今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

プロポーズの日

2009-06-07 | 記念日
日本記念日協会の今日の記念日を見ると6月の第1日曜日は「プロポーズの日」だそうである。何でも、制定者はブライダルファッションの第一人者桂由美だそうである。
ジューン・ブライド
お母さま お願い
ジューン・ブライド
あたしにも 着せてね

※そよ風のような ウエディング
白いドレス
あの人に 嫁ぐとき

ジューン・ブライド
神さまが くださる※

「ジューン・ブライド」(作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰、歌: ザ・ピーナッツ)
私の大好きだった歌手ザ・ピーナッツの歌であるが、ザ・ピーナッツといえば宮川 泰。宮川と言えばピーナッツ。 宮川は、1960年代のスター、ザ・ピーナッツの育ての親として数々のヒット曲を輩出している。そんな宮川がピーナッツに送った曲「ジューン・ブライド」。
「6月」の英語名である「June」はローマ神話ユピテル(ジュピター)の妻ユノ(ジュノー)から取られたが、このユノが結婚生活の守護神であることから、6月に結婚式を挙げる花嫁(bride)を「ジューン・ブライド」(June bride、6月の花嫁)と呼ぶようになったという(フリー百科事典Wikipedia)。この故事から、ヨーロッパなどでは天気の良い6月に結婚式をするのが良いとされているようだが、日本でもその慣わしをそのまま受け入れて、この蒸して暑い梅雨の6月に結婚式を行なう人が少なくないことを私など不思議にさえ思うほどなのだが、今日の「プロポーズの日」は、さらにこれを発展させたものか、この6月にプロポーズすれば幸せな結婚にゴールインできるとされることから・・・?プロポーズをするきっかけの日として誕生させたようだ。
プロポーズ (propose)は、英語では提案する、申し込むという意味であるが、日本語では、特に結婚を申し込むという意味で使われており、これを、日本語に直せば求婚のことだろう。
結婚は人生において大きな出来事の一つなので、求婚も大きな重みをもつ。女性にとっては結婚と同じぐらい重要でロマンチックなものであると考えられている。ま~、鬱陶しい梅雨時に結婚式を挙げるより、この時期にプロポーズ(求婚)でもして、それが、実れば、気分も爽快、心も晴れて良い気分だろう・・・が・・求婚は、男性にとっては関門の一つだともいえる。もし、振られたら・・・???
「求婚」については、日本に現存する最古の歌集とされている「万葉集」巻第一の巻頭に雄略天皇別名:大泊瀬幼武命(おおはつせわかたけのみこと)の以下の雑歌が掲載されている。
「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我(われ)こそ居(を)れ しきなべて 我(われ)こそ座(ま)せ 我(われ)こそば 告(の)らめ 家をも名をも 」
 上記の歌の意味は、「おや籠を、籠を持って、おや箆(へら)を、箆を持って、この岡で、菜を摘んでおいでの娘さんよ。お家を聞かせてくれよ。お名前おっしゃいよ。大和の国は、すっかり俺が治めているんだ。あたり一帯、俺が治めているんだ。ではまず、俺の方から名乗ろうよ、家も名前も。」・・・といった意味らしい。
歌の中の「そらみつ」は、 「大和」の枕詞。神武紀によれば、饒速日命(ニギハヤヒ参照)が天磐船に乗って空から大和国を見て天降ったので「そらみつやまと」と言うようになったという(以下参考に記載の「雄略天皇 千人万首」参照。又、「名告(の)らさね」について、古代、名にはそのものの霊魂が宿っていると考えられ、名乗りは重要事だったらしく、男が女の名を尋ねるのは求婚を意味し、女が名を明かすのは承諾を意味したそうだ。また、早春、娘たちが野山に出て若菜を摘み食べるのは、成人の儀式でもあったという(以下参考に記載の「※万葉集」参照)。 
万葉集は二十巻からなるが巻第一を原核とし、数次の編纂過程を経て成立したとされており、巻第一は、天皇の御代の順にしたがって歌を配列する構成がとられ、雑歌(公的な場で歌われたさまざまの歌)のみの巻であるが、その巻頭に倭の五王の一人とされている雄略天皇(第21代天皇)の歌で始まっているということは、奈良時代の人々においても雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことを示しているようだ。ただ、この歌は、雄略天皇が、万葉の時代から約200年も前の天皇であるため、実作ではなく伝承された歌謡と考えられているようだが、名前を名乗るだけで、求婚と言うことになるのであれば、今の時代の気の弱い男でも求婚しやすくっていいよね~。でも、今時の女性は積極的なので、男が、もたもたしていると、女の方から求婚してくるかも・・・。それを待つか・・・(^0^)。
奈良時代から平安の時代になると、宮廷に上り一条天皇中宮・藤原彰子(藤原道長の娘)に女房として仕えた紫式部藤原北家の出で、女房名は「藤式部」「紫」の称は『源氏物語』の作中人物「紫の上」に、「式部」は父が式部省の官僚・式部大丞だったことに由来するとか)は、源氏物語の中で、母系制が色濃い平安朝中期を舞台にして、天皇の皇子として生まれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏が数多の女性遍歴を重ねながら、自己形成の道を歩む姿を描いている。幾多の女性との出会いと別れを繰り返し、あるときは女性たちの嫉妬に悩み、またあるときは自らの過ちに深く苦しむ。そんな光源氏がどうしても口説き落とせなかった女性が3人いる。 秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)、玉鬘(たまかずら)、朝顔の姫君の3人である。この中でも完全に源氏を振ったのは、朝顔の姫君であり、源氏物語第20帖に登場する。光源氏32歳の秋から冬の話である。
