが、ごく僅かな出演シーンにとどまっている。戦後の作品でも戦争映画の軍人役が多かったが、その威風堂々とした貫禄を買われ、特撮映画にも防衛隊幹部といった役柄で多く出演。テレビの「ウルトラセブン」にも地球防衛軍ヤマオカ長官としてセミレギュラー出演するなど、特撮俳優としても名を知られている。また実業家としても自動車販売店の経営や投資会社の社長になるなど、多彩な活躍をしていたというが、そのことはよく知らない。
(画像はコレクションの絵葉書。左:黒澤監督第1回作品「姿三四郎」右: 「続姿三四郎」のポスターを、絵葉書にしたもの。平成11年沖縄那覇中央郵便局が発行したもの。これらの絵葉書は、私のHPここで案内している)
参考:
藤田進 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E9%80%B2
太平洋戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
田原坂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%9D%82
映画瓦版
http://www.eiga-kawaraban.com/index.html
藤田進 (フジタススム) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/86587/
藤田進-映画
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0310410.htm
黒澤明 (クロサワアキラ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/92720/
※松竹京都映画撮影所
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/makino/aruke/aruke15.html
日本映画 /.戦時下の映画
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/9110/%93%FA%96%7B%89f%89%E6/7/

カラー映画の日

2009-03-21 | 記念日
1951(昭和26)年の今日(3月21日)、国産初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」(脚本・監督:木下惠介)が封切られた。
当時、既に大女優としてその名も高い高峰秀子小林トシ子とともにストリッパー役で出演している。
内容は、家出して東京でストリッパーをしているカルメン(高峰秀子)こと、ちょっとおつむの弱いおきんは、男性たちを魅了することのできる裸踊りを芸術だと信じて疑わない。そんな彼女が、仲間の朱美(小林トシ子)とともに芸術家気取りで信州の故郷に里帰りしたことから、静かな村が大騒ぎとなるコメディもので、彼女達のセミ・ヌードを総天然色で見せた。・・・といっても、今の時代と違って、まだ戦後占領下の映画でもあり 高峰と小林扮する天真爛漫で能天気なストリッパーがヘソと太ももを露わにする程度のものであり、それを見てこの時代の村の人は衝撃を受けたのだ・・・(こんなもの)(^0^)。
故郷に錦を飾ろうとするストリッパー・カルメンを演じる高峰の明るく爽やかな演技が、また、その反対に、出征で視力を失うも、貧しさに耐えながら作曲家として曲を作り続ける田口先生(佐野周二)の作曲した浅間の風景
火の山の 麓の村よ
なつかしの ふるさと
花に木に 梢の鳥に
光満てる わが里
と、「そばの花咲く」(映画挿入歌、木下忠司作曲)をオルガンを弾きながら子どもたちと謳う場面が印象的である。一途な思いで相反する生き方をするそれぞれの人間の美しさと哀しさを木下惠介がコメディとして見事に表現。戦後6年を経過し、自由でどことなく軽薄な風潮と、それに対する賛否両論の世論を風刺した映画といえる。
この映画は、総天然色映画とうたわれてヒットを記録。翌年の1952(昭和27)年には続編として「カルメン純情す」(goo-映画参照)が製作された。
戦後になって、戦前戦中の作品を含む大量の外国映画が輸入されるが、その中に、自国では見られなかったアメリカのカラー映画などに刺激され、日本でも本格的なカラー映画を製作しようとする機運が高まっていたことから、1950(昭和25)年に、諸外国に比べ立ち遅れている天然色映画を振興させることは、単に娯楽としてだけでなく、学術、教育、観光面などでも重要なものとした決議案が4月18日の衆議院本会議で満場一致で通過。一刻も早く天然色化を進め、米・英・ソに継ぐ世界第4位の天然色映画国として、外貨獲得に乗り出そうということも狙いと伝えられているという(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)。
