今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「ダメ。ゼッタイ。」普及運動

2009-06-20 | 行事
6月20~7月19日の間は「ダメ。ゼッタイ。」普及運動期間である。
政府広報オンラインによる「ダメ。ゼッタイ。」普及運動によると”全世界的な広がりを見せる麻薬、覚せい剤などの薬物乱用問題は、人間の命はもとより、社会や国の安全・安定をも脅かす深刻な社会問題であるため、国連は、国際社会が一丸となって薬物乱用問題を解決するため、「国連薬物乱用根絶宣言」を採択。本宣言が採択された日を記念し、毎年6月26日は「国際麻薬乱用撲滅デー」とされていることから、日本でも、6月20日〜7月19日までの1か月間、薬物乱用に対する啓発活動を行う「ダメ。ゼッタイ。」普及運動を実施している”ようである。
薬物乱用とは、医薬品を本来の目的から逸脱した用法や容量あるいは目的のもとに使用すること、医療目的にない薬物を不正に使用することをいう。
ここでいう薬物はそれを使用することにより危険な依存性をもたらすアヘンマリファナヘロインなどの麻薬覚醒剤など、薬物依存の対象となるようなものである。
麻薬の一種で、ケシ(芥子)の実から生産されるアヘンは極めて古くからその存在が知られており、紀元前3400年頃にはメソポタミアでケシが栽培されていたという。過去の歴史を見ていると、イギリスと中国のアヘン(阿片)戦争のように薬物の乱用を放置すれば、国家の存亡に関わる極めて重大な問題が起ることにもなっている。
大麻(たいま)ないしマリファナ (Marijuana) は、アサ(麻)の花・茎・葉を乾燥させたものから作られる。たとえば中学生や高校生などが初めは興味本位に始めるという睡眠薬遊びやシンナー吸引も、それをたとえ1度でも行なえばそれは乱用にあたる。乱用に対して依存症は薬物を求める強い衝動があり、いろいろなトラブルがあっても薬物使用をやめられない状態で、通常、依存症は乱用よりも重症と考えられている。酒やタバコは、依存性の強い麻薬への入門薬物(ゲートウェイ・ドラッグ)だともいわれている。
「大麻」や麻薬の原料となる「ケシ」は、麻薬及び向精神薬取締法あへん法等により、栽培の免許を受けた人以外の栽培が禁止されている。
しかし、最近マスコミ等でも報じられているように、大学生など多数が大麻の栽培や使用等大麻乱用で検挙される事例が発生している。 また、大阪・西成区ではやきいも屋台を偽装して小学校の近くで堂々と覚醒剤を密売した事件も報じられている(以下参考に記載の「Y's WebSite : Blog .焼きいも屋台、実は覚せい剤販売店.」参照)。
今の日本で覚せい剤や有機溶剤の乱用が厳しい取締や処罰の強化に対しても抵抗性を示し薬物乱用が広がっている要因には、これらの薬物の入手可能性が高いことも一因であるが、都市化現象など、現代社会の持つ病理性が大きな背景になっているという。 つまり、1960年代の高度経済成長の影響による、生活水準の向上、都市化現象など、社会の構造的変化が指摘され、それにより、特に、次代を担う青少年の生育・生活環境に大きな変化がもたらされており、これらの変化が青少年を薬物の乱用や非行へと結び付ける温床となっているのだ言う(以下参考に記載の薬物乱用防止「ダメ。ゼッタイ。」(財)麻薬・覚せい剤乱用防止センターホームページ「薬物データーベース」のここ参照)。
ただ、私などから言わせれば、戦後日本の経済成長の中で、自由や豊かさばかりを追い求め、自己中心主義となり、家族や社会の中での人と人の触れ合いをなくし、贅沢に慣れ、我慢することの大切さなども失ってしまった中、競争社会からの逃避としか思えず、これは、このような薬物乱用問題だけでなく今の日本の世の中全体に色々な問題として出てきている。しかし、グローバル化した世界の競争社会の中で、資源の無い島国の日本が存在してゆくためには相当な努力が必要であり、そのような環境の中で、このような人達をそれではどのようにして救っていくかと言うことになると、それは簡単なようで難しいことだと思う。
ただ薬物乱用の恐ろしさは、単に乱用者自身の精神や身体の荒廃だけにとどまらず、それが、家庭内暴力などによる家庭の崩壊や、さらには、殺人、放火等悲惨な事件の原因にもなり、社会全体への問題と発展していることにある。 麻薬や覚せい剤などの薬物は、使用しているうちにやめられなくなる依存性と、乱用による幻覚や妄想に伴う自傷、他害の危険性を犯させるようになる。1度だけのつもりがいつの間にか中毒となり、取り返しのつかない人生を送らなければならないことになってしまうのだから、若い人達は甘い誘惑にのり、安易に薬物に手を出すのは「ゼッタイ。ダメ」と心得なければいけないよ。又、取り締まる側も、徹底して取り締まって欲しい。
(画像は、「ダメ。ゼッタイ。」普及運動用キャラクター。麻薬・覚せい剤乱用防止センターHPより)
参考:
政府広報オンライン「ダメ。ゼッタイ。」普及運動
http://www.gov-online.go.jp/pr/theme/dame_zettai.html
薬物乱用防止「ダメ。ゼッタイ。」(財)麻薬・覚せい剤乱用防止センターホームページ
http://www.dapc.or.jp/index.htm
厚生労働省:「国連薬物乱用根絶宣言」支援事業「ダメ。ゼッタイ。」普及運動実施について
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2007/06/h0614-2.html
薬物 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E7%89%A9
赤城高原ホスピタル 【 薬物乱用 】
http://www2.gunmanet.or.jp/Akagi-kohgen-HP/DR.htm
ASK
http://www.ask.or.jp/index.html
少年犯罪データベース 覚せい剤、大麻、シンナー等麻薬薬物事件
http://kangaeru.s59.xrea.com/yakubutu.htm
Y's WebSite : Blog .焼きいも屋台、実は覚せい剤販売店.