朝顔は、桐壺帝の弟・桃園式部卿宮の姫君で、光源氏のいとこにあたる。名前は、源氏からアサガオの花を添えた和歌を贈られたという「帚木(ははきぎ)」や「朝顔」の逸話からきており、そこから「朝顔の姫君」「朝顔の斎院」「槿姫君」「槿斎院」などの呼び名がある。54帖中2帖「帚木」から34帖「若菜」まで登場している。源氏が若い頃から熱をあげていた女君の一人で、高貴の出自のため正妻候補に幾度か名前が挙がり、正妻格の紫の上の立場を脅かした。姫君自身も源氏に好意を寄せているが、源氏の恋愛遍歴と彼と付き合った女君たちの顛末を知るにつけ妻になろうとまでは思わず、源氏の求愛を拒み続けてプラトニックな関係を保ち、折に触れて便りを交わす風流な友情に終始し、そのまま独身を貫き通して最後には出家してしまった。そんな、源氏と朝顔の会話に以下のようなものがある。
源氏 「人知れず  神のゆるしを  待ちし間に ここらつれなき  世を過ぐすかな」
(ひそかに神の許しを待っていた間 あなたに冷たくされながらも 長い年月を過ごしたものです)
朝顔 「なべて世の  あはればかりを  とふからに  誓ひしことと  神やいさめむ」
(この世の悲しみを尋ねるだけでも 誓いに背くと神は咎められるでしょう)
源氏 「見しをりの つゆわすられぬ 朝顔の 花のさかりは 過ぎやしぬらん」
    (昔お会いしたときのことが忘れられません 朝顔の花の盛りはもう過ぎたのでしょか)
朝顔 「秋はてて 霧のまがきに むすぼほれ あるかなきかに うつる朝顔」
    (秋が去って霧かかっている垣根にまつわりついて あるかなきかに衰えていく朝顔)
冴えない色艶の朝顔ですか?確かに私そのものですね・・・といったところで、長い間朝顔に思いを寄せ執着してきたものの最後まで愛を拒まれた源氏の求婚は遂に、空振りに終わってしまったのだ。(詳しくは、以下参考に記載の「『源氏物語』ウェブ書き下ろし劇場」の『源氏物語』の現代語訳/20 朝顔や、「『源氏物語』を読み解く」の源氏物語5…薄雲巻 ・ 朝顔巻 ・ 少女巻 ・ 玉鬘巻 ・ 初音巻などを参照されると良い)。
そういえば、私が、若い頃(昭和30年代頃)までは、好きな女性がいてもなかなか求婚など出来ずに、プラトニック(Platonic)な関係だけに終わってしまう人達も多かったと思うのだが、プラトニック・ラブなんて言葉は、今や死語と化しているようだ。もう、「出来ちゃった結婚」なんて言葉が、流行語のようにさえなっているのだから・・・。しかし、西洋などとは違って、古来日本の農村部には夜這いの風習などがあり、特に処女が尊重されることはなかったようで、近代日本の処女崇拝は、武士階級固有の武士道的な倫理(貞女二夫にまみえず)に、キリスト教的倫理が結合したところに成立した観念的な思想で、それが、元の日本の姿に戻ったということかな?(^0^)。
明治の時代、芥川龍之介が、1916(大正5)年25歳の時というから、東大の大学院で作家としてこれから第一歩を歩もうとしていた頃、後に妻となった恋人の塚本文(母の弟であり、友人でもある山本喜誉司の姉の娘)に送った、求婚の恋文がある。
「文ちゃん。
僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして 暮らしてゐます。
何時頃 うちへかへるか それはまだ はっきりわかりません。
が、うちへ帰ってからは 文ちゃんに かう云う手紙を書く機会がなくなると思ひますから 奮発して 一つ長いのを書きます」
・・・として、長い手紙が始まる。
(中略) 
「文ちゃんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから 何年になるでせう。
(こんな事を 文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません)
貰ひたい理由は たった一つあるきりです。
さうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだと云ふ事です。
(中略)
僕のやってゐる商売は 今の日本で 一番金にならない商売です。
その上 僕自身も 碌に金はありません。
ですから生活の程度から云へば 何時までたっても知れたものです。
それから 僕は からだも あたまもあまり上等に出来上がってゐません。
(あたまの方は それでも まだ少しは自信があります。)
うちには 父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。
僕には 文ちゃん自身の口から かざり気のない返事を聞きたいと思ってゐます。
繰返して書きますが、理由は一つしかありません。
僕は文ちゃんが好きです。それでよければ来て下さい。」
(以下略。恋文の内容は、以下参考に記載の「芥川龍之介と一宮」に前文が書かれている。)
文子は、龍之介より8歳年下だから、この手紙を出した当時、文子はまだ16歳の女学生だったようだ。
以下参考に記載の「芥川龍之介の青春」によれば、“龍之介は、手紙を書くときには、句読点抜きの書き流し式文体を使用するのが例で、夏目漱石のような特別の上長に出す手紙にだけは、句読点を付けていたようだ。だから、文子に出したこの手紙に句読点がついているところをみると、彼はかなり緊張してこのプロポーズの手紙を書いたようだ。”という。