そして、作られたのがこの映画であるが、それまで、部分使用や短編のカラーではあったが、長編のカラー映画では日本で初めてとされている。1937年の「千人針」(goo-映画参照)が日本最初のカラー映画と言われるが、この映画のフィルムは国産ではなかった。
「カルメン故郷に帰る」は、トーキーに続く「日本初」を目指し、松竹富士フイルムにより松竹大船撮影所で製作されたもの。
当時カラー映画を撮影するためには強い光が欠かせず、出演者はものすごい照明熱のなかで撮影に挑んだのだという。映画の舞台も当初設定されていた上高地北軽井沢に変更したのも、軽井沢の方が安定した日照が期待できたことがその理由の1つになっているそうだ。
それに、カラー映画には技術やコストの面で問題が多く、万一この映画がカラー映画として満足のゆく出来にはならかった場合を考えて、撮影は先ずフジ・カラーで撮影を行い同時にそれが終わってから改めてモノクロでも製作されるといった二度手間をかけて撮り上げた作品だそうだ。なおカラー版と平行して撮影されたモノクロ版は、映画公開後に破棄されたものと長らく思われていたが、木下惠介の死後の遺品の中からオリジナルの16mmモノクロ版が発見され、その一部は松竹ホームビデオの『木下惠介DVD-BOX』に特典として収録されているのだそうだ。このカラー映画での撮影についてはここ日本初のカラー映画を参照。
さきに、国産ではないが日本最初のカラー映画「千人針」が1937年に公開されていたこと、又、それまでにも、部分使用や短編のカラーではあったことを書いていたが、そのことにも少し触れておこう。
かって、戦前の日本には、大正期にすでに、大日本天然色映画(略称天活、1914年3月17日設立)という会社があった。
無声映画時代に、イギリスで発明された新技術「キネマカラー」の特許を取得し、日本初のカラー映画「義経千本桜(吉野山道行)」(監督:吉野二郎 出演:坂東勝五郎 市川海老十)を製作し、設立1か月足らの1914(大正 3)年4月3日には東京・浅草キリン館で公開。同年、4月、「百花爛漫(美人と果物)」(浅草帝国館)、「花魁の道中」(浅草キリン館)、5月「海上飛行家」(浅草キリン館)、「日比谷公園の躑躅とものいふ花」(浅草帝国館)、6月 「伽羅先代萩」 「亀井戸と四つ目と浅草観音及び江の島の風景」、「黒染桜」、「忍夜恋曲者」、7月、「大正博覧会場と花電車」8月、「両国川開き」(いずれも浅草キリン館)、.11月、 「色彩の研究」(、浅草帝国館)、「関の扉」(月度、場所不明)等、連続公開。以下参考に記載の日本映画データベースの「1914年 公開作品一覧 359作品」、「1915年 公開作品一覧 248作品」、「1916年 公開作品一覧 248作品」、「1917年 公開作品一覧 312作品」、「1918年 公開作品一覧 223作品」、「1919年 公開作品一覧 182作品」、「1920年 公開作品一覧 265作品」を参照されたい。
キネマカラーとは、赤と緑に色分解して1コマづつ交互に赤と緑に撮影したものを、上映の際は赤と緑のフィルターに交互に投下させる方法のもの。しかし、キネマカラーによる映画に色をつける手法は手間がかかるとともに機械が思うように動作しなかったりで、採算が合わず最終的には5年後の1919(大正8)年に撤退した。
そして、再び日本映画にカラーを取り上げるようになるのは1930年代になってから。1931(昭和 6)年の満州事変以降十五年戦争に傾いていく中で映画や写真などが戦争を伝えるメディアの役割を果たすようになったからである。
そのような中で作られたのが、1937(昭和12)年に公開されたカラー映画「千人針」(大日本天然色映画製作所、三枝源次郎監督)である。内容を、私は見ていないが、“召集令状が届き支那事変(日中戦争)へ出征前にその母と会い、千人針に糸を通してもらい戦場へ赴く”・・・といったものらしい。
戦前の日本でも富裕層を中心に、アメリカ製コダック・カラーフィルムやドイツ製アグファ・カラーフィルムなどは、ホームムービーとして一部の家庭では存在していたようであるが、本格的に映画として作られたものが、この映画であり、大日本天然色映画製作所がマルチカラー方式と呼ばれる米国の技術を使って製作したといわれているが、そうすると、コダックのフイルムでも使って製作したのだろうか?