http://blog.livedoor.jp/yswebsite/archives/52018119.html
溶媒 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A9%9F%E6%BA%B6%E5%89%A4

おにぎりの日

2009-06-18 | 記念日
日本記念日協会の記念日を見ると今日の記念日に「おにぎりの日 」があった。
1987年11 月に石川県鹿島郡鹿西町(ろくせいまち)の杉谷チヤノバタケ遺跡の竪穴式住居跡から日本最古の「おにぎりの化石」が発見されたことから、鹿西町が「おにぎりの里」としての地域おこしのために制定したそうで、日付は鹿西のろく(6)と、毎月18日の「米食の日」と合わせたものだそうだ。
この日本最古の「おにぎりの化石」と言われているものは、1辺の長さが8センチほどの二等辺三角形のものだが、以下参考に記載の「No.26(PDF)よみがえる石川の遺跡」によると、「米粒の解析結果により、短粒・極小粒の日本型を呈する水稲品種の晩稲の糯米(もちごめ)で、おそらく蒸されたのち焼かれたものとされ、形状等からも、炊かれて握られた握り飯(=おにぎり)というよりは、包まれて蒸された(あるいは煮られた)ものに近いという意味で、チマキ(粽)状炭化米塊とされたもので、建物の壁際からの単独出土であることや粽の民俗事例などから、本品については、食用というよりは魔除け等呪的な用途が想定される”という(「よみがえる石川の遺跡)参照)。しかし、食べられるものであることに変わりはなく、「粽」というよりも、「おにぎり」の方が親しみやすく、地域おこしのため地元には、「おにぎりの化石」として受け入れられたようである。
米作(稲作)は、原産地の中国・インド・ミャンマーが接している山岳地帯周辺での陸稲(りくとう、おかぼ)栽培から始まったとされているようだが、従来、稲の伝来ルートについては朝鮮ルートにより、稲作技術が導入され、日本での水稲耕作が開始された時代が弥生時代からとされていたが、近年の色々な遺跡から発掘されたものの、放射性炭素年代測定により、水稲(すいとう)である温帯ジャポニカは、縄文時代晩期には既に導入されていたことが判明しつつあり、弥生時代の始まりが少なくとも紀元前10世紀まで遡る可能性が出てきている。さらに最近では、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来であるとの学説の方が朝鮮ルートよりも有力視されつつあるようだ(従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられているという。Wikipediaより)。
の果実である籾(もみ)から厚い外皮の籾殻(もみがら)を除去した状態のものが、玄米であり、玄米の表面を覆う糠層(ぬかそう。主として果皮糊粉層【胚乳】)を取り去る、つまり、精白(精米、搗精)したものが米である(以下参考に記載の「玄米の構造」参照。
品種の別では、粘り気が少ないものを粳米(うるちまい)、多いものを糯米(もちごめ)という。
日本で通常主食として用いられるジャポニカ種のうるち米は粒が短く小型で焚くとねばりがあり、短粒米(たんりゅうまい)といわれるものであるが、韓国のお米も短粒米だそうだ。一番多く色々な国で食べられているのは細長いインディカ種で、ほとんど粘り気が無く、 ぱさぱさしている長粒米(ちょうりゅうまい)といわれるものだそうである。
日本の主食である米であるうるち米の「うる」(水分多・粘り弱)はもち米の「もち」(水分少・粘り強)との対義語で、「うるち」は「もち」に揃えて江戸時代に作られた語だそうである。
古代米」と呼ばれるものは、栽培稲の原種である野生稲の特徴を受け継いでいる稲であり、現在の稲の「祖先」とされるものであり、玄米の色などから赤米、黒米、緑米などと分けて呼ばれることもある。背丈が1,5メートル以上にもなるため倒れやすく、収穫量は品種改良が進んだ現在の稲より少ないが、その反面、たんぱく質やビタミンを豊富に含んでいて、最近は、健康志向が強い人達から「健康食品」としても注目を集めていることから、日本の在来品種や外来品種も流通しているが、1989(昭和64・平成元)年に農林水産省が音頭をとって推進した「スーパーライス計画」(以下参考に記載の「スーパーライス計画」参照)以降、各地の農業試験場で生み出された育成品種も多い。近年では、このような育成品種は古代そのままの米ではないと考え、在来品種のみが古代米であるとする主張もあるようだが、在来品種が縄文・弥生時代そのままの品種であるという確証は何もないようだ(詳しくはイネの中の赤米黒米を参照されると良い)。
日本の主食である米の稲作は縄文時代中期から行われ始め太とはいえ、この時代は、まだまだ主食ではなく穀物といっても、アワ・ヒエが中心で、赤米や、黒米も主としては酒(御神酒など)造りや神事ように使われていたようだ。稲の栽培が日本に導入された頃には、米を発酵させて醸造酒とする醸造法も、ほぼ同時に中国大陸から伝来したものと考えられている(日本酒の歴史参照)。そのことは、杉谷チヤノバタケ遺跡から発見された「おにぎりの化石」と言われているものが、実際には、水稲品種の晩稲の糯米(もちごめ)で、おそらく蒸されたのち焼かれたものとされ、形状等からもチマキ()状炭化米塊で、食用というよりは魔除け等呪的な用途で作られたものと想定されている・・・ことからもわかる。粽を作るのに使われていたとする糯米は、古代米と言われている黒米に属する種なのであろう。
なお、米は、日本においては非常に特殊な意味を持ち、長らく税(・あるいは年貢)として、またある地域の領主や、あるいは単に家の勢力を示す指標としても使われた。
一般人の主食は室町時代くらいまでは、イネ科の穀物ではアワヒエなどであり、貴族など特権階級の間でやっとアワに玄米を混ぜたものが食べられるようになった程度だったとされており、現在と同じように、玄米を白く精米した形で食べるようになったのは江戸時代も明暦年間(1655年~1657年)辺りからであり、それを、食べていたのは、将軍や大名・豪商ぐらいだった。江戸時代の平均的な武士でさえ、米7:麦3の割合の麦飯を食べていた。当時の8割を占める農民層は年貢(土地を持つ本百姓)や小作料(土地を持たない水呑百姓)、また種籾以外の米は、貴重な現金収入であるため、自分で消費する分は米に麦・粟・稗などを混ぜた雑穀食が一般的だった。今のように日本人の誰もがまざりっけの無い純粋な白米を食べれるようになったのは、第二次世界大戦終結から10年ぐらい経った昭和30年代に入ったころからだろう。
日本の昔の民話やおとぎ話である「さるかに合戦」や「おむすびころりん」などに「おむすび」が登場するが、こんな時代のおむすびって、少なくとも絵本などに描かれているような真っ白いお米のお結びではなかったろう。雑穀米で握ったものを焼いたものだったのだろうね~。
太宰 治の『斜陽』(1950【昭和25】年。)の中で「おむすびが、どうしておいしいのだか、知っていますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ」とおっしゃったのは、明治になり身分制度が変わり爵位だけは持っている貧乏な息子がほんものの貴族と認めるお母様である(「青空文庫:作家別作品リスト:太宰 治参照」。
