日本記念日協会の今日の記念日を見ると6月の第1日曜日は「プロポーズの日」だそうである。何でも、制定者はブライダルファッションの第一人者桂由美だそうである。
ジューン・ブライド
お母さま お願い
ジューン・ブライド
あたしにも 着せてね
※そよ風のような ウエディング
白いドレス
あの人に 嫁ぐとき
ジューン・ブライド
神さまが くださる※
「ジューン・ブライド」(作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰、歌: ザ・ピーナッツ)
私の大好きだった歌手ザ・ピーナッツの歌であるが、ザ・ピーナッツといえば宮川 泰。宮川と言えばピーナッツ。 宮川は、1960年代のスター、ザ・ピーナッツの育ての親として数々のヒット曲を輩出している。そんな宮川がピーナッツに送った曲「ジューン・ブライド」。
「6月」の英語名である「June」はローマ神話のユピテル(ジュピター)の妻ユノ(ジュノー)から取られたが、このユノが結婚生活の守護神であることから、6月に結婚式を挙げる花嫁(bride)を「ジューン・ブライド」(June bride、6月の花嫁)と呼ぶようになったという(フリー百科事典Wikipedia)。この故事から、ヨーロッパなどでは天気の良い6月に結婚式をするのが良いとされているようだが、日本でもその慣わしをそのまま受け入れて、この蒸して暑い梅雨の6月に結婚式を行なう人が少なくないことを私など不思議にさえ思うほどなのだが、今日の「プロポーズの日」は、さらにこれを発展させたものか、この6月にプロポーズすれば幸せな結婚にゴールインできるとされることから・・・?プロポーズをするきっかけの日として誕生させたようだ。
プロポーズ (propose)は、英語では提案する、申し込むという意味であるが、日本語では、特に結婚を申し込むという意味で使われており、これを、日本語に直せば求婚のことだろう。
結婚は人生において大きな出来事の一つなので、求婚も大きな重みをもつ。女性にとっては結婚と同じぐらい重要でロマンチックなものであると考えられている。ま~、鬱陶しい梅雨時に結婚式を挙げるより、この時期にプロポーズ(求婚)でもして、それが、実れば、気分も爽快、心も晴れて良い気分だろう・・・が・・求婚は、男性にとっては関門の一つだともいえる。もし、振られたら・・・???
「求婚」については、日本に現存する最古の歌集とされている「万葉集」巻第一の巻頭に雄略天皇別名:大泊瀬幼武命(おおはつせわかたけのみこと)の以下の雑歌が掲載されている。
「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我(われ)こそ居(を)れ しきなべて 我(われ)こそ座(ま)せ 我(われ)こそば 告(の)らめ 家をも名をも 」
上記の歌の意味は、「おや籠を、籠を持って、おや箆(へら)を、箆を持って、この岡で、菜を摘んでおいでの娘さんよ。お家を聞かせてくれよ。お名前おっしゃいよ。大和の国は、すっかり俺が治めているんだ。あたり一帯、俺が治めているんだ。ではまず、俺の方から名乗ろうよ、家も名前も。」・・・といった意味らしい。
歌の中の「そらみつ」は、 「大和」の枕詞。神武紀によれば、饒速日命(ニギハヤヒ参照)が天磐船に乗って空から大和国を見て天降ったので「そらみつやまと」と言うようになったという(以下参考に記載の「雄略天皇 千人万首」参照。又、「名告(の)らさね」について、古代、名にはそのものの霊魂が宿っていると考えられ、名乗りは重要事だったらしく、男が女の名を尋ねるのは求婚を意味し、女が名を明かすのは承諾を意味したそうだ。また、早春、娘たちが野山に出て若菜を摘み食べるのは、成人の儀式でもあったという(以下参考に記載の「※万葉集」参照)。
万葉集は二十巻からなるが巻第一を原核とし、数次の編纂過程を経て成立したとされており、巻第一は、天皇の御代の順にしたがって歌を配列する構成がとられ、雑歌(公的な場で歌われたさまざまの歌)のみの巻であるが、その巻頭に倭の五王の一人とされている雄略天皇(第21代天皇)の歌で始まっているということは、奈良時代の人々においても雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことを示しているようだ。ただ、この歌は、雄略天皇が、万葉の時代から約200年も前の天皇であるため、実作ではなく伝承された歌謡と考えられているようだが、名前を名乗るだけで、求婚と言うことになるのであれば、今の時代の気の弱い男でも求婚しやすくっていいよね~。でも、今時の女性は積極的なので、男が、もたもたしていると、女の方から求婚してくるかも・・・。それを待つか・・・(^0^)。