因みに、日本映画データベースの1937年 公開作品一覧を見ると、大日本天然色映画製作所は、1937年10月1日電気館にて「千人針」公開の前に、大阪常盤座で「月形半平太」(志波西果監督)を1937年2月28に公開しており、また、公開日不明ではあるが同じく電気館で「牡丹燈籠 」(宮田味津三監督)も公開している。そうすると、「千人針」が、日本最初のカラー映画と言うのも誤りのようで、同年に同社が.2月28に大阪常盤座で公開した「月形半平太」こそが、日本製のフイルム使用ではないが、日本初のカラー映画と言うことになるのだろうね~。(※大阪常盤座はかって南区千日前にあった日活の直営館だろう。以下参考に記載の「大阪の都市景観 その3」参照。又、電気館はかって浅草六区にあったものと思う)
さらに、戦時色が深まるに連れ、日本では輸入にたよっていたフィルムを国内で生産しなければならなくなったが、当時の技術ではカラーは完成することはなく、戦後になってやっと、公開された総天然色映画が「カルメン故郷に帰る」であり、それが、富士フイルムの「外型反転カラーフィルム」と言われるものであった。このことは、以下参考に記載の「FUJIFILM/ヒストリー 」や「Atelier Manuke」映画のページの国産カラーの時代を見られると詳しく書いてある。
又、映画に関連する日のことはほかにも今までに、このブログで、「映画の日」(12月1日)「初の日本製映画が歌舞伎座で公開 された日」「アカデミー賞設立記念日」などを、書いているので、興味のある人は覗いて見てください。
(画像は、映画「カルメン故郷に帰る」のワンシーン。中央:高峰秀子・アサヒクロニクル「週間20世紀」映画の100年より。)
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カラー映画の日:参考

2009-03-21 | 記念日
参考:
天然色活動写真 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%84%B6%E8%89%B2%E6%B4%BB%E5%8B%95%E5%86%99%E7%9C%9F
カルメン故郷に帰る - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%B3%E6%95%85%E9%83%B7%E3%81%AB%E5%B8%B0%E3%82%8B
高峰秀子 (タカミネヒデコ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/100709/index.htmlhttp://movie.goo.ne.jp/cast/100709/index.html 富士フイルムのあゆみ -カラー写真感光材料国産化の実現-
http://www.fujifilm.co.jp/history/dai2-03.html
千人針 (映画) – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BA%BA%E9%87%9D_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
日本映画発達史 1 (1) (中公文庫 H 5)
http://d.hatena.ne.jp/asin/4122002850/eigachudnoeig-22
京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト /第一映画撮影所
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/makino/aruke/aruke13.html
FUJIFILM/ヒストリー 
http://www.fujifilm.co.jp/history/
日本占領期年表・1950(昭和25)年
http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/senryou/1950.htm
日本映画データベース
http://www.jmdb.ne.jp/
20世紀の文化・思想カタログ /1914年/総天然色の映画
http://creative.cside2.jp/kindai-daigakuin-nb/sosaku-hyoron/project/catalogue/ca-1914-03-01.html
月形半平太 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BD%A2%E5%8D%8A%E5%B9%B3%E5%A4%AA
志波西果 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%B3%A2%E8%A5%BF%E6%9E%9C
吉野二郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E4%BA%8C%E9%83%8E
Atelier Manuke「映画のページ」
http://users.ejnet.ne.jp/~manuke/zatsu/eiga.html
大阪の都市景観 その3
http://homepage3.nifty.com/kindaikenchiku-yuuho/sakusaku/1_5.htm
今日は何の日~毎日が記念日~3月21日
http://www.nnh.to/03/21.html


「はなし、話、咄、噺」

2009-03-19 | ひとりごと
昨日、購読新聞で私が欠かさず読んでいる記事「天声人語」に「はなし」のことが載っていた(ここ参照)。そして、”「はなし」は、普通漢字で書けば、「話」であるが、「咄」や「噺」もある。口偏に新と書く「噺」の字づらには耳新しいニュースという印象がある▼片や「咄」は口から出まかせのようにも見える。国文学の故佐竹明広さんの『古語雑談』によれば、古くには、「話す」を「放す」と表した例もある。虚実ないまぜにした、肩のこらないおしゃべりが「はなし」の原義だったそうだ▼かくて人の話には、とかく出まかせが交じる。”・・として、”記者なら百も承知のはずが、日本テレビの面々は騙された。そして、社長が虚偽証言に基ずく誤報での責任をとり退職するはめになった”例をあげ、”記者たるものがきな臭い情報を疑ってかかる必要がある事は当然だろう”とし、英国の作家・オスカー・ワイルドの対話形式の『芸術論』の中に出てくる名言「素顔で語るとき、人は最も本音から遠ざかるが、仮面を与えれば真実を語り出す」・・・という名言を引用。”このようなことも皮肉ながら一面の真理であろうが、匿名の仮面の時は、無責任と表裏一体になる危うさをはらむものであり、これからの報道に、心すべきこと”と、手厳しく指摘していた。
以下参考に記載の「Seven Mile Beach File/言語録」には、 三島由紀夫の、
「あらゆる種類の仮面のなかで「素顔」という仮面を僕はいちばん信用しません」
の名言が載っていたが、これは、ワイルドの名言を意識してのものだろうか?