炊いた米に味をつけたり、具を入れたりして、三角形・俵形・球状などに握ってまとめた食べ物「握り飯」をおにぎりや「おむすび」というのは、元は御所の女房言葉であった(呼び方参照)。
確かに、母親や女房などの握ってくれた「おにぎり」の美味しさには、他の食べ物とは違って独特の味わいがあるが、それは、握ってくれた人の温かさを感じるからであろう。スーパーやコンビニエンスで売っている機械で作ったものには同じおにぎりでもそのような温かさを感じないのは、私だけだろうか。
1995(平成7)年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。私の地元神戸市はこの地震による建物の倒壊と伴なう火災で市街地は第二次世界大戦時なみの壊滅状態に陥った。幸い私の家は表面上は壁割れ程度の軽度であったが、周りの家は全壊や半壊状態のところが多かった(しかし、数年後の改装時に私の家もそうだったが、一部損壊程度の家でも殆どの家が基礎部分をやられていることがわかった)。道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などのライフラインは寸断された。全国からの支援物資も東は灘、西はJR須磨駅辺りまでで、灘と須磨の中間は道路が遮断されているため食料どころか水さえ満足に届かなかった。しかも、家が倒壊し学校など避難所には、何とかボランティアの人達が僅かの食料を届けてくれたが、避難所へ避難していないものの方が食料などに困った。何とか、食べ物を手に入れようと思ったが、なかなか手に入らなかったが、何日かたってやっと、近くの避難所となっている学校の前で、避難所への支援物資の余りもののおにぎり(市販のもの)を配っているのを手に入れたが、どれも賞味期限を2日ほど切れたものばかりであった。それでも、その時のおにぎりを本当にあり難くいただいたのを思い出した。
その時以降、我が家では、いざといったときの非常用に、避難用具だけでなく、最低2週間ぐらいは食べてゆけるだけの食料等を保存しているが、冷凍庫には、絶えず、手作りのおむすびも10個位は欠かさないようにしているよ。
(画像は、おむすび。Wikipediaより)
参考:
中日新聞:『おにぎりの里』再び 町おこしの熱意 合併後も消えず
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/toku/genba/CK2008090602000236.html
米 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3
おにぎり - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%A1%E3%82%8A%E9%A3%AF
玄米の構造
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu-n/genmai.html
古代米 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E7%B1%B3
スーパーライス計画
http://www.ota-ya.jp/komekome/siryou/super.html
豆知識古代米のルーツ
http://www.omn.ne.jp/~tokatiya/kodaimai2.htm
食材事典/美味探求/お米
http://www2.odn.ne.jp/shokuzai/okome.htm
愛知県の歴史 (1)古代 尾張の古代社会尾張国正税帳の世界
http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10004732/0/kouza/section8.htm
赤米から見た日本史
http://www.geocities.jp/tetsuyakuge/thema/akamai.html
赤米(大唐米)|戦国日本の津々浦々
http://proto.harisen.jp/mono/mono/akagome.html
Category:日本の民話-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B0%91%E8%A9%B1
太宰 治-Wikipedia
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person35.html
青空文庫:作家別作品リスト:太宰 治
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person35.html
阪神・淡路大震災
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%83%BB%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html

東関親方(元関脇高見山)が定年を迎えた

2009-06-16 | 人物
大きな体と長いもみあげ、オレンジ色のまわしで人気を集めた元関脇・高見山の東関親方が2009(平成21)年6月16日の今日65歳の誕生日をもって定年となり、大相撲界に別れを告げることとなった。
東関親方の現役引退時の四股名(しこな)は高見山 大五郎。1944(昭和19)年6月16日生まれの、アメリカ合衆国ハワイ州マウイ島出身で高砂部屋所属の力士であった。本名は渡辺大五郎。米国名はJesse James Wailani Kuhaulua(ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア)と言い、愛称はジェシーであった。
ジェシーは、高校でフットボール部に所属しブロックの主将として活躍していたが、交通事故に遭って続行を断念。卒業後はバナナの運送会社に勤務しながら足腰を強化するべくマウイ相撲クラブに入部し活躍していたそうだが、1964(昭和39)年 2月の大相撲ハワイ巡業で稽古を付けてもらった時に筋肉質の立派な体格を団長のもと師匠高砂(元横綱前田山)に見出され、「 5年間は衣食住を保証する」とスカウトされ同月22日に来日し高砂部屋入門。3月4日朝、大相撲の新弟子検査に合格。このとき、19歳、身長196センチ、体重126キロであった(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)。8日初日の大阪・春場所の前相撲で初登場。この場所だけは、本名のジェシーで相撲を取ったが、片仮名の本名を力士名にした史上唯一の力士である。
しかし、海外出身力士が日本の国技であるともいわれている大相撲に初めて入門したのは彼が初めてと言うわけではなく戦前にも存在していた。ただその殆どがアメリカやブラジルに渡った日系移民の子孫であったことから、名前や顔かたちからはほとんど区別ができなかっただけ。その最初の人は、1934年(昭和2)年に来日し、当時の春日野部屋に入門したアメリカ・ロサンゼルス出身の日系2世、平賀将司という人が大相撲への外人力士の初参入ということらしい。相撲を取るきっかけとなったのは、1927(昭和2)年、当時の春日野親方(第27代横綱・栃木山)が渡米した際、平賀の両親を説得し、入門を約束させたことに始まり、平賀は、1934(昭和9)年初土俵、序二段23枚目を最高位に、1938(昭和13)年1月に廃業しているという。戦前の外国人力士としては、この平賀を含め、7人の日系人が殆ど日本から誘われかたちで入門したが、関取になったのは1人、前頭として幕内1場所を勤めた日系米国人の豊錦のみとされているようだが、これらの中に、関脇に昇進後自ら髷を切りプロレスラーに転向し有名になった朝鮮半島出身の力道山の名がないのは、百田家の養子となっていた為、外国人として登録されていなかったのであろう。子供時代からの相撲ファン、そしてプロレスラー力道山の大ファンであった私なども彼が事故で亡くなるまで、彼のことを日本人と思っていたくらいだから・・・。いらぬ詮索は別にして、そのような中で、外国出身力士の道を実質的に切り開いた開拓者(Pioneer)は、やはり、ハワイから来日したジェシーこと、高見山だったといえるだろう。