奈良時代から平安の時代になると、宮廷に上り一条天皇中宮・藤原彰子(藤原道長の娘)に女房として仕えた紫式部(藤原北家の出で、女房名は「藤式部」「紫」の称は『源氏物語』の作中人物「紫の上」に、「式部」は父が式部省の官僚・式部大丞だったことに由来するとか)は、源氏物語の中で、母系制が色濃い平安朝中期を舞台にして、天皇の皇子として生まれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏が数多の女性遍歴を重ねながら、自己形成の道を歩む姿を描いている。幾多の女性との出会いと別れを繰り返し、あるときは女性たちの嫉妬に悩み、またあるときは自らの過ちに深く苦しむ。そんな光源氏がどうしても口説き落とせなかった女性が3人いる。 秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)、玉鬘(たまかずら)、朝顔の姫君の3人である。この中でも完全に源氏を振ったのは、朝顔の姫君であり、源氏物語第20帖に登場する。光源氏32歳の秋から冬の話である。
朝顔は、桐壺帝の弟・桃園式部卿宮の姫君で、光源氏のいとこにあたる。名前は、源氏からアサガオの花を添えた和歌を贈られたという「帚木(ははきぎ)」や「朝顔」の逸話からきており、そこから「朝顔の姫君」「朝顔の斎院」「槿姫君」「槿斎院」などの呼び名がある。54帖中2帖「帚木」から34帖「若菜」まで登場している。源氏が若い頃から熱をあげていた女君の一人で、高貴の出自のため正妻候補に幾度か名前が挙がり、正妻格の紫の上の立場を脅かした。姫君自身も源氏に好意を寄せているが、源氏の恋愛遍歴と彼と付き合った女君たちの顛末を知るにつけ妻になろうとまでは思わず、源氏の求愛を拒み続けてプラトニックな関係を保ち、折に触れて便りを交わす風流な友情に終始し、そのまま独身を貫き通して最後には出家してしまった。そんな、源氏と朝顔の会話に以下のようなものがある。
源氏 「人知れず 神のゆるしを 待ちし間に ここらつれなき 世を過ぐすかな」
(ひそかに神の許しを待っていた間 あなたに冷たくされながらも 長い年月を過ごしたものです)
朝顔 「なべて世の あはればかりを とふからに 誓ひしことと 神やいさめむ」
(この世の悲しみを尋ねるだけでも 誓いに背くと神は咎められるでしょう)
源氏 「見しをりの つゆわすられぬ 朝顔の 花のさかりは 過ぎやしぬらん」
(昔お会いしたときのことが忘れられません 朝顔の花の盛りはもう過ぎたのでしょか)
朝顔 「秋はてて 霧のまがきに むすぼほれ あるかなきかに うつる朝顔」
(秋が去って霧かかっている垣根にまつわりついて あるかなきかに衰えていく朝顔)
冴えない色艶の朝顔ですか?確かに私そのものですね・・・といったところで、長い間朝顔に思いを寄せ執着してきたものの最後まで愛を拒まれた源氏の求婚は遂に、空振りに終わってしまったのだ。(詳しくは、以下参考に記載の「『源氏物語』ウェブ書き下ろし劇場」の『源氏物語』の現代語訳/20 朝顔や、「『源氏物語』を読み解く」の源氏物語5…薄雲巻 ・ 朝顔巻 ・ 少女巻 ・ 玉鬘巻 ・ 初音巻などを参照されると良い)。
そういえば、私が、若い頃(昭和30年代頃)までは、好きな女性がいてもなかなか求婚など出来ずに、プラトニック(Platonic)な関係だけに終わってしまう人達も多かったと思うのだが、プラトニック・ラブなんて言葉は、今や死語と化しているようだ。もう、「出来ちゃった結婚」なんて言葉が、流行語のようにさえなっているのだから・・・。しかし、西洋などとは違って、古来日本の農村部には夜這いの風習などがあり、特に処女が尊重されることはなかったようで、近代日本の処女崇拝は、武士階級固有の武士道的な倫理(貞女二夫にまみえず)に、キリスト教的倫理が結合したところに成立した観念的な思想で、それが、元の日本の姿に戻ったということかな?(^0^)。
明治の時代、芥川龍之介が、1916(大正5)年25歳の時というから、東大の大学院で作家としてこれから第一歩を歩もうとしていた頃、後に妻となった恋人の塚本文(母の弟であり、友人でもある山本喜誉司の姉の娘)に送った、求婚の恋文がある。
「文ちゃん。
僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして 暮らしてゐます。
何時頃 うちへかへるか それはまだ はっきりわかりません。
が、うちへ帰ってからは 文ちゃんに かう云う手紙を書く機会がなくなると思ひますから 奮発して 一つ長いのを書きます」
・・・として、長い手紙が始まる。
(中略)
「文ちゃんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから 何年になるでせう。
(こんな事を 文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません)
貰ひたい理由は たった一つあるきりです。
さうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだと云ふ事です。
(中略)
僕のやってゐる商売は 今の日本で 一番金にならない商売です。
その上 僕自身も 碌に金はありません。
ですから生活の程度から云へば 何時までたっても知れたものです。
それから 僕は からだも あたまもあまり上等に出来上がってゐません。
(あたまの方は それでも まだ少しは自信があります。)
うちには 父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。
僕には 文ちゃん自身の口から かざり気のない返事を聞きたいと思ってゐます。
繰返して書きますが、理由は一つしかありません。
僕は文ちゃんが好きです。それでよければ来て下さい。」
(以下略。恋文の内容は、以下参考に記載の「芥川龍之介と一宮」に前文が書かれている。)
文子は、龍之介より8歳年下だから、この手紙を出した当時、文子はまだ16歳の女学生だったようだ。
以下参考に記載の「芥川龍之介の青春」によれば、“龍之介は、手紙を書くときには、句読点抜きの書き流し式文体を使用するのが例で、夏目漱石のような特別の上長に出す手紙にだけは、句読点を付けていたようだ。だから、文子に出したこの手紙に句読点がついているところをみると、彼はかなり緊張してこのプロポーズの手紙を書いたようだ。”という。
つまり、彼は、未来の妻に宛てた手紙は、彼の手紙の特色だった文人調のひねった筆致を捨て、ただ自分の気持ちをそのまま文章にしているのだ。この手紙には、彼の彼女への熱い思い・温かさ・愛情・幼い頃からの親しみが溢れている。
芥川のこの愛の告白文に心を打たれたのだろう文子は、この年末に、芥川と婚約し2年後の1918(大正7)年2月2日に結婚をしている。
しかし、結婚後の芥川は人妻との不倫、妻・文子の友人女性との心中未遂など、波乱に満ちた恋愛を繰り返した末、35歳のときに自殺した。芥川を巡る女性については、以下参考に記載の「芥川をめぐる女性」を参照、又、以下参考に記載の「芥川龍之介の青春」によれば、芥川の自殺には、芥川と文子が結婚後も彼等とともに同居していたという伯母 (文子への恋文の中に「うちには 父、母、叔母と、としよりが三人ゐます」と出てくる「おば」)が非常に関係しているようだ。
芥川がどうのこうのといったことは、この際は、どうでも良い。恋する人へのプロポーズの仕方は人それぞれに流儀があり、色々だろうが、私などは、今の時代であろうとも、やはり、芥川の文子への告白文のように、自分の気持ちを素直に打ち明けることが一番良いと思うのだが、それは、年のせいだろうか。
私など、親と家人の叔母とが勧めてくれた見合い結婚であり、その際にも、何か求婚らしきことをはっきりといった覚えもなく、何となく、見合いが成立したといった感じ。しかし、家人は、同居している私の母の面倒もよく見てくれたし、今まで、何事もなくこれたことを、私は、家人に心から感謝している。
元に戻るが、冒頭にも書いた私の大好きな歌手・ザ・ピーナッツの「ジューン・ブライド」は以下で聞けるよ。ここに選ばれている宮川泰作品ベスト8は全て素晴しい曲だが、この中では、第2位にランクされている。良い曲ばかりなので知らない人は是非一度聞いてみるとよい。結婚したくなるかもね。
ザ・ピーナッツが歌う宮川泰作品 私のベスト8
http://www.youtube.com/watch?v=h63OWLa4XW4
(画像はレコードジャケット・A面 ジューン・ブライド 、B面 ほほにかかる涙、ボビー・ソロのカバー曲KING RECORD BS-9)