ワイルドや三島のこれらの名言、私もその通りだと思っている。
私は、現役時代、人を相手に一対一の営業を長くやって来たし、長年のサラリーマン生活の中での経験から、会社そのものや又、そこに真面目に勤めている幹部や同僚、特に気心の知れた飲兵衛仲間にしても、笑って酒酌み交わしながらも真実以外のことを多く話している者が多いことを知っているし、これは、親子、夫婦にしても多かれ少なかれあるものである。昔の人は、「目は口ほどに物を言うなんてよく言ったもので、目でいっていることと、言葉で話しているとは裏腹であることなどよくあるものだ。又、人から聞いたことをまるで知ったかのように話す事も多いのは事実である。・・・そう言っている私自身も、このブログを書く時には、蔵書やマスコミ情報などのほか「Wikipedia」その他ネットで得たことを基に知ったかのように書いているのだから(^0^)。
ただ、ネットだけではなくマスコミや蔵書といえるもの中ににも、結構誤っているものや、故意に情報を伏せているものもあることから、できる限り多くのものを調べるようにはしている。そのため、このようなたわい無いブログを書くにも結構時間を要してはいるのだが、そのこと事態について、現役も退き自由な身の私には、いろいろと調べてみること事態が楽しみの1つでもあり、苦にはならない。しかし、それでも、後日振り返って見ると”あれあれ・・・”といったことが結構あるので、人のことをあれこれと言う資格もない。その点、悪しからずご了承の上、このブログも見てくださるようお願いします。<(_ _)>
ただ、それはそれとして、以下参考に記載の「Seven Mile Beach File/言語録」には、
「米国では大統領は4年間統治するが、ジャーナリズムは永久に支配する」(オスカー・ワイルド)
「新聞を読まない人のほうが、読んでる人より正しく物事を認識できる。うそと偽りに心を奪われた人より真実に近い」(トーマス・ジェファーソン)
の2つの名言があったことと、私自身、このブログを書き始めて、数年、色々なことの裏づけの為に調べてていて、色々と政治家や企業そして世の中のできごとに対して非難めいたことを述べているジャーナリズムそのものが、「如何に、本当らしく、いい加減なことを結構多く伝えているか?」・・・といった疑問を最近は特に持つようになったこと、それは、私が愛読している「天声人語」を書いている社でも同じことであることは付け加えておこう。
もとの「はなし」話に戻るが、「はなし」を『広辞苑』で引くと、
①はなすこと。談話。浄瑠璃、女地獄油地獄「ーの内から腕もんで力みかけ」
②人と言葉をかわすこと。会話。「はなしがかみ合わない」
③聞いたこと。うわさ。「人のはなしによれば」
④相談ごと。「うまいはなし」「はなしに乗る」「はなしがまとまる」
⑤語られたわけ、事情。
⑥実際にはなくていってみるだけのこと。つくりごと。「おはなしにすぎない」
⑦「咄」「噺」とも書く。人に聞かせようとまとめた事柄。(ア)ものがたり。(イ)おとしばなし。(ロ)落語。
⑧ことの成り行きからみた、ある事。「ここで何もしないはなしはない」
と色々の意味に使われている。
①の浄瑠璃、女地獄油地獄「ーの内から腕もんで力みかけ」の「ー」部分の「はなし」では、「咄」の字が使われているようだ。(以下参考に記載の浄瑠璃「※女殺油地獄」参照)
ところで、この「咄」の字を、以下参考に記載の「日本語を読むための「漢字字典」」で調べてみると、
“【咄】は、「はなし」の意の国字とされることがあるが、咄嗟などの熟語を作る漢字であり、「はなし」は国訓である。『名義抄(観智院本)』に「アヤニク ヤ」とある。なお「噺」は国字である。“・・・とある。