股割りの稽古の際に涙しその時「目から汗が出た」と述べたと言われる。それに、最初は ちゃんこが食べられず、ケチャップで味附けしてもらっていた言うように食事や言語その他慣習の問題など、慣れない日本での力士生活には人に言えない苦労が絶えなかっただろう。1966(昭和41)年には、扁桃腺の手術を受けたが翌日から稽古を再開、このとき執拗な喉輪攻めを受けたために声帯を痛め、独特のかすれ声になったが、元々は美声で、歌も上手かったのだとか。ともかく、苦労が実り、1967(昭和42)年3月場所、新十両、初の外国出身・外国籍の関取となった。
私は、テレビで見る以外実際に相撲を見に行ったことは無いし、テレビで相撲を見る場合も、殆どは、前頭以上の幕内力士の相撲であったので、この当時の高見山の相撲は余り見ていない。
しかし、この年の3月、私は神戸で結婚し、披露宴が終わると、翌日に大阪伊丹空港から飛行機で新婚旅行に出発するために、当日夜は、大阪の新阪急ホテルに宿泊することとし、夕方早めに同ホテルに到着したとき、同ホテルロビーで偶然にも高見山関が仲間数人と歩いているところに出会い、その浅黒い顔と大きな体に驚いのを思い出したが、たしか、この当時は、まだ後半のような太鼓腹のずんぐりとした体ではなく比較的スマートであったように思う。
高見山は、この翌・1968(昭和43)年1月場所、新入幕を果たし、史上初の外国出身・外国籍の幕内力士となり3月場所には佐田の山に引導を渡す金星、9月場所には柏戸からも金星を挙げた。そして、翌・1969(昭和44)年11月場所から小結に昇進するが、その後小結と平幕の往復が続きスランプに落ち入り、廃業も考えたようだが、師匠夫人ら周囲に励まされて現役続行を決意し、1972(昭和47)年7月、名古屋場所千秋楽の7月16日旭国を破り、13勝2敗で相撲300年の歴史上初の外国人力士優勝となった。来日して8年余り。故郷マウイ島も沸きかえった。表彰式では当時の米国大統領リチャード・ニクソンの祝電が読み上げられた。冒頭左の写真は、先代高砂親方未亡人の好美さんに祝福される高見山。(アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)。
高見山は、この頃はもう205キロともいわれる肥満体になっていたが、その重たい体重を武器にし、立ち合いから強く当たり、右から突き起こしてから鋭い出足を生かして突き進むか左四つで廻しを引き附けて吊りながら寄る取り口で活躍。翌場所には外国出身で初の関脇に昇進し、その後大関昇進を期待させるような場面も数度あったが、巨体である事の弱点でもある、足腰の脆さのため果たせなかった。よく稽古をつけてくれた大関前の山の引退も相撲の成長を止めた一因といわれている。足腰の脆さゆえに投げられると脆く、その見事な負けっぷりは、愛嬌がありかえって人気を呼ぶほどであったが、そのわりに負傷は少なく、それが長い現役生活に繋がったと言える。化粧廻しにも掲げた"Go for broke"(当たって砕けろ!の意。元々は第2次世界大戦時の米軍日系人部隊のスローガン。以下参考に記載の「Go For Broke - 米国陸軍日系2世部隊442連隊」参照)のように、ぶちかまして一気に前に出る破壊力抜群の取り口はこの弱点の克服を狙ってのものとも。「見る、立つ、出る。大丈夫ね!」を口癖にするほど、立合いから相手をよく見て立つことを心がけた。12個の金星のうち7個が輪島と言うように輪島には滅法強かった。又、軽量の大関貴ノ花利彰との対決は弁慶と牛若丸のそれに譬えられ人気を博した。1980(昭和55)年、年寄襲名のため帰化し日本国籍を取得。渡辺大五郎(夫人の姓と、相撲の四股名を合わせたもの)を名乗る。
1984(昭和59)年5月場所中に突然引退宣言し、世間を驚かせたが、引退後は年寄「東関」を襲名し、1986(昭和61)年に東関部屋を創設。自ら小錦をスカウトし、を横綱まで育てるなど、大相撲の国際化にも大きく貢献した。97場所の幕内在位、1430回に及ぶ幕内出場回数は今も破られず歴代1位の金字塔である。
しかし、私などには、相撲の世界以上にテレビCMなどで見せたユーモラスな一面と愛嬌ある笑顔の方が印象的である。ナショナルのトランザム、丸八真綿、日本船舶協会、永谷園わかめスープなど多くのCMにでていたが、なかでも、代表作とも言われる「トランザム」のコピーは最高である。
♪・・・街に行こう/トランザム持って/
    心も浮き浮きトランザム/ダア― トラッタッタ/
おいらのトランザム
最重量力士としられる高見山がダークスーツに見を固め、小さく見えるトランザムを右手に持って、ソフト帽をかぶって軽快にタップを踏み視聴者を驚かせた。冒頭の右画像参照。また、下では、その時の動画が見れる。
YooTubeナショナル トランザム 1977
http://www.youtube.com/watch?v=NtIRheMg2J4&feature=related
このCMがヒットしたのは、重々しい高見山と軽快なタップのミスマッチの面白さと彼の予想外のショーマンシップのためである。彼は、この衣装でベストドレッサー賞を取ったのだそうだ。この時のスーツと化粧まわしなどは相撲博物館に贈呈され展示されるようだ。
日本船舶振興会の「戸締り用心火の用心」と大きな太鼓を叩きながら登場し火の用心を呼びかけCMや丸八・永谷園のテレビCMの顔が良いね~。これらも以下で見れる。
日本船舶振興会TVCM
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=BI98Kot1E10
丸八ファーペット
http://www.youtube.com/watch?v=ho-QXb2pyeQ
'84 永谷園わかめスープCM / 高見山大五郎
http://www.youtube.com/watch?v=CIu3TKDco04
このような、CMで見せるちょっとお茶目で愛嬌のある顔をした意外な一面が現役時代の高見山人気をさらに高める大きな要因になったことは間違いないね。
しかし、高見山が外国人力士として成功して以来、次々と角界には外国人力士が参入。若乃花貴乃花の兄弟横綱が引退以来日本の相撲界は、外国人力士の人気に頼っている嫌いがあるが、今や、角界には朝青龍・白鵬・琴欧州といった外国人力士が席巻し、横綱・大関は言うに及ばず、幕内や十両などでも諸外国から来日した関取衆が活躍しているが、デイリー・ヨミウリ(9月29日付)では、「番付で3番目の位である幕下には、23歳以下の外国人力士が19人おり、同年齢の日本人力士の数とほぼ同じであり、このままでは、近い将来、番付上位力士のほとんどが外国人で占められてしまうことが心配されている。確かに、もう、日本の相撲は、日本の国技とは言えないスポーツの世界へと代ってきているのだろうね~。それなら、もう、部屋別の外国人力士の人数制限などせずに、世界中の国から参加してもらっった方が面白くなるのではないだろうかね~。恐らく、日本相撲の文化も随分過去とは違ったものになるだろう。かって、国技と言われていた時代の相撲ファンであった私などには寂しいが・・・・。