つまり、彼は、未来の妻に宛てた手紙は、彼の手紙の特色だった文人調のひねった筆致を捨て、ただ自分の気持ちをそのまま文章にしているのだ。この手紙には、彼の彼女への熱い思い・温かさ・愛情・幼い頃からの親しみが溢れている。
芥川のこの愛の告白文に心を打たれたのだろう文子は、この年末に、芥川と婚約し2年後の1918(大正7)年2月2日に結婚をしている。
しかし、結婚後の芥川は人妻との不倫、妻・文子の友人女性との心中未遂など、波乱に満ちた恋愛を繰り返した末、35歳のときに自殺した。芥川を巡る女性については、以下参考に記載の「芥川をめぐる女性」を参照、又、以下参考に記載の「芥川龍之介の青春」によれば、芥川の自殺には、芥川と文子が結婚後も彼等とともに同居していたという伯母 (文子への恋文の中に「うちには 父、母、叔母と、としよりが三人ゐます」と出てくる「おば」)が非常に関係しているようだ。
芥川がどうのこうのといったことは、この際は、どうでも良い。恋する人へのプロポーズの仕方は人それぞれに流儀があり、色々だろうが、私などは、今の時代であろうとも、やはり、芥川の文子への告白文のように、自分の気持ちを素直に打ち明けることが一番良いと思うのだが、それは、年のせいだろうか。
私など、親と家人の叔母とが勧めてくれた見合い結婚であり、その際にも、何か求婚らしきことをはっきりといった覚えもなく、何となく、見合いが成立したといった感じ。しかし、家人は、同居している私の母の面倒もよく見てくれたし、今まで、何事もなくこれたことを、私は、家人に心から感謝している。
元に戻るが、冒頭にも書いた私の大好きな歌手・ザ・ピーナッツの「ジューン・ブライド」は以下で聞けるよ。ここに選ばれている宮川泰作品ベスト8は全て素晴しい曲だが、この中では、第2位にランクされている。良い曲ばかりなので知らない人は是非一度聞いてみるとよい。結婚したくなるかもね。
ザ・ピーナッツが歌う宮川泰作品 私のベスト8
http://www.youtube.com/watch?v=h63OWLa4XW4
(画像はレコードジャケット・A面 ジューン・ブライド 、B面 ほほにかかる涙、ボビー・ソロのカバー曲KING RECORD BS-9)
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2009-06-07 | 記念日
参考:
6月-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%88
求婚 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%82%E5%A9%9A
Yumi Katsura Paris 桂由美
http://www.yumi-katsura.co.jp/
万葉集 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
※万葉集
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/manyo2.htm
雄略天皇 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yuryaku.html
ニギハヤヒ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AE%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%83%92
源氏物語各帖のあらすじ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E%E5%90%84%E5%B8%96%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%99%E3%81%98
『源氏物語』ウェブ書き下ろし劇場
http://www.nac-hiroshima.jp/drama/daihon/genji/index.html
『源氏物語』を読み解く
http://sky.geocities.jp/okamepapa07/genjimonogatari.html
プラトニック・ラブ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%96
芥川龍之介 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B
一宮町・観光協会
http://www.ichinomiya.org/meisho/meisho034.html
芥川 竜之介:作家別作品リスト(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person879.html
芥川龍之介年譜
http://homepage2.nifty.com/snowwolf/nen3.htm
芥川龍之介の青春
http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/akutagawa.html
芥川をめぐる女性
http://homepage2.nifty.com/snowwolf/josei.htm
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html


新美南吉の 童話「デンデンムシノ カナシミ」が発刊された日

2009-06-05 | 歴史