又、“中国などにあることを知らずに作ったと考えられる文字〔「俥(くるま・じんりきしゃ)」・「閖(ゆり・しなたりくぼ)」・「鯏(あさり)」など〕や漢字に新たな意味を追加したもの〔「森(もり)」・「椿(つばき)」・「沖(おき)」など〕は、国字とは呼ばず、その訓に着目して 国訓と呼ばれる。”ともある。
つまり、「噺」という字は、【咄】とは異なり、漢字【咄】の字がある事を知っていて、その上で、漢字にならって日本で作られた独自の文字「国字(和製漢字)」のようである。
【咄】の元の読み「アヤニク ヤ」であるが、以下参考に記載の「PDD図書館管理番号:巌谷小波:作『羅生門』」を詠むと、「處が其晩は生憎(アヤニク)雨で」、「オヽ乳母(バ)<ア>(ヤ)か、久し振だつたなア。』と振り仮名がされているように、今では、「生憎」と書いて「あいにく」と読んではいるが、これは「アヤニクの転」で、“期待や目的にはずれて、都合のわるいさま。折わるく。”(【広辞苑】)と言った意味のようだ。
又、以下参考に記載の「●は行な」に、幕末の“喜多川守貞の『守貞漫稿』(近世風俗志)第三十二編には、「噺・咄、ともに、はなしと訓ず。話の俗字なり。近世、道具入怪談咄と号け、終始ともに婦女怨念等を咄し、終に高座背ょり幽霊の木偶等を出すこと行はる。又、昔咄と云ふは、虚実ともに実事の如く、或は小歌、或は役者声色を交へ、一日或は一夜に咄し終らず、数日数夜を次でし、咄し終ること行はる。落し咄は、滑稽専一なり。専ら前座落し咄、真は昔咄なり」”とある。もう少し引用させてもらうと、
単に、はなし【咄・噺】(名)は落語のことをいい。「はなしか」は落語家のことをいう。
嘲家は世上のあらで飯を食ひ
口で飯食ふは咄家・講釈師
『大坂穴探』(明治)寄席の条に、「落語家(はなしか)は此地に寄席の設けありてより以来(このかた)始めて出来たるものにして、其最も旨とする所は滑稽と猥褻となり。近来猥褻は違警罪に間はるゝの恐れあれば、稍や其醜を減じたるに似たりといへども、元来猥褻は落語家のいはゆる落語(はなし)の原質とも云ふべきものなれば、これを厳禁する時は殆んど其業を為す能はざるものの如し。殊に大坂は猥褻を喜ぶの風あれば、けだしこれを絶つと同時に落語家の寄席に往くものまた其跡を断つべし。さて又落語家の滑稽は言語に加ふるに動作を以てす。人情叢裡、素裸になり、諧謔おとがひを解き、醜体眠(まなこ)を汚すの挙動あるは、田舎は暫くこれを措き、大都会の大坂には感ずべからず。最もこれ人気の向く所にして、随って落語家も亦むしろ真味の譚(ものがたり)よりほんの一場の笑柄をよしとするに在りとするか。成程古昔は一分線香即席話とて、わづかの間に一落語(ひとばなし)を終りたりと云へば、けだし是れ落語家の本体に適ふものならんか。“・・・とある。「咄」の意味が良くわかって面白い。
このような「はなし」を聞くと、「天声人語」の解釈に、「咄」は口から出まかせのようにも見える。」とあるのも頷けるし、これに対して、口偏に新と書いた「噺」は、耳新しいニュースと言った意味合いから別に独自の和製漢字が作られたのだろうことも理解できる。普段は何気なく使っている「漢字」であるが「話」「咄」「噺」で使うときの意味合いが違ってくるというのが、日本語の面白いところであり、難しいところではある。最近流行のクイズ番組でも漢字が話題になっているが、この機会に「漢字」を少し勉強して見るのも良いいのでは・・・。
最後に右翼思想家でもあった三島由紀夫は、大儀のために死にたいと語り、楯の会会長として1970(昭和45)年に、自衛隊にクーデターを促し失敗、割腹自殺を遂げ世間を騒然とさせ(三島事件。)ことがあるが、以下で三島が放している「はなし」は、「話」?「咄」?「噺」?・・・?