(画像は、左:1972年7月場所、外国人力士として初優勝を果たし、先代高砂親方未亡人の好美さんに祝福される高見山。7月16日名古屋にて。右:ナショナルのトランザムのテレビ広告に出演の高見山。いずれも、アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
高見山大五郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%A6%8B%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E4%BA%94%E9%83%8E
goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/
大相撲 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
相撲人名鑑(高見山 大五郎)
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19680101.htm
大相撲:外国出身力士のパイオニア・元高見山(写真)
http://mainichi.jp/enta/sports/graph/2009/takamiyama/?inb=yt
殿堂入りCM作品集(テレビ) 殿堂入り年度順
http://www.acc-cm.or.jp/festival/dendou_t.pdf
homepage3.nifty.com/mongolboh-sumo
http://homepage3.nifty.com/mongolboh-sumo/file.sotsuron.htm
平成社会の人々の動き:第 11 話 「モンゴルの横綱」(国技の国際化)
http://www51.tok2.com/home/ncnycy/meiso2-11.html
力道山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1
Go For Broke - 米国陸軍日系2世部隊442連隊
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ssbohe/one_goforbroke.htm

歌手・村田英雄(「王将」「人生劇場」)の忌日

2009-06-13 | 人物
6月13日は、「王将」「人生劇場」など男の世界を豪快に歌い一世を風びした歌手・村田英雄の2002年の忌日である。
村田 英雄(本名、梶山 勇)は、1929 (昭和4) 年1月17日。筑後吉井に生まれるが、幼い頃、事情で、実母の友人だった曲師出利葉スミ子の養子となり、スミ子が結婚した梶山春雄と共に、佐賀県東松浦郡相知村(現唐津市)へ移りここで育つ。梶山春雄は浪曲師・浪花綱若であり、母スミ子はその相三味線(伴奏)を勉めた。そのようなことから、幼いころから両親の巡業に同行、父について浪花節の修行を始め、4歳で京山茶目丸と名乗り初舞台。大阪への巡業の際、同じく大阪浪花座に出演中であった浪花節の大スター桃中軒雲右衛門の最後の弟子で文芸浪曲師の酒井雲との縁からその門下に弟子入りし、6年間の修行に励む、この間映画などにもチョイ役で出演しているようだ(この辺の経緯は以下参考に記載の「ナツメロなんでも箱5」が詳しそう)。
1942(昭和17)年13歳の時に、修行を終え真打に昇進し、雲師から酒井雲坊の芸名をもらい、天才少年浪曲師と騒がれたようだ。この年、故郷佐賀に帰郷後、「酒井雲坊一座」を旗揚げし巡業するが、陸軍省の命令で旧満州慰問に。1945(昭和20)年16歳の時、佐世保相浦海兵団で終戦を迎え復員、1947(昭和22)年18歳で、少女浪曲師 野口ユイ子と結婚。地元の九州では充分に生活できる地位を築いていたようだが、もっと大きな世界で勝負をしたいと、1949(昭和24)年、20歳のときに元浪曲師で独立し、浪曲の興行をしていた西川幸男(現新栄プロダクション会長)を頼り単身上京。1952(昭和27)年浪曲新人最優秀賞を受賞、1953(昭和28)年桃中軒雲右衛門賞受賞(第1回NHK新人賞) 、1954(昭和29)年、第6回読売賞新作浪曲競演会で優勝するなど浪曲界若手のポープとして活躍、同年 25歳のとき、西川の提案により村田英雄と改名。1957(昭和32)年、28歳のときに、ラジオの連続浪曲放送に出演のとき、たまたま村田の浪花節を耳にした作曲家の古賀政男に才能を認められ「歌謡曲」の世界に誘われる。
浪花節は古くから伝わる浄瑠璃や説経節、祭文語り(以下参考に記載の「祭文」参照)などが基礎になって、大道芸として始まった、その後明治時代初期、大阪の芸人浪花伊助が新しく売り出した芸が大うけして、演者の名前から「浪花節」と名付けられた。(浪花節と言われ始めたのは1872年頃と言われている。)これを「浪曲」と表現、表記したのは、関西浪曲界の大看板梅中軒鶯童が初めてとされている(梅中軒鶯童著『浪曲旅芸人』)。
戦中戦後、長く隆盛を極めていた浪花節(浪曲)ブームが歌謡曲などの隆盛と共に、丁度このころ、少しずつ終わりを迎えつつあった時期である。
村田と同じ浪曲界の三波春夫が1957(昭和32)年6月テイチクから「メノコ船頭さん」でデビュー、続いての「チャンチキおけさ」「船方さんよ」が次々ヒットして、一躍脚光を浴びていた。
そのようなことから、古賀の村田に対する歌謡界への誘いに、浪曲の興行師・西川は最初は渋っていたようだが、幸男も浪曲と歌謡曲の2本立てではじめればよいという話に決意。ここに、三波春夫から1年遅れで、歌謡歌手・村田英雄が誕生することになった。
そして、翌・1958(昭和33)年7月、コロムビアレコードから「無法松の一生」で歌手デビューした(以下参考に記載の「新栄プロダクション: 新栄の歴史」参照)。
小倉生まれで玄海育ち 口も荒いが 気も荒い・・・(1番中略)男一代 無法松・・・
「無法松の一生」(作詞:吉野夫二郎 作曲:古賀政男)
このデビュー曲(A面)は、1番から3番まであるが、(以下参考に記載の「村田英雄 歌詞情報 - goo 音楽」参照)、そのB面に「度胸千両」(作詞作曲者は同じ)がある。この曲の発売前の同年4月に、岩下俊作の九州・小倉の荒くれ者で評判だった人力車夫・富島松五郎(通称無法松)とそのよき友人となった陸軍軍人・吉岡の遺族(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)との交流をえがいた小説「無法松の一生」の同名映画(1943年版、主役松五郎:阪東妻三郎)のリメイク版(主役松五郎:三船敏郎)が前作と同じ稲垣浩監督によってカラー映画化により製作・公開され大ヒットしていた。しかしこのデビュー曲そのものは当初は余りヒットはしなかった。後に1番と2番の間に「小倉名物一世一代無法松の暴れ打ちだ」の台詞に始まり、「空にひびいたあの音は……」という歌詞が違うメロディで入るヴァージョン(「度胸千両入り」)が作られた。これが、「無法松の一生」〈度胸千両入り〉であり、今カラオケなどで「無法松の一生」としてよく歌われているヴァージョンが以下のものである。