1950(昭和25)年6月5日、羽田書店 より、新美南吉著 『ろばのびっこ 』( 土田文雄:絵 )が発刊されている。
新美南吉(にいみ なんきち)は愛知県半田市出身の児童文学作家。本名は新美正八(旧姓:渡辺)。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年=昭和7年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。彼のことは、このブログ新美南吉(童話作家『ごんぎつね』) の忌日や、11月23日「手袋の日」で書いたことがあるので、今回で3回目だ。
新美の作品には、童話、小説、伝記物語、幼年童話、童謡、詩、短歌、俳句、戯曲などがあり、さらに日記、書簡なども多く残されている。これらは「校定新美南吉全集」1~12巻・別巻ⅠⅡ(大日本図書)に収録されている。「驢馬の びつこ」や「デンデンムシノ カナシミ」「ミチコサン」は「校定新美南吉全集」(4) 【昭和55.9.30】 大日本図書のなかに収録されているが、これらの初版発行日(初出)は1950(昭和25)年6月5日「ろばの びっこ」羽田書店からであり、この中には、 他に、「ウサギ」「かごかき」「仔牛」が掲載されている。これらの作品は、いずれも、青空文庫の「作家別作品リスト:新美 南吉」の中にあるので、いつでも読めるのがうれしい。
この「ろばの びつこ」のなかに織り込まれている「デンデンムシノ カナシミ」をあえて今日選んだのは、今年(2009年)4月10日の天皇皇后両陛下の御成婚50年に寄せて、朝日新聞の「天声人語」に、美智子皇后が1998年インドであった国際児童図書評議会での講演で新美 南吉のこの本に触れられたことが乗っていたのを思い出したからである。
イツピキノ デンデンムシガ アリマシタ。
 アル ヒ ソノ デンデンムシハ タイヘンナ コトニ キガ ツキマシタ。
「ワタシハ イママデ ウツカリシテ ヰタケレド、ワタシノ セナカノ カラノ ナカニハ カナシミガ イツパイ ツマツテ ヰルデハ ナイカ」
 コノ カナシミハ ドウ シタラ ヨイデセウ。
 デンデンムシハ オトモダチノ デンデンムシノ トコロニ ヤツテ イキマシタ。
「ワタシハ モウ イキテ ヰラレマセン」
ト ソノ デンデンムシハ オトモダチニ イヒマシタ。
「ナンデスカ」
ト オトモダチノ デンデンムシハ キキマシタ。
「ワタシハ ナント イフ フシアハセナ モノデセウ。ワタシノ セナカノ カラノ ナカニハ カナシミガ イツパイ ツマツテ ヰルノデス」
ト ハジメノ デンデンムシガ ハナシマシタ。
 スルト オトモダチノ デンデンムシハ イヒマシタ。
「アナタバカリデハ アリマセン。ワタシノ セナカニモ カナシミハ イツパイデス(以下略)
これは、青空文庫の「デンデンムシノ カナシミ」より抜粋したものである。背中の殻に哀しみが詰まっているのに気がついた1匹が、もう生きてはいられぬと友達に相談するが、みんなの殻にも悲しみが一杯だったのである。
皇后さまは、「自分だけではないのだ。私は、私の悲しみをこらえていかなければならない。この話は、このでんでんむしが、もうなげくのをやめたところで終わっています」・・・と。
美智子皇后は、当時皇太子であった明仁親王と1959(昭和34)年4月10日に御結婚。明治以降初めての民間(士族以下)出身の皇太子妃となられた。晴れがましいご成婚のパレード、民間での祝福ムードとは対照的に、成婚後もなお民間出身であること、選に漏れた他の候補者に旧皇族出身がいたことなどの理由から、他の皇族、女官に受け入れられず、旧皇族・旧華族の婦人らからも一挙手一投足に至るまで徹頭徹尾非難され続けたといわれており、美智子妃のご心労はいかばかりであったかがお察しできる。
何時も国民の前で笑顔を絶やさず明るくふるまわれている美智子皇后ではあるが、その笑顔の下に悲しみを殻に収めて、じっと耐え、また、陛下と分かち合いながら、ご公務を勤めてこられたのだと思うと本当に、ご同情申しあげると同時に頭が下がる思いである。
新美南吉は、地方で教師を務め若くして亡くなった童話作家という共通点から宮沢賢治との比較で語られ、賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニカル(皮肉であるさま。冷笑的)な筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人からの目線で主観的・情緒的に自分の周囲の生活の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風で、好対照をなしている。
南吉のこの童話「デンデンムシノ カナシミ」が発表されたのは、まだ戦後5年目の混乱期であった。この年、日本経済はデフレ政策(超均衡予算を中心とするドッジ・ライン)の下、超低空飛行を余儀なくされたまま明けた。トラ年なのに、東京の上野公園にはトラの姿もなく、剥製や張子のトラが展示されるのみ。そのようなお寒い状態が日本の現実であった。戦争の生々しい記憶と焼け跡の貧しさの中で、当時の殆どの人々が殻の中に「カナシミ」を閉じ込め、明日に向かってじっと耐えていた。そんな時代に作られたこの童話は、その時代に生きた我々にとっては非常にわかりやすいお話である。