YouTube - 三島由紀夫
http://www.youtube.com/watch?v=EwUhRRWOwjU
(画像は、女殺油地獄 [DVD]出演: 松田優作, 山崎努)
参考:
三島由紀夫 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
女殺油地獄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%AE%BA%E6%B2%B9%E5%9C%B0%E7%8D%84
天声人語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%A3%B0%E4%BA%BA%E8%AA%9E
asahi.com(朝日新聞社):天声人語3月18日
http://www.asahi.com/paper/column20090318.html
オスカー・ワイルド – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89
オスカー・ワイルド 最初の現代人
http://www.geocities.jp/oscar_wilde_fansite/
Seven Mile Beach File/言語録
http://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/core/quotdata/quotj.htm
芸術家としての批評家/オスカー・ワイルド
http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/book/017.htm
※女殺油地獄
http://sakiho.com/Japanese/bunraku/scripts/onnagoroshi.html
日本語を読むための「漢字字典」
http://ksbookshelf.com/nozomu-oohara/index.html
国字 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%97
類聚名義抄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%9E%E8%81%9A%E5%90%8D%E7%BE%A9%E6%8A%84
『日本昔噺』(東洋文庫)
http://www.d1.dion.ne.jp/~ueda_nob/wildcat/nippon.html
巌谷小波 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%8C%E8%B0%B7%E5%B0%8F%E6%B3%A2
PDD図書館管理番号:巌谷小波:作『羅生門』
http://pddlib.v.wol.ne.jp/literature/sazanami/rashomon.txt
●は行な
http://www.eonet.ne.jp/~pilehead/osaka_word/text/honbunhana.htm
落語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E8%AA%9E
Kobe Library Network Materials Search
https://www.lib.city.kobe.jp/opac/opacs/find_books?link=AA%3A0004999339&searchmode=allink&topage=1&topage_mag=1&topage_av=1
第91回 生涯現役講座記録
http://orange.zero.jp/hnw.boat/kph/kph-91/kph-91.html
●落語 らくご
http://www.tabiken.com/history/doc/T/T020R100.HTM
市場直次郎コレクション:咄本
http://www.dl.saga-u.ac.jp/OgiNabesima/ichiba.php?book=hanashibon
安楽庵策伝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%A5%BD%E5%BA%B5%E7%AD%96%E4%BC%9D
●きのふはけふの物語
http://hwm6.gyao.ne.jp/shin1bb/waraibanasi/kinohuhakehuno.html
トーマス・ジェファーソン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3

大阪で国防婦人会発足。白エプロンにたすきがけで銃後体制を支える。

2009-03-18 | 歴史
1932(昭和7)年の今日・3月18日、大阪で国防婦人会発足。会員は早速活動をはじめ、大阪駅を通過する出征兵士に炊き出しのサービスをした。
10月24日には全国組織の大日本国防婦人会が発足。銃後の固めを急ぐ軍部の指導でつくられたもので発足当時の会員は50万人だったという(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。