無法松の一生  http://www.youtube.com/watch?v=anPPV2SFodw&feature=related
その後翌年4月に「人生劇場」(作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男。1938【昭和13】年、歌唱:楠木繁夫)のリバイバル曲が多少ヒットした程度であり、NHK紅白歌合戦への出場も果たせずにいた。
人生劇場『Jinsei Gekijou』 http://www.youtube.com/watch?v=XQ5SlGaN1Ak
しかし、当時、なかなかヒットに恵まれていなかった村田のため、日本コロムビアのディレクターだった斎藤昇が村田と共に作詞家西條八十邸を訪れるが、当時、西條は美空ひばりの曲を書いていたため、「男の歌は作れない」と断られたのだが、村田が粘り強く西條邸に通い詰めた結果、ようやく詞を書いてもらえることになり出来たのが、1961(昭和36)年11月に発売した西條八十作詞に、船村徹が作曲した「王将」である。
吹けば飛ぶよな 将棋の駒に
賭けた命を 笑わば笑え
うまれ浪花の 八百八橋
月も知ってる 俺らの意気地
この曲により村田は同年の第12回NHK紅白歌合戦に初出場。このことによりこの曲は、ミリオンセラーとなり、翌1962(昭和27)年に第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。この「王将」のヒットにより、以前に出した「無法松の一生」や「人生劇場」なども相乗効果でヒット、その人気を不動にすることとなった。
そして、村田はこの曲・「王将」(坂田三吉の物語)で、1962(昭和37)年の第13回、1969(昭和44)年の第20回、1989(昭和64)年の第40回を含め、計4回の紅白歌合戦に出場することが出来た。以下は、1969(昭和44)年第20回NHK紅白歌合戦のものである。
王将(ousyou)  http://www.youtube.com/watch?v=UcCoBkTsb6A
この曲は、元々は1961(昭和26)年9月に発売された村田英雄の歌謡浪曲「王将」(北条秀司作による新国劇「坂田三吉」に題材を求めたもの)のLPの挿入歌として企画されたもので、それが、同年11月にシングルカットされたものだった。翌1962(昭和27)年公開の伊藤大輔監督による同名の映画『王将』(主演:三國連太郎goo-映画参照)では主題歌としても使われた。
1960年前後に花開いたカバーポップスブーム。この時期は世界的にアメリカン・ポップス全盛期でもあったが、日本の歌謡曲もポップティストを取り入れたリズム歌謡が数多く登場し、「恋」や「青春」を、明るくさらっと歌うものが主流だったが、そんな中、「好きだ、嫌いだ」「ふった、ふられた」といった男女の艶っぽい話は一切登場しない明治時代の人物と将棋の世界の浪花節調演歌「王将」が生まれたのである。
村田の歌は浪曲家出身らしく、物語性が豊かであり、とりわけ、先の富島松五郎の「無法松の一生」やこの阪田三吉の「王将」など、人物に寄り添い、その生き様を歌ったものが多い。村田と同じく浪曲出身の演歌歌手三波春夫とは、互いにライバル同士という位置付けであり歌番組での競演がよくあった。以下は、浪曲界出身の歌手を代表する村田英雄と三波春夫の2人による浪曲の共演である。
三波春夫 村田英雄共演~浪曲忠臣蔵「義士の本懐」
http://www.youtube.com/watch?v=celp7BHm-xQ
戦後、浪曲界では広沢虎造などが人気を得ていて、よくラジオで放送されていたが、私の祖父が浪曲好きだったので、私も一緒に聞いていたが、テンポの良い寅蔵の浪曲は、子供ながらに、私などもいつか大好きになり、森の石松を題材にした「石松三十石船」の真似をして歌ったり「寿司を食いねえ」「馬鹿は死ななきゃなおらない」の流行語となったフレーズをを使って面白がっていたのを思い出す。村田や三波の浪曲を聞いた記憶はないが、こうして聞いてみるとこの2人の浪曲も良いものだね~。
私は知らないが、浪曲出身同士の三波と村田の不仲説などもあったようだが、実際には、村田は三波を先輩歌手として慕い、実際は、ほぼ同時期にデビューした良きライバルとして互いに意識していた程度で、犬猿の仲というほどのものではなかったようだ。以下は、そんな村田と三波がそれぞれの持ち歌・皆の衆とチャンチキおけさを交互に歌いあう1982 (昭和.57)年の目面しい映像である。この中の会話で、2人のそんな関係も述べられている。
皆の衆・チャンチキおけさ  三波春夫・村田英雄
http://www.youtube.com/watch?v=pK-eMkUK4ag&feature=related
この放送のあった以降、2人の共演も多くなり、三波は村田が1996(平成8)年に右脚を切断した際には励ましの電話を掛けていたそうだ。村田は人物や男心を一筋に演歌を歌い続ける保守派であったが、三波は後年チャンチキおけさをラップ風に仕立て上げ歌うなど新しいものに挑戦する革新派であった。
村田は、長年三橋美智也春日八郎らと演歌をリードし、1988(昭和63)年にはこの二人と三人の会を結成し活動していた。以下では、浪曲出身のライバル三波、それと三人の会のメンバーの昭和歌謡を代表する4人の男の歌がメドレーで聴けるのがうれしい。
四人衆名曲メドレー
http://www.youtube.com/watch?v=3WJ3OwlPhdU&feature=related
戦後の歌謡曲界全盛を担った、春日・三橋・三波ががこの10年ほど農地に次々逝った。よきライバルであり友だった人達である。残された村田は、持病の糖尿病に苦しみ、両足のひざ下切断というすさまじい闘病を経てなお歌への情熱を失わず、車椅子にのって舞台で歌い続けてきたが、2002年の今日6月13日に亡くなられた。彼の身元を引き受け歌謡界で売り出した西川幸男氏はは葬儀委員長を勤め、「豪放磊落、金、酒、女したいことはみんなやった。思いを残すことはないだろう」と言葉をつまらせたという。昭和を代表する歌謡界の大物が皆逝ってしまったが、これらの人達の歌を聴きながら育った私たちの年代のものには非常に寂しい思いである。
唐津市相知町に村田英雄記念館がある。
(画像はコレクションのチラシ。1991(平成3)年6月22日23日、大阪・道頓堀「中座」での公演。)
村田英雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E8%8B%B1%E9%9B%84
村田英雄記念館(唐津観光協会相知支所)
http://ouchi.fhl.ne.jp/top.html
ナツメロなんでも箱5
http://inagawatimes.hp.infoseek.co.jp/nandemo.html
http://ouchi.fhl.ne.jp/murata01.html
昭和歌謡とわれらの時代
http://www.ringohouse.com/index.html
村田英雄 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/artist.php?n=%C2%BC%C5%C4%B1%D1%CD%BA