この時代で思い出されるのは、前年の1949(昭和24)年、第三次吉田内閣吉田茂(麻生太郎のおじいさん)は、一年生議員の池田勇人を大蔵大臣に抜擢して世間を驚かせたが、1950(昭和25)年3月1日、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」と発言して問題になった。また、12月7日の参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見を糾した。この質疑応答の中で池田は「所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つた方へ持って行きたいというのが、私の念願であります」と締めくくったが、これが吉田政権に対して厳しい態度を取っていたマスコミを刺激。 翌日の新聞朝刊は「貧乏人は麦を食え」という見出しで池田の発言を紹介、これが池田自身の発言として伝わり、各方面から強い批判を受けることになった(詳しくは国会答弁:貧乏人は麦を食え参照)。
この年6月25日朝鮮半島で戦争が勃発(朝鮮戦争)し、占領下の日本は、兵站基地としての役割を担うこととなる。そしてその朝鮮特需のおかげで、日本経済に吹く風は逆風から一転追い風になった。その後、高度経済成長の波に乗って、経済発展してきた日本は、1970年代のニクソン・ショックオイルショックを経て、安定成長期に入る。その後も過剰な投機熱による資産価格の高騰(バブル経済)によって支えられいた安定成長期もバブル崩壊と共に終焉し、以後は2000年代前半まで続く平成不況期となった(以下参考に記載の「平成の大不況」参照)。そして、昨2008(平成20)年9月に米大手証券 リーマン・ブラザーズが破綻し、世界経済がそれを境に一変した“リーマン・ショック”から7ヶ月が経過した今、日本経済は危機的な状況にある(最近証券市場等は少し持ち直したかに見えるが・・・)。
考えて見れば、日本は、1950(昭和25)の朝鮮特需以降、他国に比して「平和」時代が続き、国民全員が幸せな時代を謳歌してきたといえるだろう。そのような、平和な、恵まれた「飽食の時代」の中で育った世代の人達に、何も「カナシミ」が無かったのかといえば、そのような人達は人達でそれまでの人達とは違った形での異質な「カナシミ」があっただろう。しかし、今の時代は、それまでとは違って、弱者と強者の立場がはっきりと区別される時代となっている。かっての池田首相の発言を取り上げたマスコミの台詞じゃないけれど「貧乏人は麦を食え」・・・どころか、力の無い人、弱い人は、働くところもなく生きてゆけない状況になりつつある。
新美南吉「デンデンムシノ カナシミ」や我々戦後の何もない焼け野原の中で食べるものもなかった世代の者の「カナシミ」も、その時代に生きているみんなが一様に同じ様な「カナシミ」を背負って、生きてきたから、なんとか、我慢してこれたが、今の時代のように、強者と弱者に選別され、そんな中で、弱者に属した人達の「カナシミ」は、今までよりもより深刻なものだろうな~と思う。そう思うと、つくづくと美知子皇后は良く耐えてこられたものだと改めて敬意を評したいものです。
尚、余談であるが、新見南吉の初版本を出した「羽田書店」と言うのは、東京朝日新聞・政治部記者から鉄道大臣秘書官となり、1937(昭和12)年、立憲政友会公認で第20回衆議院議員総選挙に立候補し、当選した長野県出身の羽田 武嗣郎が、同年6月岩波書店の岩波茂雄の勧めで開業したものである。彼は、元内閣総理大臣・羽田孜(現:民主党最高顧問)の父であることを付け加えておこう。
最後に、ネットでは、新見南吉の『デンデンムシ ノ カナシミ』の朗読も聴けるのだが、これを楽曲にしたものもある。これはこれで面白いので聞いてみては・・・。以下です。
YouTube  デンデンムシノ カナシミ
<http://www.youtube.com/watch?v=aE1gZe6ZoPs
(画像は、「でんでんむしのかなしみ」 著者:新美 南吉、イラスト:かみや しん )
参考:
新美南吉-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%8E%E5%8D%97%E5%90%89
新美南吉記念館のホームページ
http://www.nankichi.gr.jp/index.html
作家別作品リスト:新美 南吉(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person121.html
天声人語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%A3%B0%E4%BA%BA%E8%AA%9E
皇后美智子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%90%8E%E7%BE%8E%E6%99%BA%E5%AD%90
2009年4月10日は、天皇・皇后ご結婚50周年
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kekkounn50nenn.htm
池田勇人 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%8B%87%E4%BA%BA
平成の大不況
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~morisaki/004econo_leaks/fukyou2.htm
リーマン・ブラザーズ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%BA
羽田武嗣郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%94%B0%E6%AD%A6%E5%97%A3%E9%83%8E