このブログの字数制限上、参考は別紙となっています。以下をクリックしてください。このページの下に表示されます。
クリック ⇒ プロポーズの日:参考
ジューン・ブライド
お母さま お願い
ジューン・ブライド
あたしにも 着せてね
※そよ風のような ウエディング
白いドレス
あの人に 嫁ぐとき
ジューン・ブライド
神さまが くださる※
「ジューン・ブライド」(作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰、歌: ザ・ピーナッツ)
私の大好きだった歌手ザ・ピーナッツの歌であるが、ザ・ピーナッツといえば宮川 泰。宮川と言えばピーナッツ。 宮川は、1960年代のスター、ザ・ピーナッツの育ての親として数々のヒット曲を輩出している。そんな宮川がピーナッツに送った曲「ジューン・ブライド」。
「6月」の英語名である「June」はローマ神話のユピテル(ジュピター)の妻ユノ(ジュノー)から取られたが、このユノが結婚生活の守護神であることから、6月に結婚式を挙げる花嫁(bride)を「ジューン・ブライド」(June bride、6月の花嫁)と呼ぶようになったという(フリー百科事典Wikipedia)。この故事から、ヨーロッパなどでは天気の良い6月に結婚式をするのが良いとされているようだが、日本でもその慣わしをそのまま受け入れて、この蒸して暑い梅雨の6月に結婚式を行なう人が少なくないことを私など不思議にさえ思うほどなのだが、今日の「プロポーズの日」は、さらにこれを発展させたものか、この6月にプロポーズすれば幸せな結婚にゴールインできるとされることから・・・?プロポーズをするきっかけの日として誕生させたようだ。
プロポーズ (propose)は、英語では提案する、申し込むという意味であるが、日本語では、特に結婚を申し込むという意味で使われており、これを、日本語に直せば求婚のことだろう。
結婚は人生において大きな出来事の一つなので、求婚も大きな重みをもつ。女性にとっては結婚と同じぐらい重要でロマンチックなものであると考えられている。ま~、鬱陶しい梅雨時に結婚式を挙げるより、この時期にプロポーズ(求婚)でもして、それが、実れば、気分も爽快、心も晴れて良い気分だろう・・・が・・求婚は、男性にとっては関門の一つだともいえる。もし、振られたら・・・???
「求婚」については、日本に現存する最古の歌集とされている「万葉集」巻第一の巻頭に雄略天皇別名:大泊瀬幼武命(おおはつせわかたけのみこと)の以下の雑歌が掲載されている。
「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我(われ)こそ居(を)れ しきなべて 我(われ)こそ座(ま)せ 我(われ)こそば 告(の)らめ 家をも名をも 」
上記の歌の意味は、「おや籠を、籠を持って、おや箆(へら)を、箆を持って、この岡で、菜を摘んでおいでの娘さんよ。お家を聞かせてくれよ。お名前おっしゃいよ。大和の国は、すっかり俺が治めているんだ。あたり一帯、俺が治めているんだ。ではまず、俺の方から名乗ろうよ、家も名前も。」・・・といった意味らしい。
歌の中の「そらみつ」は、 「大和」の枕詞。神武紀によれば、饒速日命(ニギハヤヒ参照)が天磐船に乗って空から大和国を見て天降ったので「そらみつやまと」と言うようになったという(以下参考に記載の「雄略天皇 千人万首」参照。又、「名告(の)らさね」について、古代、名にはそのものの霊魂が宿っていると考えられ、名乗りは重要事だったらしく、男が女の名を尋ねるのは求婚を意味し、女が名を明かすのは承諾を意味したそうだ。また、早春、娘たちが野山に出て若菜を摘み食べるのは、成人の儀式でもあったという(以下参考に記載の「※万葉集」参照)。
万葉集は二十巻からなるが巻第一を原核とし、数次の編纂過程を経て成立したとされており、巻第一は、天皇の御代の順にしたがって歌を配列する構成がとられ、雑歌(公的な場で歌われたさまざまの歌)のみの巻であるが、その巻頭に倭の五王の一人とされている雄略天皇(第21代天皇)の歌で始まっているということは、奈良時代の人々においても雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことを示しているようだ。ただ、この歌は、雄略天皇が、万葉の時代から約200年も前の天皇であるため、実作ではなく伝承された歌謡と考えられているようだが、名前を名乗るだけで、求婚と言うことになるのであれば、今の時代の気の弱い男でも求婚しやすくっていいよね~。でも、今時の女性は積極的なので、男が、もたもたしていると、女の方から求婚してくるかも・・・。それを待つか・・・(^0^)。