村田英雄 (ムラタヒデオ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/98216/
新栄プロダクション: 新栄の歴史
http://shinei-production.jp/history/
芦川淳平の浪曲研究所
http://www3.zero.ad.jp/junpei/pages/rokyokuindex.html
●祭文 さいもん
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H055L100.HTM
梅中軒鶯童 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%B6%AF%E7%AB%A5
ビッグ・スター/夢の競演
http://www.geocities.jp/fujiskre/kc93.html
北条秀司 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%A7%80%E5%8F%B8
日刊スポーツ・訃報・村田英雄さん
http://www.nikkansports.com/jinji/2002/seikyo020613.html
J-Pop(歌謡曲)データベース [The Chronicle of J-Pop]
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/4496/ChronicleTittle.html
4月14日「歌手・三波春夫」の忌日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/e56c50c9970cc4d334f62c82e13f4dc7
広沢虎造(2代目) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%99%8E%E9%80%A0_(2%E4%BB%A3%E7%9B%AE)>

入梅(にゅうばい)

2009-06-11 | 行事
2009(平成21)年6月11日の今日は「入梅(にゅうばい)」である。
気象庁は、沖縄地方は 5月18日ごろ梅雨入りしたことを発表していたが、 2日前の6月9日、近畿地方をはじめ、九州から東海の各地方も梅雨入りしたとみられると発表。私の住んでいる近畿地方は、 6月 9日ごろ、これは、平年(6月 6日ごろ)より 3日遅く、昨年(5月28日ごろ)より 12日遅い ・・・と(気象庁:平成21年の梅雨入りと梅雨明け【速報値】参照)。それなのに、“6月11日の今日は「入梅(にゅうばい)」である”・・・などと何を寝ぼけたこと言っているのか!・・・。ま~、そう云わず、読んでください。
には、二十四節気五節句と言った暦日以外に、季節の移り変りをより適確に把むために設けられた、特別な暦日があり、これを総称して「雑節」と呼んでいるが、表題の「入梅(にゅうばい)」もこの「雑節」の1つであり、太陽の黄経が80度の点を通過する日である。これが毎年6月11日ころである。本来は「梅雨入り」の漢語的表現であるが、梅雨の季節全体を「入梅」と呼ぶ地方もある。
現在は、太陽の黄経が80度の点を通過する日と定義されているが、以前は立春から数えて135日目、さらに昔の旧暦では芒種のあとの最初の(みずのえ)の日(5日目)としており、陰陽五行説では、「壬は水の気の強い性格」とされており、水と縁がある日ということで梅雨入りとされたようだ。そして、小暑の後の最初の壬の日を梅雨明け(出梅(しゅつばい)、つまり、「入梅」から数えて30日間を「梅雨」としていた時期もあった。
5月中旬頃に走り梅雨を見、6月中旬から7月中旬にかけ、朝鮮南部、長江下流域や北海道・小笠原諸島を除く日本に見られる「梅雨」は、雨季の一種であり、梅雨前線上を低気圧が次々と東進することによる。
旧暦の6月は水無月(みなづき)と呼ばれ、現在の7月頃、小暑後の最初の壬(みずのえ)の日つまり梅雨明けにあたる。水無月は、読んで字の如く「水が無い月」つまり、梅雨も終わって水も涸れつきる月という説、又、無の字は連体助詞「な」の当て字で「~の」を意味し(以下参考に記載の「助詞の種類と機能1(連体助詞) 和歌入門 和歌のための文法」参照)、「水無(な)月」は「水の月」を意味し、田植えも済み水を張る月「水月(みなづき)」であるなど様々な説がある。梅雨期間中に雨の少ないことを「空梅雨(からつゆ)」というが、「涸梅雨」(空は「かれ(涸)」の転〕 (1)水がなくなること)とも書く。梅雨前線に沿った降雨活動の弱い年におこるが、昔から凶作は、このような「涸梅雨」のときに起こりやすく、人々は「雨乞い」の目的で、農業神の祭礼を盛んに行った。
本当の梅雨入り・梅雨明けの日付は年により、地方により異なるが、農家にとって梅雨入りの時期を知ることは田植えの日取りを決めるのに重要であったことから、その目安としてこの暦日が設けられた。現在は、気象庁の観測及び予報に基づいて梅雨入りを発表しており、「入梅」は実際の梅雨とは関係のない暦日となっているが・・・。
他の国の雨季とは異なり、日本の梅雨はそれほど雨足の強くない雨が長期に亘って続く点に特徴であり、梅雨冷え(梅雨寒)のする陰鬱な天気が長く続くのが特徴。そのため、カビ(黴)や食中毒などに注意が必要な季節とされている。
「梅雨」は中国語の辞書にも「黄梅雨」として載っている。「黄梅」とは梅の実が熟すという意味であり、中国では、揚子江中・下流域で晩春から初夏にかけて、梅が熟す時期にあたり、その時期に長雨がよく降るそうだ。そのことから、「梅雨」の語源は、「梅の実が黄熟する頃に降り続く雨」として名づけられた。また、「黴」(かび)が生じやすいので「黴雨(ばいう)」とも呼ばれていたものが転じて「梅雨」となったといわれている。
梅雨、黴雨は、「山房五月 黄梅(こうばい)の雨 半夜 蕭蕭(せうせう)として  虚窗(きょさう)に灑(そそ)ぐ ・・・・」と、江戸時代の曹洞宗の僧侶・歌人良寛和尚でさえも沈んでしまう時候である(以下参考に記載の「良寛 半夜 日本漢詩選 詩詞世界 碇豊長の詩詞 漢詩」参照)
梅雨闇(つゆやみ)と言う言葉があるが、雨が降り続いたり曇りがちで、昼でも暗く、夜は月も見えない闇になることをいう。現在の鬱陶しい梅雨の6月は旧暦の5月にあたることから、闇は「さつき闇」とも言われている。夜の闇は特に暗く「あやめもわかぬ」(敷物の綾莚の文目(あやめ)もわからなくなるくらいの漆黒の闇と化す)と表現された。
「思ひ寝にみるとはすれどあや莚(むしろ)あやめもわかぬ夢ぞはかなき」(紅塵灰集)
この歌の「あやめもわかぬ」は「模様が見分けられない」「条理が分からない、理不尽な」の両義だそうである(以下参考に記載の「後土御門天皇 千人万首」参照)。
そのため、「雨障」(あまつつみ」などという言葉もある。雨に濡れるのを差し障りに、又、嫌って外出を避ける事を意味ている。梅雨時に雨に打たれるのはわれわれだって嫌だが、平安時代には、もっと強い意味で雨が降ったら、外出してはいけない(タブー)と考え、家に隠っていたようで、『万葉集』には以下のような歌が詠まれている。  
(巻4・519)「雨障常する君はひさかたの昨夜(きそのよ)の雨に懲りにけむかも 」作者:大伴女郎
(巻4・520)「ひさかたの雨も降らぬか雨障君にたぐひ(副)てこの日暮らさむ」