統合書誌情報:シリーズ名: こども絵文庫 (東京 : 羽田書店)
http://kodomo3.kodomo.go.jp/web/ippan/cgi-bin/fTGS.pl?nTogoId=16051&sGamen=SS

東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった日(Ⅰ)

2009-06-04 | 歴史
1879年(明治12)6月4日 東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった。
靖国神社は、東京都千代田区にある神社である。本殿に祀られている「祭神」は「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた」戦没者、英霊であり、よくみられる神社などのように日本神話に登場する神や天皇などではない。
靖国神社は、1869(明治2)年に戊辰戦争での朝廷方の戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により「東京招魂社」として創建されたが、この東京招魂社が創建される要因に、明治維新の激動期(嵐)に翻弄された静岡県の神主たちの処遇があったという(以下参考に記載の「靖国神社はなぜつくられたのか」参照)。そこに記載されていることによると、“、明治維新後の軍制改革を進め徴兵令による国民皆兵の軍隊創設を目指していた大村は、制度や兵器を整えるだけではなく、国のために戦死した兵士を天皇自らが霊威・顕彰することが非常に重要である事に気づき、彼は、戦場となった上野東叡山(とうえいざん)寛永寺を没収し、そこに官軍将兵の戦死者を祀る招魂社を建設、官軍に協力した遠州の報国、駿州の赤心両隊の神職が移住奉仕することを提案。すでに長州藩をはじめ各藩で独自に始められていた各藩の国事殉難者の慰霊を、新政府が国家規模で行なおうとする構想のものが、新政府で承認されたが、場所は、戦いの跡が生々しい上野から変更され、皇居に近い九段坂に創建され、戊辰戦争での官軍等戦死者3,588柱が合祀されたという。そして、最終的に報国・赤心両隊各32名計64名の元隊員が東京に移住し、1869(明治32)年11月23日に招魂社の社司に任命されたという。
しかし、前文にも簡単に触れられているように、東京招魂社が出来る前に、つまり、日本初の招魂社は奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩の尊王倒幕志士として活躍した高杉晋作の発議によって創建された櫻山招魂場(現・櫻山神社、1865【慶応元】年8月、山口県下関市)だそうである(以下参考に記載の「桜山神社」参照)。
又、ここにある社司(やしろのつかさ)は、もと府県社および郷社の神職の長。祠官(しかん)の後身で、1946(昭和21)年宮司となった。東京招魂社と称された時期には神官・神職の定めは無かった。例大祭・臨時大祭には卿または将官、招魂式には将官または佐官(将官の下、尉官の上)、その他の祭祀には佐官尉官(佐官の下)が奉仕した。1875(明治8)年以降は例大祭・臨時合祀祭・招魂祭の祭主は陸軍・海軍が隔番で務めていたようだ。1879(明治12)年の改称列格によって官員の祭主は廃され祭典は宮司が行うこととなった。2009(平成21)年現在の宮司は南部利昭平成21年1月7日逝去。現在は後任を選定中)であるが、1879(明治12)年始めて宮司となったのは、青山清である。この宮司のことは、よく判らないようだが、以下参考に記載の「備中處士様の論考」の中の「靖國神社初代宮司・青山清翁遺聞」に詳しく書かかれてある。結論から言うと“江戸時代まで青山上總介長清を名乗っていた萩・椿八幡宮大宮司家の第九代宮司であつた青山清は、白石正一郎や高杉晉作・山縣有朋・伊藤博文たちとのかゝはりの中で、慶應元年8月6日に、下關の櫻山招魂場で、最初の大祭(招魂祭)を擧行。靖國神社は、長州藩の招魂祭から始まつたといはれるが、それは、青山清が櫻山招魂場で奇兵隊士を祭った延長上に上京し、東京招魂社の初代宮司になったことに表れていた。”‥‥とある。
靖国神社で最も重要な祭事は、春秋に執り行われる例大祭である。同神社ではこの当日祭には天皇陛下の使いである勅使が参向(勅祭社参照)し、陛下よりの供え物(御幣物)が献じられ、御祭文が奏上される。
1904(明治37)年日露戦争の開戦にともない、乃木希典は、第3軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮。130日あまりの激戦の末多くの犠牲者(東郷の2児も戦死)を出しながら203高地を占領し、1905(明治38)年1月2日には、辛くも旅順要塞陥落。この報を陸軍省が感動的に発表、日本国民はこぞって沸きに沸いた。予断であるが、この頃マスコミもしきりに戦争を煽る役割を果たしていたことが今日反省されてはいるものの今の時代のマスコミも余り大差ないことをやっているように思われるのだが・・・。
この報道の3日後の1月5日、乃木は、敵将ステッセルとあの有名な水師営で会見をしている。この時の図は前にこのブログの「明治天皇御大葬と乃木希典殉死の日」の時紹介した。ステッセルが旅順を去った後の、同月13日に乃木軍は旅順に入城式を行い、翌・14日、水師営南方の丘陵上において戦没者の招魂祭が行なわれ、乃木は飛雪のなかに立ち、みずから起草した祭文を朗読したという。以下参照。
招魂祭 - 「明治」という国家
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2007/01/post_412.html