1904(明治37)年、日露戦争が勃発、1937(昭和12)年には、日清戦争が始まり、1941年になると、太平洋戦争へ突入すると戦地に赴く兵士の数は急激に増えた。銃後を守る女性たちは、兵士の無事を祈って「千人針」をつくり、出征して前線〔戦地)で戦っている兵士のために慰問袋を贈った。「千人針」は手拭ほどの大きさの白木綿の布に千人の女性の手で一針づつ縫って赤い糸の結び目を付けたものである。戦地に向かう兵士がこれを身につけていれば敵の銃弾から逃れると信じられていた。この風習は日露戦争の頃関西で流行したもので、そのころは、「千人結」と呼ばれていたそうだ。それが「千人針」として、再び全国に広まったのは、1931(昭和6)年満州事変の頃からだそうである。
赤紙で召集令状受け取った男達の母や妻、姉妹達は隣近所の女性に頼んで糸を結んでもらった。身内のものだけでなく、国防婦人会、大日本婦人会、大日本連合女子青年団なども積極的に千人針作りに参加した。このような母や妻たちの無事帰還の祈りをこめて贈られた千人針を兵士は肌身離さず大切に持っていたのである。
戦前の1936(昭和11)年から国民歌謡と言われるものがつくられるが、1937(昭和12)年7月に盧溝橋事件が起こると、歌の世界にもだんだん戦時色が濃くなり、 国民歌謡も本来の主旨とは違った方向へ曲げられていった。サトウハチロー作詞の「千人針」が放送されたのは、8月23日からだという。この曲は知らないのでどんな曲かと思って検索してみると曲はなかったが、以下参考に記載の「戦時中の国内生活・戦争第一部内地編」に詩が載っていた。一番だけ引用させてもらうと以下のようなものである。
「橋のたもとに 町角に 並木の路に 停車場に 
       千人針の 人の数 心をこめて 運ぶ針」
私も戦前の小さな子供の頃に、出生する兵隊さんのために私の母や近所の人達も協力して布に赤い糸で千人針を結っていたのをおぼろげながら覚えている。千人針の起源は不明であるが、無事に帰還して欲しいという願いを大勢の人の力に頼った合力祈願が始まりのようである。千人針には「死戦(4銭)をこえる、苦戦(9銭)を免れるという縁起をかついで、5銭や10銭硬貨を縫い付けたものもあったようだ。一方戦地の兵士を慰問するための薬や石鹸、日用品、缶詰やキャラメルなどの食品、将棋やゲームなどの娯楽品などを袋に詰めて送ることも盛んに行われた。これが、慰問袋である。これも日露戦争の時に婦人矯風会(以下参考に記載の「日本キリスト教婦人矯風会・歴史」参照)が贈ったものに端を発し、その後、満州事変のころから新聞社の呼びかけにより慰問袋を送る運動が展開され、国防婦人会などが活発に動いた。
日本の女性による婦人会発足の歴史を振り返ってみる上において、以下参考に記載の「素朴な善意が生んだ国防婦人会」に興味深いことが書いてあった。少し抜きがいさせてもらうと以下の通りである。
1931(昭和6)年の12月13日の朝日新聞(大阪)に『渡満の井上中尉婦人、紋服姿で端然自刃す 「死んで皆様をお守りします」と健げな遺書を残して』・・・と報道されているように、数え年21歳の、井上清一中尉の新妻、井上千代子が、夫の出征前夜に「後顧の憂いなく、お国の為に働いて下さい」と自刃したというのである。
その井上清一中尉は、翌年・1932(昭和7)年7月9日に起きた満州楊柏堡村付近の平頂山集落の多くの住民を虐殺した事件(「平頂山事件」)の指揮官(小隊長)でもあった。この新妻、井上千代子の壮烈な死は、世間から「武人の妻の鑑」「昭和の烈婦(れっぷ=節操が固くて気性のはげしい女。烈女)」と賞賛され、新聞で大々的に報道される一方、日活映画『ああ、井上中尉夫人』、新興キネマ『死の餞別』として映画化されて、軍国美談として仕立てられたという(以下参考に記載の「たむたむ(多夢太夢)のHP/死の餞別」参照)。
そりゃ~この話は、軍部にとって非常に都合が良かっただろう。しかし、マスコミがこのような事件を美談として賞賛し、前線の兵士のみならず、女性たちににも国策として銃後を守る者へと誘導していったのだよね~。
そのような中で、この事件に接した井上夫妻の媒酌人であったという安田せいと言う女性が、「千代子さんの尊い死をこのままにしてしまうわけにはいかない」と、強く感じたようであり、大阪港・築港から次々に出征する兵士たちへの、せめてもの慰めにと、千人針や湯茶の接待をするようになったという。この井上千代子自刃の3ヶ月後の翌・1932(昭和7)年3月18日、大阪市港区市岡第5尋常小学校(後の魁国民学校 戦災で全焼し廃校に。 今の市岡中学校の場所)において「大阪国防婦人会」が結成され、「国防の完全を期するには、銃後の婦人が男子と一致協力しなければならない」と叫び、「国の守りに台所から家庭から奮い立て」と言う誓いを立てたという。そして、冒頭掲載の画像に見られるような白エプロンにたすきがけの姿で兵士達の見送りと世話をするなどの活躍を始めるのであった。
当時、銃後の女性の組織として北清事変の慰問使の奥村五百子(以下参考に記載の「去華就実」と郷土の先覚者たち 第13回 奥村五百子」参照)により,出征軍人の慰問と軍人遺家族の援護を目的に、1901(明治34)年設立の「愛国婦人会」や、1930(昭和5)年内務・文武両省が設立していた「大日本連合婦人会」(理事長は昭和天皇の皇后〔香淳皇后=島津良子〕の縁者として東宮女官長を務めていた島津治子)などがあったが、これらは、高い会費で、その会費収入をもとに軍を支援する資産家たちの会だった。しかし、安田せいの作り上げた「国防婦人会」は、一般の庶民が安い会費で、そのかわり行動をすることで奉仕した。そのため、このような地道な運動が、爆発的に広がり、軍部の推薦もあり、2年後の年末には全国で123万人もの巨大組織になっていったという。(国防婦人会の詳しいことは以下参考に記載の「国防婦人会館」を参照すると良い)。