巻4・519の歌は、“雨にあたるのが嫌いで出かけないあなたは、昨夜の雨に降られて懲りてしまわれたでしょうか”・・といった意味のように読めるのだが、どうもよく理解できないが、これについて、以下参考に記載の「古橋信孝 雨の禁忌 万葉集の雨障」では、次のように解説している。
“巻4・520の歌は、先の巻4・519の返事の歌であり、雨が降ったらいいのに、雨つつみをして、あなたと一緒に過ごそうといっているから、巻4・519の歌は、雨が降るというのであわてて帰った男を女がからかっているのだろう。だから、男はむしろ降ってくれた方がいいのだと応じたのである。”・・・と。そう読むとこの歌は非常に面白いね。
じっと見つめること、遠く見渡すことを意味する言葉に「眺め」があるが、これは、「長目」が語源と考えられているが、古くは、長雨のころ家にこもり、一つ所をじっと見つめてぼんやり物思いにふけることで、和歌では「長雨(ながめ)」とかけて用いられた。
百人一首で名高い小野小町の有名な以下の歌がある。
「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」
意味は、“桜の花は春の長雨が降り続けていた間に色褪せてしまったなあ。そして、我が身も徒(いたずら)にこの世に置き、むなしく時を経るばかりの、物思いをしていた間に”といったところであるが、古来美貌を謳われ、多くの小町説話を生んだ小野小町の出自は明らかでないものの、もうこの頃は、梅雨の長雨には、窓からぼんやり外を眺めながら、こんな思いにふける年頃となっていたのだね~(以下参考に記載の「小野小町・千人万首」参照)。
今の6月、旧暦の5月に降る雨は「五月雨(さみだれ)と言うが、江戸時代の芭蕉の句に以下のものがある。
「降る音や耳も酸(す)うなる梅の雨 芭蕉
「五月雨を集めて早し最上川 」   芭蕉
上の句の「耳も酸(す)うなる」とは、江戸時代の言い方で同じことを何度も聞かされ飽きることをいうそうだ。寛文7年、芭蕉まだ24歳の時のもので、「五月雨」を「梅雨」というので、梅の実の酢っぽさ「酸う」を、梅にかけただけの若い作といわれる。「梅の雨」も「五月雨」も、梅雨と同じだが、「梅の雨」は梅雨の時期を指しており、「五月雨」は雨そのものを指している(芭蕉の句については以下参考に記載の「芭蕉(bashoDB)」が詳しい。
尚、「五月雨(さみだれ)」の「さ」は、「五月・皐月(さつき)」や「早苗(さなえ)」などと同様で耕作(田植)を意味する古語の「さ」と同じで、漢字の「皐」には、もともと神にささげる稲を意味し、「みだれ」は「水垂れ」から雨を意味すると言われているようである(以下参考に記載の「皐月(さつき) - 語源由来辞典」参照)。
また、「五月雨式」と言う言葉は、梅雨時の雨のように、物事が長くだらだらと続くことである。芭蕉の最初の句も彼が、何時までもだらだら続く雨「梅雨」を嫌う気持をストレートに表現しているともいえるが、私も、ダラダラ書くのを止めないと「耳も酸うなる梅の雨」になりかねないのでこのあたりで止めることにしよう。
いよいよ、本格的な梅雨に入ったようであるが、これで、毎日欠かさず行なっていた散歩や、裏山登山などが暫く出来なくなる。メタポにならないよう、家の中で体操ぐらいは欠かさずするようにしなくては・・・。それと、昨日は激しく降っていた雨が今朝は上っている。今日のうちに、散歩をかねて、家人をアシストし、数日分の食料も買い込んでおこう・・・と。
(画像は花札「柳(雨)」の20点札。梅雨を思わせるような図柄は「柳に小野道風」。没後『書道の神』として祀られる位の平安時代の能書家。スランプに陥っていた時かえるが柳にジャンプしているのを見てスランプを脱したというエピソードがある【逸話参照】。古くは「柳に番傘」、または「柳に番傘を差して走る斧定九郎」【仮名手本忠臣蔵」5段目に登場する人物】であったそうだが、明治時代にデザインが変わり、現在の「柳に小野道風」となったそうだ。)
参考:
雑節 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E7%AF%80
気象庁:平成21年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)
http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/sokuhou_baiu.html
助詞の種類と機能1(連体助詞) 和歌入門 和歌のための文法
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/intro/josi01.html
雨乞い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E4%B9%9E%E3%81%84
良寛 半夜 日本漢詩選 詩詞世界 碇豊長の詩詞 漢詩
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi3_07/jpn140.htm
良寛 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E5%AF%9B
後土御門天皇 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gotutimikado.html
小野小町 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B0%8F%E7%94%BA
小野小町・千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/009.html
雨 - 偐万葉田舎家持歌集
http://plaza.rakuten.co.jp/YAKAMOCHI35/diary/200805250000/
古橋信孝 雨の禁忌 万葉集の雨障
http://www.cosmo-oil.co.jp/dagian/42/16.html
たのしい万葉集: 雨を詠んだ歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/nature/ame.html
芭蕉(bashoDB)
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
俳諧データベース
http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/haikai/haikai_i158.html
皐月(さつき) - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/sa/satsuki.html
6月28日)は「雨の特異日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/7d6c470a82fbde5db072a49de1468279
6月1日「気象記念日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%C6%FE%C7%DF
花札 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%9C%AD
洗うを洗う
http://www.mizu.gr.jp/kenkyu/mizu11_arau/no11_h01.html