また、九段の靖国神社でも、同年5月1日から、乃木第3軍の招魂祭(~2日)、3日から戦没者合祀臨時大祭(~7日)が行なわれた。その光景は、冒頭に貼付の写真左を参照。この日露戦争による戦死者の増大で、この半年間に合祀されたのは3万890人にのぼり、各県から上京した多数の遺族の為に、県別の参拝休憩所を設けて対応したほどだったという。アサヒクロニクル「週刊20世紀」(1905年版)より。【補足:同年3月奉天の会戦(日露両満州軍4度目の激突)に勝利し、日露戦争は終結。】
尚、東京招魂社は、1879(明治12)年に靖国神社と改称しているが、靖国神社の名は『春秋左氏伝』第六巻僖公二十三年秋条の「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を典拠として明治天皇が命名したものだそうである。同年6月16日の「社号改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲(なげう)ちて各(おのおの)も各も死亡(みまかり)にし其(その)高き勲功に依りて大皇国をば安国と知食(しろしめ)すが故に靖国神社と改称(あらためとなえ)」 とあるそうだ(Wikipedia)。
東京以外の地方の招魂社は、この年・1939(昭和14)年4月1日施行の内務省令によって一斉に、護国神社と改称されている。理由は、「招魂社」の「招魂」は臨時の、一時的な祭祀であるが、「社」は恒久施設であり、名称に矛盾があるために改称されたという。また、当初祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたものが、日露戦争後、新たに「英霊」と称されるようになったようだ。このような経緯から、明治末期になっても、靖国神社という名称よりも、招魂社という名で庶民には親しまれていたようで、そのことは、同年(1905【明治38】年)1月、「ホトトギス」に発表した夏目漱石『我輩は猫である』(以下参考の青空文庫で読める)の中に以下のようなかたちで登場していることをみてもわかる。
幼い3人の娘の中のとん子が突然口を開いて「わたしも御嫁に行きたいな」と云いだした。これにちょっと毒気を抜かれた体の雪江さんに対して、細君の方は比較的平気に構えて「どこへ行きたいの」と笑ながら聞いて見た。そうすると・・・・、
“「わたしねえ、本当はね、招魂社へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」
細君と雪江さんはこの名答を得て、あまりの事に問い返す勇気もなく、どっと笑い崩れた時に、次女のすん子が姉さんに向ってかような相談を持ちかけた。
「御ねえ様も招魂社がすき? わたしも大すき。いっしょに招魂社へ御嫁に行きましょう。ね? いや? いやなら好(い)いわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」
「坊ばも行くの」とついには坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行く事になった。かように三人が顔を揃(そろ)えて招魂社へ嫁に行けたら、主人もさぞ楽であろう。“と・・・。
この小説は、面白くは書かれてはいるが、当時の情勢にたいして、漱石なりに結構な皮肉を利かしているようだね~。兎に角、今は、首相の参拝問題などで揺れてる神社ではあるが、『靖国』という本によればこの当時としては“超ハイカラな東京名所”だったようだ。以下参考に記載の「自転車文化センター/明治~昭和初期の錦絵に見る自転車のある東京の町並み」
Pの中の東京名勝 九段坂上靖国神社 25.明治39年 26大正2年など見られると良い。
画像は、左:1905年5月の靖国神社での乃木第3軍の招魂際の様子。右:1941年11月6日の靖国神社秋季例大祭の日に靖国神社に参拝した近衛歩兵第3連帯。いずれも、朝日クロニクル「週刊20世紀」より)

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東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった日(Ⅱ)

2009-06-04 | 歴史
冒頭掲載の右画像は、左画像より、少し時代も進み、1941年(昭和16)年11月6日の靖国神社の秋季例大祭の日、同神社に参拝した近衛歩兵第3連隊(近衛師団参照)である。同様に、アサヒクロニクル「週刊20世紀」(1941年版)より借用のものだ。この写真には、以下のような補足がある。
“兵士の表情は凛々しく、緊張感がみなぎっている。靖国神社の前身東京招魂社は、1869(明治2)年の創設。維新期の内乱で死んだ官軍の犠牲者を祀った。10年後、別格官幣社靖国神社と改称。別格官幣社は、勤皇忠死、顕著な功績のあった人臣を祭神とした。また、一般の神社が内務省のみの管轄だったのに対し、靖国神社は陸・海軍省との共同管理となった。国民学校の音楽で以下の歌が歌われた”・・・と。
ああ、たふとしや、大君(注・天皇のこと)に
命ささげて、国のため
たてしいさをは、とこしへに
光かがやく 靖国の神。
この歌のこと、その出来た経緯など、以下参考に記載の「「平和を守る」を、あなたと一緒に考える: 記録 国民学校の音楽の時間 総集編」に詳しく書いてあるが、当時使われていた『初等科音楽 一』のなかにある「靖国神社」の歌詞だそうである。この歌の2番は、以下のように続くらしい。
 ああ、かしこしや、桜木の
    花と散りても、忠と義の
    たけきみたまは、とこしへに
    国をまもりの 靖国の神。