奈良時代から平安の時代になると、宮廷に上り一条天皇中宮・藤原彰子(藤原道長の娘)に女房として仕えた紫式部(藤原北家の出で、女房名は「藤式部」「紫」の称は『源氏物語』の作中人物「紫の上」に、「式部」は父が式部省の官僚・式部大丞だったことに由来するとか)は、源氏物語の中で、母系制が色濃い平安朝中期を舞台にして、天皇の皇子として生まれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏が数多の女性遍歴を重ねながら、自己形成の道を歩む姿を描いている。幾多の女性との出会いと別れを繰り返し、あるときは女性たちの嫉妬に悩み、またあるときは自らの過ちに深く苦しむ。そんな光源氏がどうしても口説き落とせなかった女性が3人いる。 秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)、玉鬘(たまかずら)、朝顔の姫君の3人である。この中でも完全に源氏を振ったのは、朝顔の姫君であり、源氏物語第20帖に登場する。光源氏32歳の秋から冬の話である。
朝顔は、桐壺帝の弟・桃園式部卿宮の姫君で、光源氏のいとこにあたる。名前は、源氏からアサガオの花を添えた和歌を贈られたという「帚木(ははきぎ)」や「朝顔」の逸話からきており、そこから「朝顔の姫君」「朝顔の斎院」「槿姫君」「槿斎院」などの呼び名がある。54帖中2帖「帚木」から34帖「若菜」まで登場している。源氏が若い頃から熱をあげていた女君の一人で、高貴の出自のため正妻候補に幾度か名前が挙がり、正妻格の紫の上の立場を脅かした。姫君自身も源氏に好意を寄せているが、源氏の恋愛遍歴と彼と付き合った女君たちの顛末を知るにつけ妻になろうとまでは思わず、源氏の求愛を拒み続けてプラトニックな関係を保ち、折に触れて便りを交わす風流な友情に終始し、そのまま独身を貫き通して最後には出家してしまった。そんな、源氏と朝顔の会話に以下のようなものがある。
源氏 「人知れず 神のゆるしを 待ちし間に ここらつれなき 世を過ぐすかな」
(ひそかに神の許しを待っていた間 あなたに冷たくされながらも 長い年月を過ごしたものです)
朝顔 「なべて世の あはればかりを とふからに 誓ひしことと 神やいさめむ」
(この世の悲しみを尋ねるだけでも 誓いに背くと神は咎められるでしょう)
源氏 「見しをりの つゆわすられぬ 朝顔の 花のさかりは 過ぎやしぬらん」
(昔お会いしたときのことが忘れられません 朝顔の花の盛りはもう過ぎたのでしょか)
朝顔 「秋はてて 霧のまがきに むすぼほれ あるかなきかに うつる朝顔」
(秋が去って霧かかっている垣根にまつわりついて あるかなきかに衰えていく朝顔)
冴えない色艶の朝顔ですか?確かに私そのものですね・・・といったところで、長い間朝顔に思いを寄せ執着してきたものの最後まで愛を拒まれた源氏の求婚は遂に、空振りに終わってしまったのだ。(詳しくは、以下参考に記載の「『源氏物語』ウェブ書き下ろし劇場」の『源氏物語』の現代語訳/20 朝顔や、「『源氏物語』を読み解く」の源氏物語5…薄雲巻 ・ 朝顔巻 ・ 少女巻 ・ 玉鬘巻 ・ 初音巻などを参照されると良い)。
そういえば、私が、若い頃(昭和30年代頃)までは、好きな女性がいてもなかなか求婚など出来ずに、プラトニック(Platonic)な関係だけに終わってしまう人達も多かったと思うのだが、プラトニック・ラブなんて言葉は、今や死語と化しているようだ。もう、「出来ちゃった結婚」なんて言葉が、流行語のようにさえなっているのだから・・・。しかし、西洋などとは違って、古来日本の農村部には夜這いの風習などがあり、特に処女が尊重されることはなかったようで、近代日本の処女崇拝は、武士階級固有の武士道的な倫理(貞女二夫にまみえず)に、キリスト教的倫理が結合したところに成立した観念的な思想で、それが、元の日本の姿に戻ったということかな?(^0^)。
明治の時代、芥川龍之介が、1916(大正5)年25歳の時というから、東大の大学院で作家としてこれから第一歩を歩もうとしていた頃、後に妻となった恋人の塚本文(母の弟であり、友人でもある山本喜誉司の姉の娘)に送った、求婚の恋文がある。
「文ちゃん。
僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして 暮らしてゐます。