戦時体制が成立しスタートした1938(昭和13)年、国家総動員法が国会で成立し、国民は国家の為に総動員された。1937(昭和12)年の「盧溝橋事件」に始まるいわゆる15年戦争(大東亜戦争・太平洋戦争)は、戦争が激しくなるとともに、国家、国民を挙げての「総力戦」として、国防婦人会(陸海軍省監督)と、愛国婦人会(厚生省監督)、大日本連合婦人会(文部省監督)の統合が提起され、1942年、統合して「大日本婦人会」が生まれた。そして、前線の兵士のみならず、国策として、主婦達も銃後を守る者として、戦争に組み込まれていった。
善意で始めた白エプロンにたすきがけの姿で兵士達の見送りと世話をしていた国防婦人会は、結局、従来の戦争は男がし、女は家庭を守るものといった思想を超えて、婦人会というよりも隣組の戦力として利用され、多くの婦人を戦争へ参加させていく役割を担わされてゆくことになるのである。そして、本来は、そのようなことにならないように意見を述べていかなければならないはずのマスコミが逆に、リードしていたというのがいかにも皮肉である。政府のやっていることなどに対して、つまらぬことで揚げ足を取っているマスコミも、大事なところでは、ご機嫌を伺っているといった姿勢は、今も昔も変らないような気がするのだが・・・。
(画像は、大阪駅を通過する出征兵士に炊き出しのサービスをした国防婦人会の会員。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)。
参考:
銃後-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%83%E5%BE%8C
国防婦人会館
http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/ch-fujinkaikan.html
●婦人会 ふじんかい
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P330C100.HTM
国民歌謡-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%AD%8C%E8%AC%A1
西宮市立郷土資料館の企画展示・千人針
http://www.nishi.or.jp/homepage/kyodo/tenji/senji/12/sen1.htm
戦時中の国内生活・戦争第一部内地編
http://homepage1.nifty.com/zpe60314/se14.htm
素朴な善意が生んだ国防婦人会
http://myp2004.blog66.fc2.com/blog-entry-22.html
戦前の婦人会と女性の暮らし
http://www.sakuracom.jp/~kyoudoshi/fujinkai.html
日本キリスト教婦人矯風会・歴史
http://www18.ocn.ne.jp/~kyofukai/02history.htm
たむたむ(多夢太夢)のHP/死の餞別(せんべつ)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sinozennbetu.htm
平頂山事件
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/heichouzan.html
平頂山事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%82%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
国家総動員法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%B7%8F%E5%8B%95%E5%93%A1%E6%B3%95
西の海へさらり: 国防婦人会
http://www.johf.com/search/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E4%BC%9A/ja/6
大阪港-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E6%B8%AF
愛国婦人会発祥の地
http://www.tabiken.com/history/doc/A/A017R100.HTM
「去華就実」と郷土の先覚者たち 第13回 奥村五百子
http://www.miyajima-soy.co.jp/kyoka/shaze13/shaze13.htm
義和団の乱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
Amazon.co.jp: 国防婦人会―日の丸とカッポウ着 (岩波新書): 本: 藤井 忠俊
http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E4%BC%9A%E2%80%95%E6%97%A5%E3%81%AE%E4%B8%B8%E3%81%A8%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%9D%E3%82%A6%E7%9D%80-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1