この2ヶ月前の1941(昭和16)年9月1日には、欧州で第二次世界大戦が勃発している。そのような中で、1937(昭和12)年から始まった日中戦争に行き詰まっていた日本が、日米開戦(太平洋戦争参照)に突き進むのは、この近衛歩兵第3連隊が参拝した約1ヵ月後の12月8日のことであった。満州事変や上海事変後すでに戦意高揚のための映画や歌が作られていたが、日中戦争も2年後の1939(昭和14)年ごろになると、大陸からの主要都市陥落のニュースが飛び込み、列島各地で、戦勝を祝う提灯行列が行なわれる(やはりマスコミが煽っているが・・)一方では、戦死者の知らせが相次いだ。そのため、いつ召集が来るか、いつ戦死の公報がまいこむか・・と、当時の人々は、「お国の為」に、明るく振舞ってはいても内心は、「不安な時代」でもあったろう。
そのような中で、映画なども兵士個々の姿を描いたものから、分隊という集団の中の兵士たちの姿を描いた火野葦兵の従軍記録「土と兵隊」(以下参考のgoo-映画参照)を田坂具隆監督が映画化するようになった。この映画は火野の戦争三部作と言われるものの1つであるが、集団の中の兵士たちをとらえ、延々と続くぬかるみ道を歩く姿を克明にカメラに収めることで運命共同体としての連帯感を描写したものである。
そして、1939(昭和14)年1月、松原操、童謡歌手飯田ふさ江の歌唱で発売された「父よあなたは強かった」と同じく、東京・大阪両朝日新聞社企画募集歌で、「皇軍将士に感謝の歌」として児童向けに募った第1位当選歌詞「兵隊さんよありがとう」が発売されている。以下で聞ける。
YouTube - 父よあなたは強かった作詞:福田 節 、作曲:明本 京静 。歌:松原操、飯田ふさ)
http://www.youtube.com/watch?v=5XXggeAttdw
YouTube - 兵隊さんよありがとう(作詞・橋本善三郎 作曲・佐々木すぐる歌・二代目コロムビア・ローズ)
http://www.youtube.com/watch?v=3FW39uioyR8
この歌は4節に亘って「兵隊さんのおかげです」と繰り返し、最後に同文言で締めくくっている。この時代になると、子供たちまでが「小国民」としての自覚と責務が求められ、このような、小国民愛国歌が沢山作られるようになった。「少国民」とは、戦時中に小さくとも国民なんだから、頑張れという意味で、小学生に対する呼び名として使われた言葉である。
靖国神社はもともと戊辰戦争官軍側の戦死者を弔う招魂祭を起源としていたのだが、それがその後の事変や戦争、ひいては大東亜戦争殉死した日本の軍人などが祀られることになるのであるが、明治期の軍人でも、あの乃木希典や、東郷平八郎などは戦時の死没者でないため靖国神社には祀られていない。(別に個人として乃木神社や、東郷神社で祀られてはいるが・・・。)
毎年、8月15日は、大東亜戦争の終戦記念日であるが、『終戦』そのものは靖国神社にとって特別な意味を持たないため、特定の行事は行われていない。しかし、年間を通して最も多くの参拝者がある。靖国神社支援団体等による式典や、英霊の遺族・戦友、大臣・政治家らの参拝も行われ、更には全国から神社を支持・支援する者や神社の存在に反対する者なども多数集まる。これらが神社の境内や周辺で小競り合いを起こすようなこともある。靖国神社が1年のうちで最も注目を集め、最も騒々しくなる日である。
1978(昭和53)年7月、靖国神社の第6代宮司に就任した松平永芳が10月、それまでの宮司預かりの保留であった東京裁判A級戦犯14柱の合祀を実行した(靖国神社では昭和殉難者と呼ぶ)。これが、いわゆるA級戦犯合祀問題の発端となる(合祀の判明は、翌年4月19日)。この論争は今日まで続いている。
この問題に関しては、それぞいれの考え方があるであろうし、私にもそれなりの考えはあるが、ここで意見を述べようとは思わない。
ただ、あのラフカディヲ・ハーン(小泉八雲)が、その絶筆となった『神国日本ー解明へのー試論ー』の中でも触れているように、「死者の霊を迎える社」招魂社が、天皇と祖国の為に死んだ霊全てを迎えるところとして信じられる。祖国愛としてこの古い招魂の信仰が、神道として結びついたときの悲劇を述べていることは注目されるところだろう(以下参考に記載の「靖国神社とはなにか」参照)。
第6代宮司に就任した松平永芳は、“平泉澄博士を師と仰ぎ、盡忠憂國、志操あまりに純粹一途、己の名利を追求することなく、日常の一擧一動に至るまで、全ての行動の判斷基準を、皇室と國家の護持といふ點に置いた”と云う(以下参考に記載の「靖國神社考(1)」「靖國神社祀職」など参照)。
松平永芳は平泉澄門下の筋金入りの皇国史観派将校であり、太平洋戦争開戦直後に東條内閣が倒れ、小磯国昭内閣が成立後、国家総力戦に備えるべく、陸海軍を統合して皇族を総参謀長にする体制作りと、特攻作戦の実施を島田東助(同じ平泉澄門下で当時の海軍技術少佐だったようだ)に伝えたといわれるが、昭和天皇自身は、昭和初年から平泉皇国史観に対して、本音では否定的であったろうという。少なくとも、昭和天皇は、A級戦犯合祀以降、靖国神社への参拝はしていない(この件については、以下参考に記載の「昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ」参照)。
(画像は、左:1905年5月の靖国神社での乃木第3軍の招魂際の様子。右:1941年11月6日の靖国神社秋季例大祭の日に靖国神社に参拝した近衛歩兵第3連帯。いずれも、朝日クロニクル「週刊20世紀」より)

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