何時頃 うちへかへるか それはまだ はっきりわかりません。
が、うちへ帰ってからは 文ちゃんに かう云う手紙を書く機会がなくなると思ひますから 奮発して 一つ長いのを書きます」
・・・として、長い手紙が始まる。
(中略)
「文ちゃんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから 何年になるでせう。
(こんな事を 文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません)
貰ひたい理由は たった一つあるきりです。
さうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだと云ふ事です。
(中略)
僕のやってゐる商売は 今の日本で 一番金にならない商売です。
その上 僕自身も 碌に金はありません。
ですから生活の程度から云へば 何時までたっても知れたものです。
それから 僕は からだも あたまもあまり上等に出来上がってゐません。
(あたまの方は それでも まだ少しは自信があります。)
うちには 父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。
僕には 文ちゃん自身の口から かざり気のない返事を聞きたいと思ってゐます。
繰返して書きますが、理由は一つしかありません。
僕は文ちゃんが好きです。それでよければ来て下さい。」
(以下略。恋文の内容は、以下参考に記載の「芥川龍之介と一宮」に前文が書かれている。)
文子は、龍之介より8歳年下だから、この手紙を出した当時、文子はまだ16歳の女学生だったようだ。
以下参考に記載の「芥川龍之介の青春」によれば、“龍之介は、手紙を書くときには、句読点抜きの書き流し式文体を使用するのが例で、夏目漱石のような特別の上長に出す手紙にだけは、句読点を付けていたようだ。だから、文子に出したこの手紙に句読点がついているところをみると、彼はかなり緊張してこのプロポーズの手紙を書いたようだ。”という。
つまり、彼は、未来の妻に宛てた手紙は、彼の手紙の特色だった文人調のひねった筆致を捨て、ただ自分の気持ちをそのまま文章にしているのだ。この手紙には、彼の彼女への熱い思い・温かさ・愛情・幼い頃からの親しみが溢れている。
芥川のこの愛の告白文に心を打たれたのだろう文子は、この年末に、芥川と婚約し2年後の1918(大正7)年2月2日に結婚をしている。
しかし、結婚後の芥川は人妻との不倫、妻・文子の友人女性との心中未遂など、波乱に満ちた恋愛を繰り返した末、35歳のときに自殺した。芥川を巡る女性については、以下参考に記載の「芥川をめぐる女性」を参照、又、以下参考に記載の「芥川龍之介の青春」によれば、芥川の自殺には、芥川と文子が結婚後も彼等とともに同居していたという伯母 (文子への恋文の中に「うちには 父、母、叔母と、としよりが三人ゐます」と出てくる「おば」)が非常に関係しているようだ。
芥川がどうのこうのといったことは、この際は、どうでも良い。恋する人へのプロポーズの仕方は人それぞれに流儀があり、色々だろうが、私などは、今の時代であろうとも、やはり、芥川の文子への告白文のように、自分の気持ちを素直に打ち明けることが一番良いと思うのだが、それは、年のせいだろうか。
私など、親と家人の叔母とが勧めてくれた見合い結婚であり、その際にも、何か求婚らしきことをはっきりといった覚えもなく、何となく、見合いが成立したといった感じ。しかし、家人は、同居している私の母の面倒もよく見てくれたし、今まで、何事もなくこれたことを、私は、家人に心から感謝している。
元に戻るが、冒頭にも書いた私の大好きな歌手・ザ・ピーナッツの「ジューン・ブライド」は以下で聞けるよ。ここに選ばれている宮川泰作品ベスト8は全て素晴しい曲だが、この中では、第2位にランクされている。良い曲ばかりなので知らない人は是非一度聞いてみるとよい。結婚したくなるかもね。
ザ・ピーナッツが歌う宮川泰作品 私のベスト8
http://www.youtube.com/watch?v=h63OWLa4XW4
(画像はレコードジャケット・A面 ジューン・ブライド 、B面 ほほにかかる涙、ボビー・ソロのカバー曲KING RECORD BS-9)
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